第四章 破壊からはじまる(承前)
「熊坂先生じゃないですか!」
ベンチに座っていた羽奈が顔を上げると、目の前に初老の男性が立っていた。脂ぎった大きな顔に、ぎょろりとした目。成金っぽい派手なスーツ、ごてごてした指輪、ブランド物のクラッチバッグ。あのときからなにも変わらない。
「……池岡さん」
「いやはや、本当に嬉しいですな! ひょっとすると今日、お会いできるような予感を抱いていましてね。熊坂先生もあの作品を見にくるんじゃないかって。やはり、気になさっていたんですね?」
こちらが黙っていると、池岡は忙しなく視線を泳がせながら、勝手にしゃべりつづける。
「熊坂先生はどちらで今回の出品についてお知りになりました? 僕は業界の知り合いから偶然教わったんですけど、驚きましたよ。面白いことに、今しがた、その知り合いと実物を見にいきましたが、ピカソの作品だと信じ込んでいる様子でしたよ。今一度言わせてください、さすが、素晴らしい腕前だ」
「やめてください!」
つい口調が激しくなり、池岡が「えっ?」とわざとらしく眉をひそめた。いけない。池岡はあの壺の秘密を知る、一番の要注意人物なのだ。下手に刺激してはいけない。この男を敵に回すのは、自分のためにならない。
「すみません、失礼な態度をとって」
池岡は冷たく笑う。
「いいんですよ。こちらこそ、配慮が足りませんでしたね。こんなところで立ち話もなんなので、少しお茶でもいかがですか」
断ることもできず、さっさと歩きはじめる池岡のあとを追う。以前もそうだったが、気がつくと、この男のペースに呑みこまれている。腹立たしくなると同時に、いまだに抗えない自分が心底嫌になった。なぜか自分は昔から、強引な人を前にすると、首根っこを掴まれたウサギのように、なにもできなくなるのだ。
有明エリアのショッピングモール内にある、チェーン店の喫茶店に入った。満員なうえにBGMのボリュームが大きく、盗み聞きされる心配はなさそうだ。
「どうぞ。ご馳走しますから、遠慮なく」
四百円足らずのコーヒー一杯で、恩着せがましい口をきいてくるケチさは昔から変わらない。気前よく見せかけて、この男ほど、損得勘定でしか動かない人間を、羽奈は知らなかった。コーヒーには手をつけず、羽奈は切りだす。
「あの……池岡さんが出品したんですか?」
「まさか! 僕はもうとっくの昔に売りさばきましたよ。ああいう作品は現金に変えなきゃ意味がありませんからね。出品者は僕もよく知らないコレクターです。ちなみに、けっこうな金持ちだそうですよ」と、最後は芝居がかった小声になった。
へらへらしている池岡から目を逸らし、羽奈は拳をつくって握りこむ。
「すみませんが、私には到底喜べません。もし本当のことがバレたら、私はどうすればいいんでしょうか……」
「大丈夫。誰も疑いやしませんよ」
笑顔を消して、池岡は声を低くした。
「でも──」と羽奈の反論を遮って、言い放つ。
「すべての創造は、破壊からはじまる」
「……急になんですか」
顔を上げると、池岡が真顔でこちらを見据えていた。
「ピカソの言葉です。熊坂先生はいわば、破壊からキャリアを始動させたのです。伝統、真偽の境界、世間的評価。熊坂先生はそれらを破壊したうえで、今のような地位を築いたのですからね。もちろん、ご活躍はずーっと存じていましたよ。今じゃ新進気鋭の陶芸家としてメディアにもしょっちゅう出ている。ここまで立派な先生になられたのだから、むしろあの作品だって、逆に価値が上がったようなものです」
最後のせせら笑いに、猛烈な怒りがこみ上げる。
利いたふうなことを言わないで! 作家のことを一体、なんだと思っているの! 池岡のような詐欺師を儲けさせる道具ではない。あのときの報酬だって微々たるもので、結局こうしてリスクを負わされたのは、作家である自分だ。
しかし、今、池岡に抗議するのは、得策ではない。
そもそも口車に乗せられた自分にも非があり、あの壺をどうするのかを考えなければならない。
何度か深呼吸をして、ぎこちない笑顔をつくった。
「ありがとうございます」と答えている自分がいた。「ところで、池岡さんは、あの壺を入札するんですか?」
「まさか、手が届かない額です。もう私の手からは離れていますからね。傍観して楽しむだけです」
安堵しながらも、だからと言って、あの壺を贋作だと世にバラすつもりがないとは限らない。むしろ、己の利益や保身のためには、羽奈を貶めることは厭わないだろう。池岡はそういう男だった。
「そうですか。じゃ、私はこのあと、用事があるので……」
あいまいにお辞儀をして、羽奈は喫茶店をあとにした。
本当は、もう二度と会いたくなかった。会ったなら、面と向かって非難したかった。でもできず、また涙が出そうだった。泣いても仕方ないのに。
ショッピングモールを歩きながら、心のなかで鍵をかけてきたドアが少しずつ開いていく。
──この世でもっとも贋作が多い芸術家の一人は、ピカソなんですよ。
池岡からそう切り出されたとき、まだ二十代前半だった羽奈は、陶芸家とはとても胸を張って言えない無名の駆け出しであり、日々の食費すらままならないほどに困窮していた。だからグループ展で名刺を渡してきた池岡からの誘いも、無下に断ることができなかった。
──なぜそれだけ多いかわかりますか? 贋作だとわからないからですよ。言い換えれば、偽物をつくりやすいんです。数が多すぎて、ひとつやふたつ増えても、誰も気にしませんからね。とくにピカソ作品のなかでも、陶芸はわからない部分が多い。
ピカソは六十代半ばから陶芸制作をはじめ、一年で数百点にも及ぶ作品を残した時期もある。なぜそんなことが可能だったかというと、ピカソはじつは、自分で素地はつくらずに陶工がつくった既製品の皿や水差しをもとに、絵付けやちょっとしたアレンジといった仕上げをしたからだ。一人でつくるのではなく陶工とコラボして量産し、なかには複製が許可された作品もある。ピカソの陶芸品に謎が多い所以だった。
──きっとあなたは上手く複製できます。
あのとき自分は、どうして池岡の言う通りに実行したのだろう。後悔しきれない。池岡のことを最初から信頼できなかったし、他の選択肢を考えればよかった。結局のところ、自分の見通しの甘さのせいだった。過ちの代償は、想像をはるかに超えていた。
あの壺が贋作で、つくったのは熊坂羽奈だと世間に知られてしまえば、陶芸家としての自分のキャリアは終わる。
羽奈は陶芸家でいられない人生なんて、なんの意味も感じられなかった。他の仕事をするつもりはないし、今更どこかで雇ってもらえる自信もない。なにより、自分が諦めれば、工房のスタッフたちも露頭に迷う。今だって、増築した工房やギャラリーの借金を払うために経営はギリギリなのだ。
羽奈は立ち止まって、トートバッグのなかを覗きこむ。奥の方に、ハンカチにくるまれた筒状のあれが入っていた。自分はどうすべきなのだろう。オークションの開催を阻止するために、これまでさんざん他の方法も考えた。そのピカソは偽物だとネットで匿名の告発をすべきかとも迷いつつ、結局できなかった。
なぜなら、偽物だとわかれば、贋作者の正体に気がつかれるに違いないからだ。
あの作品には、とんでもない証拠が刻まれているのだから──。
(第30回につづく)