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 第二章 サラリーマン・コレクター(承前)


 まもなく藍上のもとに、アシスタントや所属する画廊のスタッフがぞろぞろ現れてともに去っていった。
「あのとき、どうして僕にすすめてくれたの? これを買った方がいいって」
 小洗凜太郎の前だったが、もう安村は構わなかった。先見の明があるカリスマ的なコレクターを演じるなんて馬鹿らしい。他人からの評価なんてどうでもいいではないか。本来の自分を取り戻したい。
 美紅は眉を上げ、こう答える。
「つくり手を応援したいっていう、安村さまの気持ちが伝わったんです。でも驚かされたのは私の方でしたよ。即座に安村さまが購入なさったので」
「そう?」
「私はただ、助言をしただけですから」
 不敵にほほ笑んでから、美紅はつづける。
「たしかにアート・コレクションというのは、欲が絡んだとたんに胡散臭くなるものです。でも世界でたったひとつしかない作品が手に入るという点では、どんなブランド物や高級品よりも価値があると私は思います。安村さまもその魅力を身をもつてご存じだから、今までつづけてきたのでしょう?」
 安村は目が覚めた気分だった。
 ──自分を見失っている。
 たしかに妻の言う通りだった。
 アートを買いたいと最初に思った理由を、安村はいつのまにか忘れていた。
「妻には改めて謝らなきゃいけないな……私がこうして好きなことをつづけてこられたのは、妻の存在あってこそなのに」
 思わず本音を漏らすと、傍らで話を聞いていた凜太郎が一歩前に出てきた。
「安村さん、どうか今のお言葉を佳代子さんに伝えてあげてください!」
「えっ、どうして君が急に?」
「すみません、じつは僕さっき佳代子さんと少しお話しさせていただいたんです」
 凜太郎から簡単に事情を聞き、安村は即座にスマホを手にとる。佳代子に今どこにいるのかを訊ねるためだ。もう帰り道でも構わない。とにかく話すべきだと思った。東京オークションの二人に別れを告げ、有明駅へと走りながら、ポケットに入れたままになっていたアイザックの名刺が指に触れる。
 今回彼に連絡するのはよそう、と安村は決意した。

 *

 日の沈みきった湾景を窓越しに眺めながら、凜太郎は給湯室でコーヒーを淹れた。今日もなんとか終わった。オークション当日まであと二日。明後日のセールスが終われば、社内の緊張感も解けるだろう。
 オフィスに戻って、コーヒーと一緒に安村から差し入れでもらった〈ふたば〉のたい焼きを美紅に手渡す。
「ありがとう」
 周囲の社員が出払っているのを確認してから、凜太郎は声のボリュームを落として訊ねる。
「美紅さんのご実家って、骨董店なんですか?」
 美紅はキーボードを打つ手をピタリと止めて、しばらく固まっていた。
 またしても、なにかいけないことを訊いただろうか──。
 やがて顔を上げると、険しい目をしていた。困惑する凜太郎に、美紅は小さく息を吐いて言う。
「これだから社長は口が軽くて困るのよ」
「すみません。聞いちゃいけないことでした?」
 美紅は呆れたように笑ったあと、こちらに向き直った。
「そんなことないけど。間違いなく、うちの実家は骨董店だったし」
 だった、ということはもう今はないのだろうか。
「その……僕もっと美紅さんのことを知りたいんです。アシスタントとしていい働きができるように」
 しばらくこちらを見つめたあと、美紅は「どうぞ」と言って腕を組んだ。「質問があるんなら」
「じゃあ、遠慮なく……骨董店はもうないんですか?」
「両親は二人とも亡くなってるからね。ちなみに、凜ちゃんが想像してるような骨董店とは違うと思う。閉店間際の頃はあまりにも雑多に物が置いてあったから、ゴミ屋敷だと勘違いされたくらい」
 自虐的な笑みを浮かべる美紅に、凜太郎は問う。
「どういった物を扱っていたんです?」
「美術品の他にも、家具や道具、骨董品の範疇に入ればなんでも扱ってたかな。広すぎるでしょ。父はどんな物にも敬意を払って、とくに価値を見出したお気に入りには、誰がなんと言おうと大切にした。それに父は博識であらゆる物に通じていたから、話を聞くだけで楽しかった。あんなに骨董好きな人には出会ったことがないかな」
 なつかしそうに話すと、美紅は黙りこんだ。
「でも私が実家の店から学んだのは二つ。ひとつは物の価値なんて不確かだってこと。置かれる場所や売られるタイミングによって、物の価値は天地ほど違ってくる。もうひとつの学びは、それでも稀に普遍的価値を持つ物は存在するってことね」
 言葉の意味を考えている凜太郎に、美紅はつづける。
「栗林社長はうちの店に通ってくれていたお客さんなの。もともと両親と知り合いでね。作品をうちに売りにくることもあったわ」
「栗林社長って、以前は外資系銀行で投資をなさってたんでしたよね?」
「そうよ。その頃からコレクターだった栗林社長は、よく両親に作品のことを楽しく雑談しにきていたってわけ。あら、噂をすれば」
 美紅の視線を追うと、オフィスの入口から栗山社長が現れた。
 なにやら、その場にいるスタッフを全員集めて、緊急に話したいことがあるという。
 オフィスの談話スペースで真ん中の席につくと、社長は言う。
「爆破予告の件で進捗があってね。コンビニの防犯カメラに、うちへのファックスを送ったときの映像がうつっていたらしい」
 掲げられた社長のタブレットには、コピー機の前で黒いパーカー姿の何者かが立っている写真があった。周囲の棚と比較して、身長は百六十前後だろうか。パーカーは身体のサイズに対してゆとりがあり、ズボンも大きめである。少なくとも大柄な人物ではなさそうだ。
「女性……?」と、美紅が呟く。
「その可能性もあるが、確証はない」
 社長は渋い顔で腕組みをした。
「もう少し顔がわかればいいんですけどね。アート市場界隈の人ならわかりそう」
 凜太郎の発言に、美紅はぴしゃりと言う。
「それはどうかな。家族かもしれないし」
 このとき、安村の妻、佳代子の不満げな表情が、凜太郎の頭をよぎった。

 (第16回につづく)