第五章 オークション
青空をうつした有明の海は、いつも以上の美しさだった。
富永姫奈子は海岸沿いの遊歩道で、東京湾を一人眺めていた。普段、遅刻することはあっても、余裕を持って目的地に到着することなんて滅多にない性格だ。それほど今日のオークションが、自分にとって大切なのだと実感する。手すりを持つ両手にも、自ずと力がこもっていた。
深呼吸して、ヴィトンのハンドバッグから一枚の写真をとりだす。
「お母さま、今から夢を叶えてきます」
亡くなった母親の笑顔に、小さな声でそう語りかけた。
ここ三日間ほど、ウォーホルの《一九二枚の一ドル札》のことが頭から離れなかった。自分の背中を押してくれた存在。自分は自分らしくていい。誰かと比べるのではなく、不完全な自分を愛してあげればいい。誰かのせいにして卑屈に生きるのは嫌だ。そんなふうに考えられる自分に変えてくれたウォーホルへの感謝を込めて、今日は絶対に落札してみせると心に決めていた。
腕時計を一瞥したあと、姫奈子は写真をハンドバッグにしまい、一歩踏み出す。
エレベーターで到着した東京オークション会場のフロアには、アート関係者らしき人たちが集まっていた。入口のドア近くで、美紅と凜太郎が立っている。
「お待ちしておりました。いよいよ、ですね」
美紅がお辞儀をしてから言うが、姫奈子はつっけんどんに答える。
「そうね」
「ご心配なさらないでください。みなさん、ナーバスになるのは当たり前ですから」
微笑を浮かべる美紅に、姫奈子は「まさか」と一蹴する。
「この私が緊張するとでも? 富永グループの娘よ? 愚問ね。今までも宝石とかリゾート地の物件とか、もっとずっと高額の買い物もしたこともあるし、これきしのもの余裕に決まっているじゃない。今日なんて、ただ札を挙げるだけでしょ」
「左様でございますね。とはいえ、会場の空気に呑みこまれず、冷静に“札を挙げる”ご判断なさってください。ご不安があれば、われわれ東オクのスタッフが万全のフォローをしますので」
人を食ったような顔で、美紅は言った。
やっぱり偉そうな人ね――。
普段、人との会話では主導権を握りたい姫奈子だが、美紅と話すときは、いつも彼女のペースに持っていかれる。しかも、表面的には悔しがってみせるが、なぜか姫奈子もじつは悪い気がしなかった。美紅の凛とした美しさに圧倒されるのか、不思議なときめきさえ感じる。しかもフォローするという美紅のたった一言のおかげで、足の震えがぴたりとおさまったのも事実だった。
「フンッ」と、照れ隠しで鼻を鳴らしたあと、「あなたの方がナーバスになってるんじゃない、小洗さん?」と、となりに立っていた凜太郎に声をかけるが、凜太郎は深刻な表情を浮かべたまま反応がない。
「小洗さん?」
「あっ、申し訳ございません。考え事をしておりました。そうですね、緊張もしておりますし……多少、憂鬱でもあります」
「どうしたのよ、冗談で言ったのに」
凜太郎はこれまでのやりとりで、少々早とちりで鬱陶しいときはあっても、前のめり気味なくらい、全力で積極的に対応してくれているのが伝わってきた。そんな彼が、上の空になるなんて。
「憂鬱って、心配でもあるの?」
「……そうかもしれませんね」
お茶を濁す凜太郎が、チラチラとどこか一方向を気にしている。その先を追うと、壇上の脇で、設営業者がこれから競売にかけられる各作品を丁重な扱いで動かしていた。そのうちの一点は見覚えがある。たしかピカソの陶芸品で、姫奈子が今回のオークションでウォーホル以外に興味を抱いた作品のひとつだ。
しかし、姫奈子が質問するよりも先に、凜太郎は手で誘導する。
「お席にご案内しますので、こちらへどうぞ」
言われるがまま、姫奈子は天井が高く広々したホールへ入場した。
神聖な空気に、おのずと背筋が伸びる。
はじめてのオークション会場に胸が高鳴ると同時に、あちこちから視線が刺さる。
百ほどある座席のうち、すでに半分ほど埋まっていて、彼らは会話したりしながらも、さりげなく周囲を見回し、他の来場者の様子をうかがっている。とくに富永グループの令嬢である自分は、自分で思う以上に、顔も知られているのかもしれない。
もう戦いの火ぶたは切って落とされているのだ――。
同じく《一九二枚の一ドル札》をねらう者も、会場のなかにいるだろう。さきほどの虚勢とは裏腹に、また足が震えそうになる。しかし、負けてなるものか。姫奈子は堂々と顔を上げ、周囲からの目を真正面から受け止めた。
壇上には「東京オークション」のロゴが入った演台があり、ちょうど、その前に栗林社長が現れた。
社長とは何度か挨拶をしたことがあり、高身長という印象は受けなかったが、照明を浴びるオークショニアとしての社長は大柄で、彼が現れたとたん静粛な空気になる。
「大変お待たせいたしました。本日はご来場いただき、ありがとうございます」
胸元にピンマイクをつけた社長が、一瞬、姫奈子だけを見つめながら、親しげに笑いかけてくる。錯覚だろうか。今日の主役は君だよ――そう囁きかけられたような高揚感が、全身を駆けめぐり、心臓を高鳴らせる。
「私は東京オークションの社長、栗林と申します。今日のオークショニアを務めさせていただきます。では、まず、経理部の者より事務的な説明をいたします」
舞台袖から黒いスーツ姿のスタッフ二人が現れ、それぞれ日本語のあとで英語も言い添えながら、入札のルールや落札後の流れ、手数料や振り込みのルールなどを、書面を見ながら淡々と読みあげる。それは事前に、姫奈子も美紅たちから聞かされた既知の内容で退屈だが、飛び入りの入札者もいるのだろう。
説明を終えた二人が舞台袖に戻ると、栗林社長が引き継ぐ。
「それでは、時間は限られていますので、さっそくではございますが、オークションをはじめたいと思います」と言って、社長は合図を送る。すぐさまエプロンをつけた男性スタッフ二人が、大きなカンヴァスを運び込んで、イーゼルのうえに置いた。
「最初の作品は、藍上潔の《無題》です」
*
みんな、あの傑作を見てくれ! あれを今日まで所有していたのは俺だぞ!
壇上に藍上潔の大作が現れたとき、会場前方の席に妻と並んで座っていた安村は、鼻の穴をパンパンに膨らませ、そう叫びたい衝動を堪えるのに必死だった。ひのき舞台に立つ我が子を見るようで、誇らしくてたまらない。
斜め前に腰を下ろしている藍上本人とは、さきほども挨拶を交わしたが、藍上は「あとは野となれ山となれだ」と冷静な様子だった。おそらく日本のアート市場には、懐疑的なのだろう。しかしこの競売が終われば、その印象も百八十度変わるに違いない。
ついに国内で正しく評価されるときが来ましたね、藍上さん――。
売れない時期が長く、苦労を重ねてきた老作家の背中に、安村は内心呟いた。
「では、はじめは百万円から」
栗林社長が高らかにスターティングプライスを告げ、安村は勢いよく会場をふり返る。数えきれないほどの札が一斉に挙がっているのを見た瞬間、大量のアドレナリンが全身を駆けめぐる。
「百十万、はい、百二十をいただきました。ありがとうございます!」
階段を勢いよく駆け上るように、あれよあれよと値段が刻まれる。ボルテージが急上昇する会場を煽りながら、社長自らは冷静沈着で、ひとつの札も見逃さないといわんばかりに隅々まで視線を送り、場の空気を支配している。
そのとき、となりに座る妻が、祈るように両手を組んで、ぎゅっと目をつむっている姿が横目に入った。なんといじらしい。感動の涙さえこみあげる。やっぱり妻は、俺のことを応援してくれているんだ、まだ信じようとしてくれているんだ。
ここ数日間、妻とは休戦状態がつづいており、平和といってもいい日々だった。妻の実家から自宅に戻ってきた娘は、高校の部活があるので今日ここに来られなかったが、今朝は久しぶりに父親と口をきいてくれた。
――お母さんのために頑張ってよね。
目を逸らしながらも、応援の言葉もかけてくれた。
――おう、頑張るからな! お父さんに任せろ!
今更なにをどう頑張ればいいのかわからないが、安村は調子よく答えた。
妻の手首に光るブレスレットは、昨日、安村が妻にプレゼントした品である。妻は相変わらず、そのお金はどうしたのかと渋い顔で訊ねてきたが、それでも今日つけてきてくれているのが嬉しかった。
もうお金の心配をするのは野暮に思えた。
今日、藍上作品が落札されれば、すぐにまとまった額の収入がある。会社のボーナスなんて比にならない高額が、どんと銀行口座に振り込まれるのである。ブレスレットひとつくらいで、目くじらを立てる必要がどこにある。
自然と笑みが漏れた。
そろそろ五百万を超えた頃かな――そう思って壇上を見ると、テンポよく更新されていた金額が、いつのまにかストップしている。
「つぎは二百万、二百万です。まだまだ競りはこれからですが、よろしい?」
えっ、二百万? まだそんな額なの?
ふり返ると、十以上は挙がっていただろうパドルが、すべて消えている。
「ど、どういうこと?」
妻が震える声で呟く。
安村も同じように訊きたかった。
みんな、ちゃんと作品を見ているのか? こんなに立派な藍上さんの大作だぞ? 保存状態もよくて、彼のキャリアのなかでも重要な一点だぞ? 予想落札額は、五百万。勝負はまだまだこれからだ。
が、心中の問いかけもむなしく、壇上の栗林社長が、渋い顔でハンマーを手に取る。
おいおい、待ってくれ! 一人一人に本当にそれでいいのか確かめて! 札を挙げるように仕向けて! 敏腕オークショニアとしての実力を発揮してくださいよ!
しかし、あっけなくハンマーは振り下ろされた。
カンッ。こんなに寒々しい音を、安村は人生で聞いたことがなかった。
「では、つぎの作品に参りましょう」
不穏なムードを切り替えるように、栗林社長は声を張った。
「……不落札だ」
安村は弱々しく呟いた。予想落札額を大きく下回ってしまった場合、取引は成立せず、不落札という屈辱の烙印が捺される。
安村は目頭が熱くなり、慌てて服の袖でぬぐった。
そんな安村の耳に、小さな低い声が届いた。
「なぜなの……なぜ……」
一瞬、誰の声なのかわからなかった。
丑の刻参りに遭遇したような、怨念に満ちた響きがあった。
声の方を向くと、妻が眉間に深いしわを寄せ、目を血走らせていた。
「し、仕方ないよ。俺だって泣きたいよ」
「泣きたい……ですって?」
鋭く睨まれ、悲鳴を上げそうになる。
あなたはいつもそうなのよ、と言われたように聞こえたが、妻の声は口のなかでくぐもり不明瞭で、こちらに話しかけているわけではなさそうだ。むしろ、目の前にいる夫の姿は目に入っていない様子で、宙に向かって呟いている。
「おい、しっかりしろ!」
手を握ろうとすると、血を吸われた蚊を潰すときのように、勢いよく叩かれた。
妻は泣いていなかった。悲しんでいるわけでもない。
妻はただ、怒っていた。いや、激怒していた。
こんなにも感情をあらわにした妻を、安村は結婚して以来、たったの一度も見たことはなかった。いや、これは妻なのだろうか。まったくの別人のようだ。
妻のただならぬ気迫のせいで、安村の涙は完全に引っこんだ。
自分たちの落胆と混乱をよそに、セールスは順調に進んでいく。雲行きのあやしさを断ち切るように、つぎの現代絵画には多くの入札が集まって、一千万円を超える高値で落札された。ハンマーが振り下ろされたとき、会場ではまばらに拍手まで起こったくらいだ。予想額を三倍も上回ったらしい。
近くに座っていた来場者二人組の会話が、否応なしに耳に届く。
「最初の作品には白けたが、調子が出てきたじゃないか。やっぱオークションはこうじゃなくちゃね」
「ほんとだな。不落札になったんじゃ、出品した人も面目が立たないよなー。俺だったら恥ずかしくて、誰にも顔を合わさずにそそくさと帰るよ」
丸聞こえだぞ、馬鹿にするな――。
しかし二人は、真っ当で間違っていない。せめて妻には聞こえていませんように。
そう願いながら、恐ろしさの余り、妻の反応を確かめる勇気はなかった。
壇上にはつぎつぎと作品が現れ、パドルが挙がったり下がったりして、最後にはハンマーの心地よい音とともに、盛大な拍手が起こる。拍手がなかったのは、はじめの藍上作品のときだけだった。
会場は高揚し、どんどん人が増えて、満席になりつつあった。心なしか気温まで上昇している。しかし自分と妻だけは時間が止まり、全員から無視され、嘲笑されているような屈辱感にさらされていた。
やがて会場が、わっと沸いた。
壇上に本日の目玉作品のうちの一点である、ピカソの陶芸品が現れたからだ。先に運ばれていた展示台に、スタッフが手袋をはめて慎重に運んでくる。完璧な美しさをたたえたその一点は、情けない自分とは無縁の気高さを誇っていた。
*
例の陶芸品が現れるのを、熊坂羽奈は、最後列の端の方から見ていた。
最後列とあって、さっきまで空席が目立ったのに、とたんに大勢が入ってきて、両隣も埋まっている。
壇上でスポットライトを当てられた、本当は自分がつくったのにピカソ作と銘打たれている壺を睨みながら、羽奈は反吐が出そうだった。すべてが嘘で塗り固められている。壺の作者だけではない。アート業界の仕組み、キュレーターら評価する者の審美眼、そして、自分の過去。あれは、さまざまな嘘を寄せ集めた結晶だ。
あれさえなければ――。
羽奈は強く胸が締めつけられ、自分の無力さが許せなくなった。
「では、みなさん、お待たせいたしました。いよいよピカソの陶芸品が登場します。今回のオークションでは、ウォーホルの大作と並んで注目が集まっています。最初は、三百万円から」
オークショニアが展示台の壺を手で示しながら澱みなく紹介する。その瞬間、目の前で多くの札が一斉に挙がった。ざっと数えて数十人はいる。思った以上にずっと人気があるではないか。羽奈は激しい眩暈に襲われ、その場に倒れ込みそうになる。
「はい、そちらの紳士の手が挙がりました。三百五十」
すぐさま別角度を向いて、手で合図する。
「あちらのご婦人から、四百万円」
はじめは五十万刻みらしい。
あっというまに八百を超えて、つぎは二十五万刻みになった。
もうやめて。もう誰も、札を挙げないで――。
しかし、羽奈の願いも虚しく、値段はどんどん吊り上がる。壇上でハンマーを握るオークショニアも、額に汗が光っていた。最初は大勢挙がった札も、いつのまにか絞り込まれて三人の戦いになっている。そのうちの一人は、羽奈が内覧会場で見かけた外国人キュレーターだった。
「いよいよ九百万の入札がありました。いかがですか?」
そのとき、さきほどまで羽奈がマークしていた三人以外に、新しく会場の隅で待機している男性スタッフからも手が挙がった。男性スタッフは受話器を片手に入札しており、匿名の入札者が電話越しに参戦したようだ。会場にどよめきが起こり、本格化する戦いにますます注目が集まる。
羽奈はぎゅっと目をつむった。もう無理だ――。
意を決し、席を立ちあがる。後方には、立ち見がずらりと並んでいた。「すみません、通してください」と、小声で断りを入れながら、羽奈は廊下に出た。羽奈の足は迷わず、火災報知機へと向かう。息が上がって、乱れた呼吸音が、鼓膜に響いた。心臓のどくどくいう音もうるさい。
火災報知機の前で仁王立ちし、深呼吸をした。
あれさえなければ――。
もう嘘から目を逸らすのも、バレないかと怯えるのも、歪んだ優越感にひたるのも、全部終わりにしたい。これを押せば、すべてが終わる。これを押せば、これを押せば。目を閉じたまま、指を伸ばす。その先に、ボタンがあるはずだった。
だが、届かなかった。途中で、その指を、誰かに掴まれたからだ。
「待ちなさい」
低くて静かな声だった。よく知っているあの声。
驚きすぎて、羽奈は飛びあがった。
指を制止していたのは、美紅だった。
「やっぱり熊坂さん……だったんだね」
息も切れ切れなので、走って追いかけてきたようだ。その形相は厳しく、怒りや戸惑いが滲んでいる。
「な、なに? なんの話?」
「とぼけないで。今、あなたがしようとしていたことは、犯罪行為よ。いいえ、今だけじゃない。うちへの爆破予告だって、あなたの仕業なんでしょう?」
まさか、そんなことするわけない。と、すぐさま疑惑を否定するべきなのに、言葉が出てこない。心臓がバクバクと脈打って、呼吸するのでやっとだ。一方で、美紅は残酷なほど冷淡につづける。
「あなたは駆け出しの頃に、ピカソの贋作をつくった。たしかにピカソの陶芸品はよくわかっていない部分も多くて、偽物が出回っているから、あなたの実力があればそう難しくはなかったでしょうね。でもあなたは、ひとつだけミスを犯した。わかりづらいけど、あの作品には贋作者のイニシャルが刻まれている。H・K。デフォルメされているから気がつく人はいなかった。でもあなたの行動と照らし合わせれば、意味は明らかよ」
美紅はいったん区切り、息を吐いた。
「だからあなたは強硬手段に出た。今朝コールセンターのスタッフに確認したら、今日のオークションが開催されるのかを問い合わせる、ちょっと不審な電話が一度だけあったという報告を受けたわ。念のため録音を聞いてみたら、間違いなくあなたの声だった。あの問い合わせは、爆破予告の効果があったかどうかを確かめるためだったんじゃない?」
まさか、そこまで見抜かれていたとは。
「わ、私は……」
泣きださずに立っているのでやっとだった。
「これ以上、間違いを重ねないで。あなたは才能のある陶芸家なのに――」
才能、という言葉に過剰反応してしまう。
「やめて! 冬城さんになにがわかるっていうのよ! そもそも高校時代に冬城さんが同じような台詞で焚きつけて、私を調子に乗せなければ、こんなことにはならなかった。私がどれだけ苦労をしたか……あなたのせいでもあるわ」
支離滅裂だったが、美紅は言い返さず、冷たく睨むだけだった。
恨み節が止まらない。
「冬城さんは昔から頭がよくて、美しくて完璧で、今はこんな華やかな仕事に就いて、高給もらって働いている。それに比べて私は、泥まみれで工房の経営も崖っぷち。あなたにわかるわけがないわ!」
羽奈は勢い余って、美紅を突き飛ばした。
数歩よろめいたものの、美紅は動じない表情で訊ねる。
「騙されたんでしょ?」
羽奈は固まる。
「どうせ、優しいあなたのことだから、悪い画商に騙されたんでしょ? きっと池岡だったんじゃない? 彼が会場に来ているのを見て、嫌な予感が的中したと思ったわ。いいように言いくるめられて、ピカソの複製品をつくって納品したら、気がつくと贋作として取引されていた。違うかしら?」
羽奈は腰が抜けて、その場でへたり込んでしまう。
美紅は頭が切れることは知っていたが、そこまでとは思わなかった。
ごめんなさい、私が全部悪かったの――。
溢れでる涙を我慢できず、いっそすべてを懺悔したくなる。
しかし懺悔する資格が果たして、自分にあるのだろうか。あのとき自分は、ピカソの陶芸品を真似しながら、卑劣にも楽しんでいた。これは世界で一番出来栄えのいい偽物だ、と誇らしくさえあった。そんな本音まで、美紅は受け容れてくれるだろうか。数秒間で、さまざまな葛藤が駆け巡る。
一番恐ろしいことが、やっとわかった。
本当は、誰かにやらされたのではなく、自らやったという事実なのだ。
そのとき、甲高い音が頭上に鳴り響いた。
非常ベルの音だと理解するのに、数秒かかった。
身じろぎもしない美紅と、顔を見合わせる。どういうことなの、と珍しく狼狽えた顔がそこにはあった。羽奈の指はもう完全にスイッチから離れている。というか、今は廊下の床にへたり込んでいた。
(第36回につづく)