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第三章 変人と奇人(承前)

「そんな昔のこと、誰も憶えていないですよ。それに、うちで作品を売りたいと言ってきたのは、曽我くんの方からなんですから」
 アイザックは優雅に首を振る。
 自分の話をされていると気がついたのか、曽我がこちらに歩いてきた。グラフィティっぽいポップな作風で知られる曽我は、その装いもストリート系であるが、すっかり垢抜けてセレブらしい社交が板についている。
 曽我は笑顔で挨拶をするが、水久保の話をしていたとアイザックから聞かされたとたんに顔をしかめた。
「水久保さんねぇ……あの人はギャラリストに向いていないから」
「というと?」と、アイザックがわざとらしく訊ねる。
「商売が下手なんです。アートへの愛は伝わるけど、僕たちアーティストは売ってもらわないと食べていけませんからね。大々的に宣伝してもらえて、抱える顧客層も厚いところに作品を任せたいというのが本音ですよ」
「それは当然です。アーティストが命を削って制作した作品だからこそ、きちんと対価が支払われるべきでしょう」
 アイザックは満足げに言い、曽我は「ほんと、そうっす」と大きく肯いた。
「でも水久保さんがいなければ、今だに芽さえ出ていなかった可能性はないですか? 彼ほどすべてを捧げて、所属アーティストに尽くすギャラリストはいません」
 美紅は代弁するように反論する。
「すべてを捧げて? よく言えますよ。あの人は作品を売るための計画性がない。営業もろくにしないし、売れたと思ったらとんでもないコレクターだったりする。ただ作品や僕たちの才能を褒めるだけで。ミズクボにいた頃に売れた作品は、どれも単なる幸運の結果か、僕自身のコネクションを頼ったかのどちらかだ。それなのに売上の半分も持っていかれるなんて不公平です」
 曽我の口調は激しく雄弁で、彼の中で水久保への鬱憤が溜まっており、所属を辞めた今もそれなりにわだかまりを抱えたままであることが伝わった。鷹揚に、アイザックが口をはさむ。
「たしかに、曽我くんの才能を最初に発掘したのは水久保さんかもしれません。しかしいつまで経っても売ってくれないギャラリストに、魂をかけて生みだした大切な作品を委ねつづけるべきだとは思わない」
 美紅はもう反論しなかった。
 他の招待客から声をかけられ、曽我は「じゃ、失礼します」とその場を離れた。
 
 ホテルのエントランスを出て、首都高の高架下沿いの賑やかな大通りからタクシーを拾った。車窓を流れる高層ビルの光を眺めていると、パーティ会場からずっと黙っていた美紅が、やっと口を開いた。
「アイザックも悲しい男ね」
「悲しいって?」
「ああいうふうだから、社長にもフラれたのよ」
「どういう意味ですか」
 美紅はこちらを見て、ほほ笑んだ。
「あの二人、元同僚なのよ。アイザックも同じく外資系の銀行で投資担当だった。社長にとってアイザックはいわば優秀な後輩で、よく二人で組んでいたらしい。でも社長は、退職してオークションハウスを立ちあげるとき、アイザックを誘わなかった。むしろアイザックの方は一緒に働きたかったらしいんだけど、社長は断ったんだって」
 凜太郎は衝撃を受けながら、唾を飲み込んで言う。
「じゃあ、アイザックが東オクになにかと嫌がらせをしてくるのは、社長への恨みがあるからってことですか」
「恨みというよりも、愛憎に近いんじゃない? 今じゃ、アイザックは大手外資系オークションハウスの支店長で、社長は独立しても景気が悪いでしょ。だからアイザックとしては、ざまあ見ろ、なんだろうね」
「もしかして、爆破予告をしたのはアイザックってことはないですよね」
「はい? なにを根拠に? 社長のほうが不遇なのよ」
 美紅はくだらなそうに答えるが、凜太郎は口に出したとたんに、そう思えてならなくなる。アイザックが社長に対して個人的なわだかまりを抱いているならば、それを晴らすために爆破予告をしてきた可能性もある。
「ひとつ聞きたいのですが、なぜ社長はアイザックを誘わなかったんでしょう」
「さぁね。単に彼とは考え方が合わないと思ったのか、それ以外の理由があったのかは知る由もないわ。ただ、確かなのは、社長はアイザックじゃなくて私に声をかけてきたってことよ」
「たしか社長は、美紅さんのご実家の骨董店に出入りしていたんですよね?」
「ええ。たまに顔を合わせたら作品の話をしたり、父や社長の買い付けに同行したりもしていたから、人柄はお互いに知るところだった。でも父が早くに亡くなっちゃって、私もアート系の働き口を探していたから、一緒にやらないかって誘われたのよ。父となにか約束でもしたんじゃないかしら」
「社長らしいですね」
 美紅は見たこともない優しい横顔で、肯いた。
 同時に、美紅らしいとも思った。一見厳しそうで人を寄せ付けないように感じられるけれど、じつは人とのつながりや過去の恩義を大切にする美紅だからこそ、社長とやっていこうと心を決めたのだ。
「美紅さん」
 凜太郎は改まって美紅の方に向き直り、その手を握らんばかりに身を乗りだした。
「なによ、急に」
「正直、僕はここ数日、アートの仕事やそこに携わる人たちに渦巻く、嫉妬や劣等感、欲望や執着といった負の感情に圧倒されました。水久保さんの状況を知ったときも、アートへの愛さえあればなんとかなると信じていた自分が、いかに短絡的で能天気だったかに打ちのめされた。でも……」
 凜太郎は言葉を切って、呼吸を整えた。
「僕は東オクの一員として、せめて自分にできることをしたいです。今の話を聞いて、そう決意しました。だからこそ、美紅さんに今、お願いしたいです。水久保さんを助けてあげてください。それができるのは、たぶん美紅さんしかいません」
 しばらく腕組みをして凜太郎を見ている美紅の前で、やはり偉そうなことを言い過ぎただろうかと気後れする。単なるアシスタントなのに美紅に物申すなんて、何様だと思っているんだ。凜太郎はただただ萎縮した。
 けれど、美紅は実際、安村のことも上手に勇気づけ、結果的にみんなにとっていい方向に導こうとした。水久保にしても、誰かの助けを待っているはずだ。美紅の言葉を待つ。
「少しは成長したじゃない」
 思いがけない返答に、「えっ?」と顔を上げると、美紅が微笑を浮かべていた。
「言われなくても考えてあるわ」

 

 (第23回につづく)