第一章 ラブ・アンド・マネー
「こりゃいけない!」
巨大なカンヴァスの前で、小洗凜太郎は頭を抱えた。
アンディ・ウォーホルの《一九二枚の一ドル札》という見上げるほどの大作だ。
薄緑色の地に黒のモノトーンで刷られているのは、題名の通り一九二枚という数の一ドル札である。造幣局の裁断機で切り分けられる前のように、縦二十四列、横八列にびっしりと並んでいる。
凜太郎は腰につけた道具入れから水準器をとりだし、カンヴァスの底辺に当てて水平を確かめると、小さな泡が中央から若干ズレていた。
「これ、右に傾いています!」
作業員に向かって、声を張りあげた。
あの人に気がつかれたらどうなるかと想像して震えあがる。些細なミスも、あの人の観察力と記憶力では誤魔化せない。
「すみません、すぐやり直します」と、作業員が飛んできて調整にとりかかる。
凜太郎は会場をもう一度、点検してまわることにした。
この内覧会には他にも古今東西のアートが並び、中央のスペースには接客用のテーブルと椅子があった。指示通りの配置だ、オッケー。価格表はどうだろう。とくに間違ってはいけない。これから集まる人たちの目的は、鑑賞ではなく品定めなのだから。
ここは東京オークション、略して東オクという名の、主に美術品を扱う、日本を拠点にするオークションハウスであり、凜太郎は入社三年目の二十六歳である。
都内では毎年四月になると、東京アートウィークという催しがはじまる。画廊や美術館で特別展やイベントが目白押しになり、東オクでも、週末に大規模なセールスがひらかれる予定だった。
セールスで競売にかけられる作品は、今日から数日内覧会で公開される。夜には出品者や入札者であるコレクターたちを集めて、別会場のレストランにて立食形式のパーティが開かれることになっていた。
そのとき、ポンという通知音が鳴った。
嫌な予感をおぼえる。画面を見ると、案の定あの人からのメッセージが届いていた。
[準備は終わったわよね?]
その一通で、ここ数日の激務による睡眠不足や疲れが一気に吹き飛ぶ。
まさか、こちらに向かっている?
あの人はニューヨークへの弾丸の出張を終えて、明け方着の便で羽田に到着しているはずだ。出社は昼過ぎと聞いているが、念のため〈ご出社ですか?〉と確認すると[はい]とあって心臓が跳ねた。
「すみません、急いで片づけてもらえます? 冬城さんが来るそうなので……どうしましょう、間に合うでしょうか?」
「小洗さん、まずは深呼吸して、落ち着いて」
作業員に言われて、凜太郎は「そそそうですね」と息を深く吸う。冬城美紅──その名を聞くとたるんでいた気持ちも仕事モード全開になる。事情を知った他の作業員も、すぐさま「わかりました!」とピッチを上げている。
凜太郎は昨日から置きっぱなしにしていたペットボトルやファイルを片づけ、設営用の資材を集める。急いでエントランスの鍵を開けてガラスのドアを開放したとき、エレベーターホールでチンという音がした。
現れた女性こそ、冬城美紅だった。
モデルと見まがうほどの高身長で、腕も足もすらりと長いうえに、華奢で高いヒールまで履きこなしている。上質そうなスプリングコートを手にかけ、黒いスーツは身体のラインによく合う。きっちりと後ろにまとめたストレートの黒いロングヘアは、一本たりとも後れ毛がない。クール・ビューティーという表現がぴったりだ。
「おはようございます、美紅さん」
凜太郎が頭を下げると、グッチのサングラスを外して「おはよ」と短く答える。
「早いですね」と、遠慮がちに探りを入れる。
「社長から呼びだされたの。で、設営は?」
「順調です!」
現状を報告しようとするが、遮られた。
「ここのキャプション、サイズ表記が縦横逆よ」
きれいにネイルされた美紅の指先は、ウォーホルの《一九二枚の一ドル札》の右脇にあるキャプションに向けられていた。「えっ、そんなはずは……」とうろたえながら近づく。縦×横の順で、一八七×二四二センチ──たしかに間違っている。
思いがけない単純ミスに、凜太郎は「ヒッ」と息を呑む。
「早く訂正」
「はいっ、すみません!」
「それから、この辺りの壁」と言いながら、美紅は会場を歩きはじめる。「作品が詰まりすぎ。もっと間隔を空けて。エントランスのガラス扉に指紋がついてた、拭いておいて。あの椅子はどこから持ってきたの?」
美紅は一気に言いつのった。海外出張から戻ったばかりなのに、疲労をまったく感じさせない。
「社内の備品ですが」
「もっとマシなやつに替えてもらえる?」
「今からですか」
「まだ時間あるでしょ」
「はいっ、すぐにやります!」
美紅は決して横柄な態度はとらない。話し方も静かで、声を荒らげられたことは一度もない。それなのにオーラに迫力がある。この人には絶対に逆らってはいけない、と思わせるなにかがあるのだ。十歳しか年は離れていないのに。
中性的で弟分扱いされやすい凜太郎は、年上女性の懐に入るのが得意だが、美紅に対しては目の前にいるだけで背筋が伸びる。ここまで緊張感をもたらす人はそういない。有無を言わせずつぎつぎに指示をされ、あっというまにメモは何ページにもわたった。
「そうそう、一番大事なことを忘れてた。そのスーツ、いくらだった?」
思いがけない指摘に、凜太郎は自らの装いを眺める。
数ヵ月前、韓国旅行でふらりと立ち寄った、路地裏のショップで買ったものだ。なんでもないショップで売っているわりには、個性的なデザインだったので、いずれパーティに着ていこうと特別にとっておいたのだ。
「上下で一万五千円です。お買い得でした!」
「それ、偽物よ、メゾンマルジェラの。去年の春夏デザインによく似ているけど、細部の仕立ても甘いし、バッタものね」
「まさか、そんな……」
ショックを受けながらも、よく気がつくものだ、と凜太郎は感心した。
美術に限らず、文化芸術に関して幅広く深い知識がある美紅は、なにより優れた審美眼があることで有名なのだ。
「じゃ、凜ちゃん、あとはよろしく」
凜太郎はホッと息を吐いた。いくら厳しくとも、“凜ちゃん”と呼ばれると、奇妙に力が湧いてくる。自分でも呆れるが、飴と鞭というやつに、まんまと引っかかってしまう。自分はじつは認められているのではないか。“凜ちゃん”という呼び方には、さまざまな解釈ができる。
「承知しました!」
美紅はもうエレベーターホールに戻っている。相変わらずの美脚と堂々たる歩き姿にしばらく見惚れた。
東京都江東区有明の、海に面した巨大複合ビル。
数々のお店やオフィスが入っている他、いくつか展示場が入ったコンベンションセンターでもある。東京オークションの事務所や、内覧会やセールスに使う自前の会場も、このビル内に構えられている。
九階にある事務所では、二十名ほどのスタッフが働く。半分がアートの専門家で“スペシャリスト”と呼ばれる。国内外から集まった作品に予想落札額をつけて、好みそうな顧客をセールスに参加させるのが仕事だ。
美紅は、この会社で鍛え上げられたスペシャリストの一人であり、女性としては唯一のマネージャーという肩書だった。一年でもっとも参加者が多く総売上額も高い春のセールスを取り仕切っているのも、美紅である。凜太郎は専属のアシスタントを務めて、やっと一年が経つ。
荷物を置きながら、凜太郎は首を傾げる。
それにしても、今日はなにかがおかしい。みんなひそひそと声をひそめ、不安そうな顔つきをしている。
「おはようございます」
斜め向かいの席でパソコンに向かっている美紅に挨拶すると、彼女はたい焼きをコーヒーのお供にしていた。朝ごはんなのか、そのデザートなのか。パティシエの作る高級スイーツを好みそうな美紅だが、薄皮まんじゅうや豆大福など、庶民派の和菓子をよくオフィスで嬉しそうに食べている。
「頭からか尾びれからか、いつも迷うのよね」
「はぁ」
すると、背後から声をかけられた。
「二人とも、会議室に来てくれるか?」
ふり返ると、栗山社長が立っていた。六十歳という実年齢を感じさせず、肌つやもよく髪は黒々して豊かだし、身につけるものもおしゃれだ。外見に気を遣っているのが伝わり、凛太郎はさすがだと思っている。唯一でっぷりと出ているお腹はご愛嬌だ。
「えー、今ですか」
残念そうにたい焼きを置いて、美紅はハンカチで手を拭きながら立ちあがる。
会議室のドアを開けると、栗山社長が渋い顔をして待っていた。向かい合うように二人は並んで腰を下ろす。
「設営の方は無事に終わったようだね。二人ともよく頑張ってくれた」
褒めて伸ばすという社長の方針はありがたい。凛太郎は「いえ!」と元気よく笑顔で答える。一方、となりの美紅は、にこりともしない。
「ところで……爆破予告のことは、もう聞いてるかな?」
爆破──予告?
言葉が出てこない凜太郎の傍らで、美紅が冷やかに答える。
「こういう犯人は、なぜわざわざ予告するのかしら? 本当に爆破を成功させたいなら、誰にも知らせず実行すればいいのに」
「コラッ、冬城。不謹慎なことを言うな」
「はーい。で、どのように対処を?」
「これから警察と相談し、全員を集めて緊急会議をひらく。個人的にはセールスを決行したいと考えているが、どうなることやら」と社長は言って、こちらを見る。「小洗はまだ聞いていないみたいだね?」
凜太郎は動揺しながら訊ねる。
「はい、僕はちょうど今オフィスに到着したところで……」
「詳細はこうだ。明後日のセールスを中止にしなければ会場に爆弾を仕掛ける、という旨のFAXが昨夜に匿名で届いた」
「FAXなら、すぐに発信者の名前や番号がわかりますよね?」
美紅の指摘に社長は肯く。
「同じ江東区のコンビニだった。警察が今、捜査をしてくれている。ただ、コンビニのような不特定多数が出入りする場所から発信された場合、防犯カメラの映像だけでは、犯人特定にはつながらないケースも多いそうだ」
「犯人も顔が見えないようにとか、気をつけているでしょうしね」と、美紅はすぐに納得する。
「もちろん、君たちスタッフや顧客の安全を守ることは第一だが、厳重な警備と十分な安全対策をとれば、必ずしもイベントを中止する必要はないだろう」
「そうですか」と、凜太郎はいったん胸をなでおろす。
「まいったよ。よりによって、今回のセールスで送ってくるなんて」
社長は葛藤するように、眉をひそめて口元を歪めた。
それも当然である。東京オークションの経営が厳しいというのは、勤務経験の浅い凜太郎も知るところだった。バブル期に創業された会社だが、一貫して成績は低迷している。日本の美術市場もまた縮小傾向にあるので、いつ潰れてもおかしくない。
そんななか、今回のセールスでは、美紅たちスペシャリストの尽力もあって、アンディ・ウォーホルの傑作をはじめ、魅力的なアートが久しぶりに集結していた。ここで落札額の記録をつくれば一気に上昇回復もねらえる。
それなのに、爆破予告だなんて──。
「誰がそんなことを」
凜太郎が呟くと、美紅は当たり前のように答える。
「まぁ、こういう爆破予告をしてくる人間は往々にして、イベントの関係者か、お客さんである可能性が高いですよね、社長?」
「そうだな」と、社長は口元を歪めて答える。
凜太郎は狼狽えながら、「そんな人、います?」と訊ねる。
「いるわよ。あやしい人なら数知れず」と、美紅は不敵な笑みを浮かべた。
「まさか!」
美紅は呆れたような顔で答える。
「あなた毎日なに見て仕事してるの。よく考えなさいな。オークションなんて欲にまみれた、食うか食われるかの世界よ。のどから手が出るほど欲しい作品を逃してしまう人もいれば、予算をはるかに超えた膨大な金を注ぎこむことになってしまう人もいる。そして、うちに作品を提供してくれる人のほとんどが、死、離婚、借金の3Dをきっかけにしている。不幸に見舞われた人たちのところに、ハイエナのように寄っていっては、優れた思い出の品をかっさらっていくのが私たちの仕事だからね。それでも、凜ちゃんはうちに爆破予告をする人なんて、誰一人いないと思うの?」