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 第一章 ラブ・アンド・マネー(承前)
 
 五分後、美紅は慌てるふうでもなく、優雅に現れた。
「わざわざご足労いただいて、ありがとうございます」
「作品を探してって、あなたにお願いしたのよ。それなのにどうして、あなたが対応してくれなかったの? 説明してちょうだい」
 まくしたてるように、姫奈子は言った。
 傍らで同席している凜太郎は、胃の辺りがきゅっと掴まれた心地になる。カスハラまがいの言いがかりをつけられ、姫奈子が恐ろしいのではない。美紅に対して、理不尽に牙をむくなんて、どれほど命知らずなのだろうという理由からだった。
 案の定、美紅はとくに反論もせず、ほほ笑みを絶やさない。
 やがて戦意を削がれたのか、姫奈子は口数が減っていく。
「だから……その……私が言いたいのは……」
 見本といってもいいくらい美しい姿勢で、美紅は黙って耳を傾けている。
 さすがの姫奈子も、無言の迫力にされている様子だった。
「このたびは、わたくしも小洗と逐一連絡をとり合いながら店や作品を探しました。本作がもしお好みに合わなければ、代わりのものを探してまいります」
「いや、そういうわけじゃないけど──」
 言い返せなくなったらしい姫奈子は、顔をいっそう赤くして唇を噛んだ。「あなたは私の言うことを素直に聞く立場でしょう! 言い訳するなら、今回の入札だってやめてもいいのよ」
 美紅は黙って、姫奈子を見つめている。
「引き止めないの?」
 沈黙。焦れるように、姫奈子は唾を飛ばして言う。
「私は、富永家の娘よ? 予算だってそんじょそこらのコレクターの何倍もあるのに、本当にいいのね?」
 応接室の外にも響いたに違いない。
 不穏な空気のなか、「お言葉ですが」という美紅の落ち着いた声が響く。
 美紅は目を見開いて、正面から姫奈子を見据える。
「いくら資金をお持ちでも、美に寄り添う心がなければコレクターとしては二流。お引き止めは致しません」
 姫奈子の口があんぐりとひらき、凜太郎は血の気が引く。
 そんなにはっきりと物申してしまったら──。
 案の定、姫奈子はつぎの瞬間、乱暴に乾山作品を桐箱に戻し、領収書も含めて紙袋に入れたあと、小脇に抱えた。うつむいているが、目の辺りがかすかに光っている。そのままなにも言わずに、応接室を出ていった。扉を閉める音が響いた。
「大丈夫でしょうか?」
 追いかけようとする凜太郎を、美紅が無言で制止する。
 たしかに、今追いかけたところで、姫奈子のわがままはエスカレートするだけだろう。今更、別の作品を探す時間的な余裕など、どこにもない。けれども、凜太郎はほんの少し姫奈子に同情してしまった。去っていく姫奈子の横顔が、ひどく寂しそうだったから。
 
 *
 
 レインボーブリッジを渡るとき、空が赤く染まっていた。
 タクシーの車内で、姫奈子は涙を拭った。涙が出るのは、もちろん、東京湾の絶景に心動かされたせいではない。ただ、腹が立つからだった。ムカつく。なんなのだ、あのオバサンは。思い出すだけで、怒りが湧いてくる。
 ──コレクターとしては二流。
 美紅は感情の読みとれない美しい顔で、そう言い放った。
 あんな言い方をするなんて馬鹿にしているのだ。こちらが年下だから。働いた経験もないから。でも悔しいけれど、美紅の言う通りまるで一流ではなかった。コレクターとしても人としても。
 自分はただ、富永家の一員というだけで何者でもない。使っているお金だって自分が汗水垂らして稼いだわけではない。才能も美貌も教養もない。こんな風に自分のことを語ろうとすると、否定ばかりが並ぶ。
 それでも、姫奈子は生まれ変わりたかった。生まれ変わるために、ウォーホルの《一九二枚の一ドル札》が欲しかった。はじめはあれを手に入れれば、「富永家の令嬢でしかない自分」ではなく「ウォーホルの傑作を持っている自分」になれると思ったからだが、今はもっと強い理由がある。誰にも言えない理由が──。
 
 気がつくと、フロントガラスの向こうに見慣れた門が現れた。
「到着いたしました」
 運転手が操作して、自動的に門が開かれる。ライトアップされた西洋造りの建物は、フランス料理の高級レストランかなにかかとよく間違われるが、姫奈子の実家──富永家の邸宅だった。
 コンパクトを取り出して涙の影響がないことを確認してから、タクシーを降りる。勝手口をくぐって、庭を通りすぎ、玄関のドアを開けると、急に肌寒く感じられた。おそらく気温は変わらない。ただ、自分の感じ方のせいだ。実家に帰るたびに、手足が冷たくなる。
 くつろげる場所だと思ったことは、物心ついてから一度もなかった。
「おかえりなさいませ」
 白いシャツを着た老齢の女性が、迎えにきて荷物を受けとる。姫奈子がこの家を出て、都内のマンションで一人暮らしをはじめたあとに雇われた使用人だ。きちんと話をしたことは一度もない。
 リビングのドア越しに、笑い声が聞こえてきた。
 三歳下の妹、愛子あいこの声である。
 ドアを開けると、まるでマイホームの広告のような光景が目に入った。
 去年生まれた甥っ子を中心に、愛子とその夫、そして父、富永酉之介とりのすけがソファでくつろいでいた。近くには専属のベビーシッターが控えており、メイクもヘアスタイルも新生児を育てているとは思えない華やかさだ。
「おかえり」と酉之介から声をかけられたものの、その空間に姫奈子の居場所はどこにもなかった。ドアの前に立ったまま、所在なく「ただいま」と返事をする。
「また遅刻? せっかくのパーティなのに」
 そう声をかけてきたのは、テーブルについてグラスワインを傾けていた、愛子の実母、響子きようこだった。
「すみません、響子さん」と、姫奈子は答える。
 姫奈子が響子のことを「お母さん」と呼んだことは、一度もなかった。
 二人のあいだに血縁関係はない。姫奈子の実母は、五歳のときに病気で亡くなったからだ。実母の生前から酉之介の愛人だった響子は、まだ四十代半ばであり、姫奈子と愛子は腹違いの姉妹だった。
「姫奈子さんは最近、どうしているの? 愛子の出産祝いパーティも欠席して」
 響子が笑みの下で皮肉まじりに探ってくる。
「別に、これまで通りです」
「そんなこと言って、求職もお見合いもせずに、時間を持て余してるんじゃないの?」
 余計なお世話だ、という一言は、声にはならない。
「お母さん、そんなことないわよ。お姉ちゃんだって、最近アートのコレクションをはじめるって言ってたもんね?」
 わざとらしい口調で、愛子がこちらに話題をふる。
「へぇ、アート・ファンドってやつ? 僕も興味あるな」と身を乗りだしたのは、富永グループの上層部で働く義弟だった。若くて見た目もよく辣腕という噂で、婿養子としては申し分ない相手だ。さすが愛子、伴侶選びにも抜かりがなかった。
「アートのコレクションねぇ……姫奈子さんに審美眼なんてあるの? そんなギャンブルみたいなこと、母親としては賛成できないけど」
 母親、という言葉にざらつきを感じた。
「もういいだろう。今日は祝いの席なんだから」
 酉之介が立ちあがり、使用人の女性に目配せをして、テーブルにつく。他のメンバーが無言でつづいて、全員が着席したところで、飲みものが給仕された。
 この日、家族が集まったのは、酉之介の誕生日会のためだった。とはいえ、パーティの主役は、実質的に、父ではなく愛子や生まれたばかりの初孫だった。テーブルで飛び交う会話も二人のことが主で、姫奈子はいてもいなくても同じだった。
 
 トイレに立ったタイミングで、愛子が追いかけてくる。
「ねぇ、お姉ちゃん。あれ、買ってきてくれた? コップ」
 腕を引っぱられ、耳打ちされる。
「ああ……うん」と、姫奈子は目を合わさずに答える。姫奈子も大した知識はないが、美術作品を普段使いの食器のように呼ぶセンスは持ち合わせていない。
「ありがとう! どこにある?」
「リビングの、ソファの脇だけど」
「助かったわ」
 そう言って、リビングに戻ろうとする愛子を、姫奈子は慌てて呼びとめる。
「待って、一緒に渡すでしょ?」
「そう? どんなふうに渡しても同じじゃない」
 眉根を寄せる姫奈子を無視して、愛子は当たり前の顔で踵を返し、さっさとプレゼントの紙袋を手にとって、父に手渡した。
「お誕生日おめでとう、お父さん!」
「えっ、なんだなんだ。プレゼントなんていいのに」
 戸惑った表情を浮かべながら、酉之介は嬉しそうに紙袋を開ける。桐箱のなかから取りだしたのは、この日東京オークションから持ち帰った尾形乾山の茶碗だった。自分が探してきたわけではないのに、姫奈子は手柄を横取りされた気分になる。
「それ、私が──」
 今日プロに頼んで入手したの、と姫奈子は慌てて補足しようとするが、タイミング悪く父の歓声でかき消された。
「乾山じゃないか! よく見つけてきたな」
 父はこの日一番感激した様子で、妹を抱擁する。
「喜んでくれて、私も嬉しい。いつもありがとう」
 もはや二人のあいだに入る隙はなかった。得意げに言う愛子の頬を、今すぐ引っ叩きたい衝動にかられる。しかしそんなことをすれば、この場の雰囲気は台無しになり、自分は心の狭い姉として非難を浴びて針の筵だろう。家族のなかに、姫奈子の味方をしてくれる人は誰もいないからだ。
 それは昔から変わらない。見た目も頭も愛想もいい愛子は、みんなに愛された。一方で姫奈子は図体もでかく、顔立ちもぱっとしないうえに、要領も悪かった。いつも愛子と比較され、愛子ちゃんはいい子ね、今日は愛子ちゃんと一緒じゃないの、と妹のことばかり話題にされた。
 いつしか愛子は、愛されたいという姫奈子の渇望やコンプレックスを理解したうえで、上から目線の態度をとるようになった。そして横柄なことを言うだけでなく、姫奈子をこき使いはじめた。
 ──尾形乾山のコップ、今日買ってきてくれない?
 ──どうして私が? 愛子が行ってよ。
 ──だって、お姉ちゃんは時間あるでしょ。私は子守りで手が離せないし、お茶碗がいいって提案したの、お姉ちゃんじゃないの。
 それ以上は断れなかった。妹こそが、この家の本当の“姫”だからだ。たった一人の。姫奈子という自分の名前が、皮肉にしか思えない。
 実の母が亡くなったのは、財閥のなかの殺伐とした人間関係や、父の不倫によるストレスが原因ではないか、という憶測を耳にしたことがある。あまり記憶にない母だが、気の毒で仕方ない。そのときの心境が、痛いほどにわかるからだ。
 ──姫奈子さんって、あの人に年々似てきているのよね。
 何年か前、響子がそう話しているのが聞こえてきた。嘲り笑う声色から、姫奈子は自分が不当に虐げられる、真の理由を知った。

 

 (第5回につづく)