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第五章 オークション(承前)

「たしかに、あの壺は贋作です」
 バックヤードの隅から声がして、全員がふり返った。発言したのは社長ではなく、アイザックだ。どこから入ってきたのか、アイザックは周囲に有無を言わせない物腰で、テーブルの上に鑑定結果の資料を広げた。
「私はキャサリンズ東京支店の者ですが、似たようなピカソの偽物の問い合わせがありましてね。おかしいと思って調査をしたら、贋作だとわかりました。熊坂さん、この壺もあなたがつくったものですか?」
 羽奈は目を丸くした。
「はい……間違いありません。こっちの方は出来栄えが悪かったので、模造品としても売れないだろうと、とっくに忘れていましたが……」
「なるほど。彼女の証言だけで結論を出すのは早いですが、科学調査をすれば今後はっきりするでしょう」
「そ、そんな……」
 西野はその場にへたり込み、声を震わせながら訊ねる。
「東オクは本当に、そのことを知らなかったんですか? キャサリンズはこんなに調べていたのに?」
 ああ、もう駄目だ。凜太郎は目をぎゅっと閉じる。
「いいえ」と、アイザック。
「えっ? 本当ですか?」
 アイザックは腹のうちの読めぬ顔で説明をする。
「うちの作品の調査が終わったのは、セールスがはじまる直前です。東オクのみなさんは準備の真っ最中で、この結果を知る余裕もありませんでした。それに、仮に彼らの調査が足りなかったとしても、オークションハウスに真贋鑑定の責任を負わせるのは責任転嫁だ。われわれオークションハウスは、玉石混淆の作品を平等に扱うことが仕事で、その質を判断するのは落札者ですからね。それとも、あなたのキュレーターという肩書はなんのためについているのですか?」
 キュレーターはぐうの音も出ないようだ。
 それにしても、あのアイザックが助け船を出してくれるなんて──。
 呆気にとられる凜太郎をよそに、アイザックはつづける。
「だからこそ、オークションハウスでは、取引成立後その作品が贋作だとわかった場合は払い戻しに応じる、という規程を第一に設けています。言ってみれば、落札者の意向に委ねられているんですよ」
「ちょ、待ってください」と、西野が挙手し、涙声で訴える。「しかし壊されたのは、競りが成立する前で、あくまで私の所有品だった。私はまだ信じませんが、贋作疑惑まで持ちあがっている。結局、私だけが大損をした、ということになるじゃないですか!」
 膝から崩れ落ちた西野に声をかけたのは、社長だった。
「いえ、そうとも限りません。保険をかけているでしょう」
 西野は「あ」と目を見開き、みるみる明るい表情になった。
「……そうか! かけています!」
「このたびはご迷惑をおかけし、大変申し訳ありません。ですが、不幸中の幸いとして、西野さんもオークションハウスもあの作品には保険をかけている。今後の保険会社とのやりとり次第ですが、東オクでは全面的に協力します」
 社長は深々と頭を下げるが、西野は社長の主張に賛同したのか、もう気持ちを切り替えたらしく「いえいえ、もういいんですよ」と態度をふたたび一変させる。
「キャサリンズの方がおっしゃる通り、私にも、作品の真価を見抜けなかったという責任があります。それに、冷静に考えれば、贋作だとわかった以上、壊れてよかったという側面もある気もします」
 早々と気持ちを切り替えて笑う西野を見ながら、なんとか場が丸くおさまってよかったと凜太郎は安堵する。キュレーターは最後までバツが悪そうにしていたが、それ以上抗議はしてこなかった。
 羽奈は器物損壊の容疑で、まもなく現れた警察に連れていかれた。一瞬、羽奈は、近くに立っていた美紅に、なにか言いたそうに視線を投げたが、そのまま去っていった。凜太郎はふと、例の爆破予告のことを思い出したが、口に出す必要はないと思った。
 
 午後三時、オークションが再開することになった。火災の発生はなく、会場の安全が素早く確認されたのと、まだ競りが終わっていない半分ほどの作品への問い合わせが多かったからだ。東オク社内では、中止にすべきという意見もあったが、ありがたいことに、ほとんどの顧客は帰らずに会場にとどまっていた。
 ふたたび栗林社長がオークショニアとして壇上に上がったとき、拍手さえ起こった。
 その様子を見届けたアイザックが、会場から去っていく。
 凜太郎はアイザックの姿を追いかけて、「あの」と声をかけた。
「ありがとうございました」
 アイザックはふり返ると、眉をひそめて答える。
「君のためになにかしたか?」
「いえ、僕がお礼を言う筋合いはないのかもしれません。でも僕は、あなたのことを誤解していました。申し訳ありません。やっぱりアイザックさんは、社長に恩義を感じていらっしゃるんですね」
 アイザックは凜太郎を見据えてから、鼻で嗤った。
「君は若いね」
「ど、どういう意味ですか」
「私のことを単純な悪者として、軽く見ていたんじゃないか? 私にとっては、東オクがあっけなく潰れてしまうのもつまらないんだよ」
 アイザックは上品な香水のフレグランスを残したまま、颯爽と去っていった。
 
 *
 
 オークションが再開され、ふたたび作品が壇上に運びあげられたとき、会場から拍手が起こった。さきほどより一割ほど減ったとはいえ、会場にはまだ大勢のアートファンが残っている。ここまで来れば、この日のオークションを最後まで見届けたいという、団結したムードに包まれていた。
 コダマの《ダリの葡萄》の順番が回ってくるまで、あと三作品。
 水久保は固唾をのんで、会場を見守っている。
「さっき競りにかけられていたピカソの壺、割られたらしいですよ。しかも噂によると贋作だったとか」
 となりに座っているミズクボギャラリーのアシスタントが、なにやらスマホをいじりながら、水久保に声をかけてくる。
「そうなのか?」
「見てください」
 掲げられたスマホの画面には、早くもSNSに流されたという、まさにピカソの壺が壇上で割られる瞬間が、動画で再生されていた。犯行におよぶ女性の、どこか覚悟を決めたような表情が、水久保の心を揺り動かす。なぜか涙さえ込みあげる。心に湧いてくるこの強い感情がなんなのか、自分でもよくわからなかった。
「非常ボタンを勝手に押したり、どさくさに紛れて作品を壊したり、今日はめちゃくちゃな客ばかりでしたね。しかも一人は警察に連れていかれたらしいですし。自分には信じられませんよ。後先を考えないんでしょうか?」
 こちらの変化に気がつかないアシスタントは、愉快そうに話しつづける。
「後先を考えられなくなるときが、人にはあるんだよ」
 水久保は呟いた。
「えっ、なにかおっしゃいました?」
 アシスタントに訊き返されたが、水久保はなにも答えなかった。答えたくなかった。今のこの気持ちをうまく説明できないし、説明したとたんに陳腐になりそうだ。代わりに自分のSNSをひらくと、たしかに水久保の知り合いも例の動画を拡散していた。水久保は心ここにあらずで、何回も動画を見つめる。
 そうか、自分は羨ましいんだ──。
 この壺を壊した女性のことが、水久保には眩しくてたまらなかった。既存のシステムや価値基準に反抗するように、迷いのない顔つきで壺を床に叩きつけた女性の姿が、水久保の目には英雄としてうつった。そして、もっと知りたかった。なぜこんなことをしたのか、心ゆくまで語り合いたかった。
「いよいよコダマさんの作品ですね」
 アシスタントの声にわれに返り、水久保はスマホから顔を上げる。そこには昔コダマ本人から買い取った特別な絵、《ダリの葡萄》があった。自分とコダマとの絆を象徴するような一点であり、ギャラリストとして独立する覚悟を決めるときに、何度も鑑賞した一点でもある。
「俺はどうやって、自分の行動に責任をとればいい?」
 何度も自問してきたフレーズが、口をつく。
 アシスタントは「急にどうしたんです?」と目をしばたかせている。
 しかし、水久保は答えが欲しいわけではなかった。
「つづいては、コダマレイの《ダリの葡萄》。二百万円からのスタートです」
 壇上に立つ栗林社長が声を張ると、会場では十を超える札が上がった。ひとまず入札があってよかった。つかの間、安堵しているうちに、みるみる金額は跳ね上がり、あっというまに予想落札額である五百万円を超えた。
「そちらの前方の男性から、五百五十万。ありがとうございます。冬城さんの対応する電話口から、六百万円。つぎは六百五十万円ですが、いかがでしょうか?」
 競りあっていた前方の男性が、首を左右に振った。降りたのだ。
「六百万円で、冬城さんの電話口の方が入札。他に、いらっしゃいませんか?」
 栗林社長が会場を見渡したとき、コレクター桜井の札が上がった。
「そちらのご婦人から、六百五十をいただきました」
 桜井は一瞬、水久保のいる方向をふり返る。
 かすかに微笑まれ、水久保は拳を固く握りこんだ。
「よかった、桜井さん! 入札してくれましたね」
 アシスタントが小声で歓喜するが、水久保は罪悪感で胸がふさがる。たとえセクハラされても、無茶で横柄な態度をとられても、桜井はミズクボギャラリーのことを応援してくれている貴重な客には違いない。そんな桜井を騙すような真似をして、本当に許されるのだろうか──。
「冬城さんから、もう一度札が上がりました。ただし、六百八十万円。そちらのご婦人は刻みますか?」
 すぐさま桜井が手で合図を返す。
「七百万! ご婦人からの入札がありました。冬城さん、どうしますか?」
 美紅は受話器を置いて、首を左右に振った。電話口の顧客は、勝負を諦めたのだった。結局、桜井が競り勝った。しかも当初聞いていた予算ぴったりで。
「では、七百万円! よろしいですね?」
 社長がハンマーを下ろそうとした瞬間、会場の端にいたスーツ姿の男性が、高く手を挙げた。しかも札をまっすぐに立てている。それは刻み方を増やして百万を上乗せするという合図だった。
「八百万の入札がありました」

 

                        (第41回につづく)