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第三章 変人と奇人(承前)

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 湾岸沿いの公園では、夜景を楽しむカップルや家族連れが多く賑わっているが、水久保にはライトアップも海も目に入らなかった。
 どうしてコダマは、他ギャラリーで働く西田と二人きりだったのだろう。いや、それよりも気になるのが、ライ・リーとの会話を聞かれなかったかだ。鉢合わせしたとき、コダマも西田も小さく頭を下げただけで、気まずそうに去っていった。少なくとも現場は目撃されたわけだ。
 こんなことになるなら、もっと内密に進めればよかった。直接話さないと信頼できないし、どうせバレるわけがないと高を括ったが、会ったところで今も信頼できていないのだから後悔先に立たずだ。水久保はぎゅっと目をつむった。
 サクラを依頼したことを万が一、コダマに気づかれたら──いや、あり得ない。ビビりすぎだ。今考えなくちゃいけないのは、なぜコダマはあの西田と店にいたのかだ。西田から移籍しないかと口説かれていた? とっくの昔から、裏で離脱の計画を進めていたという可能性もある。
 とたんに最近のちょっとした記憶がよみがえり、辻褄が合っていく。
 たとえば、コダマは一ヵ月くらい前から、こちらに委託した作品の在庫をやたらと確認したがっていた。どの作品がどこにあるか、商談中のものはどれか。水久保は忙しくて答えるのを後回しにしていたが、コダマは早く返事をくれと急かしてきた。あれは移籍のための準備ではないか。
 他にも、今回の個展が終わったら、つぎはいつ頃に開催するかという話をそれとなくコダマに振ったら、まだわからないと曖昧に返された。いつものコダマなら、早くつぎの個展がしたいと意欲的に乗ってきそうなのに、やけに消極的だと引っかかった。
 今まで一蓮托生の思いで懸命に応援してきたのに、こそこそと移籍の準備を進めるなんて悲しすぎる。いや、悲しいを通り越して怒りすら湧いていた。最初に声をかけてやった恩義を忘れたのだろうか。
 みんなが自分のもとを離れていく。曽我にしても同じだった。やっと売れそうな兆しが見えはじめたら、相談もなくブランド力のある大手に移っていく。みんな自分のことしか考えていない。こちらはみんなのために自らを犠牲にして働いているのに。俺のなにが悪いというのか。
 その瞬間、自己否定が襲ってくる。
 待てよ、自分がすべて悪いんじゃないか。俺がギャラリストとして不甲斐ないから、商売をうまくやれないから、みんな離れていった。もっと太い顧客のパイプがあれば、満足いくように作品を売ってやれたし、双方が幸せになれた。ギャラリストは所詮、アーティストの才能からおこぼれをもらう立場だ。アーティストには力のないギャラリストに運命を預ける義理なんてない。
 むしろ、俺に関わったせいで全員が不幸になっている──。
 彼らの作品を売れない自分が、一番の元凶なのかもしれない。そう思うと、己の商才のなさ、要領の悪さに心底嫌気がさし、やりきれない。どうして大手ギャラリーを辞めたりしたのか。自分を過信したせいで、大勢に迷惑をかけている。激しい後悔に襲われ、耐えられないほどだった。
 ギャラリーに到着する頃には、水久保は怒りと自己否定がせめぎあい、なにをする気も起きなかった。もう疲れたから今日は帰ろう。アシスタントの席にはまだ荷物が残されているが、コンビニでも行ったのか姿がない。こんな時間に不用心だ。とりあえず、行先を確認しようとスマホをとったとき、オフィスの奥にある倉庫から物音がした。そこにいたのかと様子を見にいくと、倉庫内の箱を動かしていたのはコダマだった。
「なにしてるの?」
 コダマはびくりと肩を震わせてふり返った。
「驚いた、水久保さんか! お疲れさまです。過去の作品でどこにあるかが気になったものがあって、すみません……水久保さんにも何度か問い合わせていたんですけど、返事をもらえなかったから」
「勝手に触っていいわけがないだろう!」
 自分でも思った以上に大きな声が出てしまい、コダマがぎょっとするのが伝わる。水久保は慌ててフォローを入れる。
「いや、ごめん、うちのスタッフには声をかけてくれたんだよな。でも、その、つまり……君は所属アーティストで、倉庫のものを触るときは誰かが立ち会わないと」
「そうですね、すみません。でも安心してください、僕以外の人の作品は触ってませんから。探しているのは僕の作品だけです」
「そうは言っても、今はもう君の作品じゃない。このギャラリーにあるものは、いったんギャラリーのものだ」
 勢い余って否定すると、コダマはあからさまに顔をしかめた。
「それおかしくないですか? まだ売れてないんなら、僕が取り戻す権利だってありますよね? 水久保さんが買いとったならともかく、まだ一銭も受けとっていないのに、ギャラリーの持ち物だって言うんですか?」
 ぐぅの音も出なかった。しかし癪なので、なんとか反論をひねり出す。
「じゃあ、聞くけれど、君はギャラリーの家賃を払っているのか? この倉庫の維持費は? ここは俺が全部金を払って運営している。ここに保管されている以上、自由に触っていいわけがないだろ」
 これまでミズクボギャラリーのバックヤードは、若手作家がふらりと立ち寄り、お茶をしたりおしゃべりを楽しんだりできる自由な場所だったが、水久保はそうしていたことにすら腹が立った。甘やかしすぎた。
「わかりました」
 コダマは低い声で答えたあと、悲しそうに目を伏せて「ただ、僕は別に返してほしいってわけじゃなく、純粋に、自分の作品が今どこにあるのかを把握しておきたいだけだったんですが」と付け加えた。
 水久保の脇を通って、オフィス空間からの出口へと向かう。
「待って、コダマ。うちから移籍するつもりなのか?」
 意外な問いだったのか、ふり返ったコダマは瞬きをくり返す。
「なにを言ってるんですか? 話がよくわかりません」
「とぼけるな! さっき西田くんと一緒にいたのはなんなんだ」
 つい口調が荒々しくなり、コダマは気まずそうに目を逸らした。
「別にただ、食事に誘われただけです」
「どうして他のギャラリーの人間が、わざわざ二人きりで食事に誘ってくる? 本当は移籍も誘われているんだろ?」
「それ、あなたに言う必要ありますか」
 否定しないのか、と水久保は逆上した。
 たしかに早とちりなのかもしれないが、過去の曽我とのやりとりが脳裏をよぎって冷静ではいられない。曽我から移籍を告げられたときは、青天の霹靂だった。なんの前触れもなかった反面、移籍の手続きはあれよあれよと進んで円滑に終わった。曽我が裏でこそこそと周到に準備していたからだ。あのような屈辱、絶望感、寂しさはもう二度と体験したくない。
「うちを辞めるつもりなら、はっきり言ってほしい」

 

 (第24回につづく)