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第四章 破壊からはじまる(承前)

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 東京オークションの会場で小洗凜太郎というスタッフに声をかけられた熊坂羽奈は、心臓が破裂しそうなくらい焦っていた。そもそも会場に着いたときから、もっと煌びやかな服装をして来ればよかったと激しく後悔していた。アース系の色合いのコートもジーンズもあえて選んだのに、これでは逆効果ではないか。
 けれど、小洗はこちらの動揺に気がついていないようだった。
 昔から親に、あんたは感情が読みとりづらいと言われてきた。子どもらしくないし、素直じゃないとも。ネガティブな評価は羽奈の人格形成にも影響し、おかげで人付き合いは苦手になったが、このときばかりは助かった。
「ご不明な点があれば、なんでもおっしゃってくださいね」
 こちらの動揺をよそに、小洗は爽やかな笑みを向けてくる。親切そうではあるが、どこか空気が読めない感じがして救われる。オークションハウスの職員は、凡人には縁のないような大金を扱う職業のせいか、浮世離れしたタイプが多いのだろうか。
 羽奈は呼吸を整えながら、思い切ってこの作品について情報を引き出そうとする。
「入札の問い合わせってありますか?」
 もし誰もこれに興味を持っていなければ、なんの問題もない。けれど、小洗からの返答は案の定、自分の甘さを思い知らせる。どうやら淡い期待とは裏腹に、かなりの入札が予想されるらしい。小洗は嬉しそうに、その壺を眺めながら教えてくれる。
 それまで直視できなかったが、ようやく羽奈はピカソの名前がキャプションに記された陶芸品を、正面から見据えた。
 釉薬の色味や筆遣いも、素地の形も完璧だった。どこからどう見ても、ピカソらしい風格と美しさを備えている。そう、美しかった──。
「ご興味を持ってくださっているんですね?」
 見惚れていると勘違いされたらしい。いや、実のところ、見惚れていた。小洗からほほ笑みかけられ、羽奈はさらに焦る。必死に誤魔化すと、小洗は逆に、この作品によほど関心があると思ったのか、ピカソについて、その陶芸作品の特徴について饒舌に解説した。羽奈はなにも知らないふりをして、相槌を打つしかない。
「おっと、申し訳ありません。つい語りすぎてしまいました」
「いえ」と、羽奈は目を逸らす。
「……あの、もしかして、この作品について、なにか気になる点でも?」
 小洗が澄んだ目でこちらを見つめてくる。
「だ、大丈夫です! すみません、私もう行かなくちゃ。いろいろと教えてくださって、ありがとうございました」
 お辞儀をして、無理やりに会話を終わらせた。
 そのとき、小洗のところに身なりのいい外国人男性が近づいてきたので、羽奈は再度頭を下げて、その場から離れた。とはいえ、不安が残るので数メートル先に留まり、別の作品に興味があるふりをする。
 小洗と男性客のやりとりが聞こえてきた。やりとりは英語だが、羽奈は母親が英語教師だったので英会話は昔から得意だったし、外国人の客やディーラーとも日々直接商談している。どうやら男性客は、ロンドンの美術館で働いているキュレーターらしい。その肩書を聞いただけで、羽奈の心拍数は上がった。もしや、彼はこの作品の真偽を疑っているのではないか。
「ついに実物を見られて感激していますよ。間に合って本当によかったです。素晴らしい作品だと思います。こんなにも状態がいいとは予想しませんでした。正直、カオリから情報をもらったときは半信半疑だったんです。世に多く出回っている偽物のひとつじゃないかってね」
 羽奈は振り返りそうになり、思いとどまる。
「でも確信できました。これは間違いなく、晩年のピカソが生みだした作品だとね。唯一無二の天性によって、丹念につくりだされた傑作だ。僕は断言できる。何点も実物を見てきたからこそ、一目でわかった──」
 それ以上、冷静に聞いていられなかった。なるべく気配を消し、そっとその場を立ち去る。さまざまな感情が渦を巻いて、鼻の奥が痛いほどだ。見るからに一流そうなキュレーターがそんなことを言うなんて。
 一層まずい事態なのに、なぜか口元がほころんでいた。こんなときに幸福感なんて抱いている場合? と慌てて顔を左右に振った。とにかく落ち着こう。会場の隅にあるベンチに腰を下ろし、ペットボトルの水を飲む。
 そのとき、羽奈を現実へと引き戻すように、スマホが着信を知らせた。
「もしもし。熊坂先生ですか? 外出中に申し訳ありません。今日使う釉薬についてお訊きしたいことがあって」
 聞き慣れた若い助手の声だった。
「ああ……どうしました?」
「今工房にいるんですけど、先生が準備してくださっていた釉薬のバケツが見つからないんです。どちらに仕舞われました?」
 声が出なくなる。あれに使ったからだ。
「もしもし? 先生、聞こえてます?」
「ご、ごめんなさい、うっかり外に出したままにしてしまいました。新しいバケツが廊下の奥にあるので、それを使ってください」
 しばらくバタバタと移動する音があって、「新しいものがありました。お騒がせして申し訳ありません」と明るい声が返ってきた。
「こちらこそ。じゃあ、今日は帰りが遅くなると思いますが、留守をお願いします」
 電話を切ってから、羽奈は深呼吸をした。
 熊坂羽奈は陶芸家として生計を立てられるようになって、十年が経つところだ。過去の道のりは険しく紆余曲折あったが、最近やっと業界では名前の知れた存在になったという自負があった。
 運営する工房では、今や五名のスタッフを抱えている。なかには、羽奈の作品に憧れて陶芸をはじめたと慕ってくれる意欲的な若い弟子もおり、彼らの給料のためにも高めの売上目標を掲げている。工房には制作スペースのみならず、羽奈の作品を販売できるギャラリーも併設され、都心からそう離れていないこともあって、幸い、今は毎日のようにファンが客として訪れてくれる。
 世襲の陶芸家でもなく、実家とも疎遠だった羽奈は、陶芸で食べていくために、がむしゃらに突っ走ってきた。個々の作品を妥協せずつくり、SNSやちょっとした取材でも積極的に作品の発信をつづけ、人脈作りのために苦手な社交もこなしてきた。おかげで立て続けに賞をもらい、固定客も増えている。口を糊していた頃の自分が現状を知れば、泣いて喜ぶだろう。
 だからこそ、誰にも知られるわけにはいかなかった。
 羽奈がいくら忘れようとしても頭に付きまとう黒歴史を──。

 

                        (第29回につづく)