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第四章 破壊からはじまる(承前)

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 オークションの時間に戻ってくると約束し、満足げに去っていったロンドンのキュレーターと別れたあと、凜太郎はスマホを確認する。数分前に、美紅から着信が入っていた。折り返すと、コール音が鳴る前に美紅の声がした。
「今すぐに応接室に来て」
 声の緊迫さから、走って向かう。途中、他の顧客から声をかけられたが、丁寧に断りを入れて急いだ。
 ドアをノックする前に、聞き覚えのある声がした。もしかして──。
 勢い余ってドアを開けた先にいたのは、思った通り、アイザックだった。
 また、この男か。凜太郎は反射的に身構えたが、正面に腰を下ろしている社長と、そのとなりにいる美紅は、なぜか彼と争っていた様子はなく、全員がリラックスした姿勢で笑っている。どういうことだろう。
「悪いな、小洗。呼びだしたのは、じつはアイザックから、ちょっとした情報をもらったからなんだ」
 社長はもったいぶって言い、凜太郎に手前の席に座るように促す。
「端的に言って、ピカソの陶芸品は贋作だと分かった」
 信じられなかった。自らの審美眼に自信はないけれど、ロンドンのキュレーターがあれほど太鼓判をしていた作品だ。専門家も騙されたというのか。凜太郎は「えっ、どういうことですか?」と声が裏返る。
 社長からの視線を受け、アイザックは話を引き継ぐ。
「最近、キャサリンズにも、似たようなピカソの陶芸品が出品されたんだが、来歴に関わる契約書や保証書、ステッカーの類に違和感があった。本物のそれに酷似しているが、少しずつ不自然だったんだ。そのことに気がついたうちの優秀なスタッフが、科学調査を外部に依頼したところ、素地の成分はピカソのそれとは一致せず、焼成しようせいされたのも数十年前だという結果が出たわけだ。つまり、ごく最近につくられた贋作だと判明した」
 アイザックが指したテーブルの上には、キャサリンズの内部資料であろう、一点の陶芸品の画像と、科学調査の結果がまとめられた書類があった。この日、東オクで出品される陶芸品とはデザインも色も違うが、全体的なサイズや女性を模しているという点ではよく似ている。
「類似品が多いのはピカソの特徴です。だからって、東オクの作品まで贋作とは限りませんよね?」
「君はずいぶんと楽観的な性分のようだね」と、アイザックは肩をすくめて笑った。「同時期によく似た作品が近くの市場に現れ、そのうちの一点が贋作と判明すれば、他もそうだろうと疑って当然じゃないか? 仮にキャサリンズなら、贋作の可能性が少しでもあれば出品を取りやめる。顧客からの信頼を守るためにね」
「でも待ってください──」
 凜太郎が声を荒らげるのを、美紅が遮った。
「ありがとう、愛作。忙しいなか、貴重な情報を提供してもらえて助かったわ。まずはお礼を言います。ただ、東オク社内で話し合う必要があるから、もう少し教えてもらえるかしら。まず、そんな情報をご親切にも敵に渡してくれるなんて、あなたらしくないんじゃない? それとも、心を入れ替えた?」
 アイザックは腹の内の読めない笑顔で、優雅に腕を組んだ。
「私の仕事は、キャサリンズの日本市場を開拓することだ。もし日本にいる顧客が、美術市場への信頼を失えば、多大な損害を受ける。だとすれば、業界の信頼を守るために、情報提供するのが合理的だ」
「なるほど」
 美紅は即座にうなずくが、「でもなぜ土壇場になって?」と質問を重ねる。
「科学調査の結果が届いたのは昨晩だった。君たちには都合が悪いかもしれないが、本番のセールスに間に合ったんだから、せめて感謝してほしいね」
 美紅は社長と顔を見合わせ、「わかった」とアイザックに手を伸ばした。
「感謝するわ」
 友好的に握手をしている三人を傍観しながらも、凜太郎のなかに疑念が広がる。アイザックは本当に正しい情報を提供してくれているのか。真の動機は、東オクのセールスを邪魔するためではないのか──。
 
 アイザックが去ってから、凜太郎は二人に激しく抗議した。
「いいんですか? あんな人の言いなりになって!」
 美紅は上目遣いで凜太郎を見据えた。
「少し落ち着きなさい。言いなりになるわけじゃないし、それが競合他社からの情報だとしても、状況判断に私情をはさむわけにもいかない。情報源が誰であれ、疑わしい作品は慎重に扱う。あなただって、落札された作品が偽物だった場合、ものすごく煩雑な対応を求められてきた例を見てきたでしょう? しかも、贋作の疑いを東オク側が知っていたとなれば、訴えられる可能性だってある」
 言葉が見つからない凜太郎をよそに、社長が答える。
「そうだな。この情報をアイザックから聞かされた以上、知らなかったでは通用しない。せめて今回の出品を待って、先に調査に回すのが妥当かもしれん。出品者は間違いなく気を悪くするだろうが……」
「それに、わざわざ来日した入札予定者もいます」と、凜太郎は必死に訴える。「あと、担当者の宇垣さんは、このことを知っているんですか?」
「まだよ。何度か電話したけど、今は顧客対応中でつながらない。オフィスに戻ったら即相談するけど、気が重いわね」
 応接室に沈黙が下りる。
 凜太郎はどうしてもアイザックを信じられなかった。東オクが対応に追われて混乱するのを見越して、突き止めた贋作情報を、あえて直前になって情報提供してきたとしか思えない。なぜなら今日のオークションでも重要な一点であるピカソの陶芸品が欠ければ、売上も大幅に減少するからだ。
 凜太郎はみぞおち辺りに重みを感じた。アイザックのような種類の人間とは、凜太郎はとくに海外に住んでいた頃、何人か出会ったことがあった。競争心が強く、自分の利益のためには他人を蹴落とすことに躊躇がない。親切心や同情心はこれっぽちもなく、つねに損得勘定で動いている。そんな人は一定数いる。
「不満げだな、小洗」
「……申し訳ありません。でも、どうしても割り切れなくて」
「アイザックのことが信用できないか?」
「正直に申しあげると、その通りです。僕はどうしても、アイザックが僕たちを邪魔するために仕掛けたようにしか思えません」
「だとしても、俺たちは顧客のために最善を尽くさなきゃいけない。そもそも真贋を見抜けなかった俺たちが悪いんだし、アイザックを責めても仕方ないんだ。アイザックも彼なりの正義で動いているしね」
「正義?」
「アイザックの父親はアメリカ有数の投資銀行の重役で、母親はアート系専門の弁護士だ。今の仕事に就くべくして就いたサラブレッドに見えるが、前職で親しくなったとき、彼は両親との関係が冷え切っていると打ち明けてきたことがあった。それも、こちらを油断させる方便かもしれないが、一見恵まれた境遇でも、本人はそうは思えないことだってある。それと同じで、相手の行動をどう受け止めるかは、こちら次第だよ」
 意味深げに言い残し、社長は応接室を去った。

 

                        (第31回につづく)