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第三章 変人と賢人(承前)

 
「本当に、《ダリの葡萄》に入札が集まるといいわね」
 ギャラリーを出て、オフィスに向かう道中で美紅が呟いた。
 何気なく「そうですね」と相槌を打つと、美紅が急に立ち止まったので、凜太郎はぶつかりそうになる。
「言っておくけど、水久保くんにとって、今回のオークションは生きるか死ぬかの大勝負なのよ」
「えっ、そんなご事情が?」
 美紅は呆れたように「よく考えなさい」と息を吐いて、語気を強めた。
「ただでさえギャラリー経営は厳しい世界で、屋台骨を支えてくれるスター作家がいないと成り立たない。それなのに、ミズクボギャラリーが抱えるのは新人や若手ばかりで、そこまでの売れっ子はいない。大きなアートフェアに出品する余裕もないだろうし、いわば崖っぷちの自転車操業でしょうね」
「でも今日は大勢のお客さんが入っていたし、それなりに知名度も高いんじゃ──」
「ギャラリーっていうのはどれだけ展示に人が集まって有名になっても意味がないの。作品が売れないと、なんの利益にもならない。その点、水久保くんはまだ若いうえに世襲でもないから、太い顧客とのつながりに乏しい。まぁ、一人いるにはいるらしいけど、いろいろと苦労してるはず。ギャラリストは見る目が大事って凜ちゃんは言ってたけど、それだけじゃだめなの。商才っていう、もうひとつの重要な能力がないと」
「そんな」と、さきほどの発言を悔いる凛太郎をよそに、美紅はきっぱりと言い切る。
「むしろ、信念やセンスがあっても、肝心の商才がなければかえって所属するアーティストや顧客を不幸にすることになる。商才のないギャラリストは悪。悪い存在よ。いくら人が良くても悪人ね」
「そこまで言い切りますか!」
 凜太郎は泣きそうになる。美紅は水久保と仲が良さそうに見えて、じつは実力を認めてはいないのか。合理的と言えばそうだが、美紅の指摘はあまりにもシビアで、きれい事だけではやっていけないという現実を、凜太郎に思い知らせる。
 美紅はこちらを無視して、さっさと先を歩きはじめた。
「でも今は、自分たちの心配もしなきゃならない」
「というと?」
 美紅は少し声のトーンを落として「爆破予告のこと」と呟く。
 まだ気にしていたのか、と意外だった。予告は一度きりで、その後おかしな様子はないので、凜太郎には単なるいたずらのように思える。社長を含めた他の社員も話題にしなくなっていた。
「あれは愉快犯じゃない。きっとなにかしら動きがある」
「どうしてそう思うんです?」
 しかし凛太郎の問いに、美紅は答えなかった。
 オフィスに到着するまで、ただ考え込むように黙りこんでいた。
 
 *
 
 午後六時を過ぎた頃、客足が途絶えた。
 水久保はいったんアシスタントにギャラリーを任せて、バックヤードに戻ってパソコン仕事をすることにした。メールの返信が溜まっている。顧客対応などの重要な連絡を先にさばき、他の細々こまごまとした業務は後回しにした。
 ミズクボギャラリーは現在、人手がまったく足りず、今いるスタッフの一人一人の仕事量も限界に達しているが、これ以上雇用を増やす経済的な余裕もない。
 独立したことを後悔したくはないが、それでも最近、水久保はことあるごとに自分にギャラリストとしての器量があるのだろうかと疑わずにはいられない。本当に独立してよかったのかと。
 目頭のツボを揉んでいると、デスクに置いていた東京オークションのカタログが視界に入った。手にとって、付箋の貼られたページをひらく。《ダリの葡萄》を眺めながら、コダマとの思い出がよみがえる。
 ──ワインをつくるには、葡萄を育てる変人、それを見張る賢人、醸造する詩人、それを飲む愛好家が必要なんだ。
 それは水久保が、出会った頃のコダマに伝えた、ダリの有名な格言だった。この《ダリの葡萄》は、そんなやりとりをしたときに制作中だった一枚であり、コダマは水久保の言葉を得て、もともと《ダリ》だけだったのを改題したのだ。
 六年前、すごくいい絵を描く若手がいるらしいという噂を聞いた水久保は、まだ大手ギャラリーに勤務していた。江戸川区の外れにある古いアパートに、コダマは数名の絵描きと共同生活をしていた。彼の絵をはじめて見たとき、水久保は困惑した。これまで見たどの絵とも違って、心に強く響いたのだ。
 とにかく才能を感じた。狭いワンルームいっぱいに絵がひしめいていて、描かずにはいられないという絵描きのさがのようなものがアトリエ全体に溢れていた。制作意欲はなによりも重要な才能だと実感していた水久保は、別れ際に名刺を渡した。
 名刺に記された大手ギャラリーの名前を見ても、コダマのぶっきらぼうな態度は変わらなかった。溢れる若さと、たやすく自分の価値を他人に決められてたまるかという負けん気が伝わった。
 ──ギャラリーに所属する気はないの?
 水久保が訊ねると、コダマは首を傾げた。
 ──わかりません。でも絵を売って、生きていきたいです。
 それから定期的にアトリエに通い、コダマが正規の美術教育を受けていないこと、それでも幼い頃から絵を描くのが大好きで画集から独学で学んだことを知った。だから巨匠の顔を、友人や家族と同じように描いているという。対話を重ねるうちに、水久保はコダマの才能を確信していた。
 彼の作品なら、一生をかけて売っていきたい──。
 そんな折、アトリエに制作途中のダリの肖像画があって、一目で欲しいと思った。夏の暑い日を連想させるような、砂漠で時計が溶けている代表作《記憶の固執》などでシュールレアリスムの画家として知られる、ピカソらと同時代のスペイン出身の巨匠を、コダマは人間味あふれるカリスマとして色彩豊かに表現していた。

 (第18回につづく)