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第五章 オークション(承前)


「誰か、火を消すものをください、消火器じゃなく、毛布のようなものを……」
 無理やりバックヤードへ向かおうとするが、警備員ともみ合いになった。
「水久保さん、なにしてるの!」
 その声で、全身の力が抜ける。
「コダマ……」
 その日、会場で離れた席に座っていたコダマと、皮肉なことに、はじめて目を合わせて言葉を交わす。
「早く逃げましょう」
「でも、君の作品が──」
「そんなの、燃えたとしたって、また描けばいいんだから! あなたになにかあったらどうするのさ」
 一喝されて、水久保は目が覚める。コダマが自分のことを心配してくれている。
 その事実に気がついたとたん、その場にへたり込みそうになる。
「そ、そうだな」
 喜びを誤魔化すように肯いて、警備員に詫び、建物の外へと向かう。
 一緒に歩くコダマの顔を、まともに見られない。なにを話せばいいのか。
 また描けばいい、とコダマはとっさに言ってくれたけれど、描いたところで、もうミズクボギャラリーは辞めると言ったじゃないか。
 正式にうちを離脱したいと告げるメールを受けとってから、まだ二十四時間も経っていない。水久保の方も、オークションが終わってからゆっくり話そう、とその場しのぎの返事しかできていなかった。
 気まずい空気に耐えながら、水久保はコダマとともに、広場の人だかりから離れたところに移動した。避難した来場者には年配の人も多く、どこから駆けつけたのか救護班の姿もあった。とはいえ、避難の指示が迅速だったこともあり、目立った怪我人はおらず、そこまでの混乱は起こっていない。非常事態を面白がるような雰囲気さえあった。
「さっき、すごかったね」
 コダマがぽつりと呟き、水久保は背筋を正す。
「ああ、すごい音だったな」
「じゃなくて、水久保さんのことだよ。本気で、作品を守ろうとしてたでしょ」
「……まぁ、そうだけど、でも守れなかった。今頃、もう《ダリの葡萄》は燃えているかもしれない」
 想像するだけで、吐き気がして項垂れる。
「嬉しかったよ」
 思いがけない一言に、水久保は「えっ?」と顔を上げた。
「僕もじつは、遠くから水久保さんのことを捜していたんだ。そしたら、水久保さんは大声を張りあげながら、作品を残して自分だけ逃げるなんてありえないって暴れてて、正直ちょっと笑っちゃった。いい大人が、なに暴れてんのって」
 コダマはほほ笑んだ。
「おいおい、笑うなよ。必死だったんだ」
「うん。わかったよ、十分ね」
 コダマは笑みを消して、真剣な表情になってつづける。「だから、声をかけずにはいられなかったんだ。やっぱり水久保さんは、僕の作品に愛情を持って、ずっと接してきてくれていたんだなって、伝わったから」
 不謹慎かもしれないが、火災が起こってくれてよかったと思った。
 このまますべてがうまくいってくれ、とも。
「コダマ。どうか俺のことを許してくれ──」
 そう切り出したとき、誰かに背中を叩かれた。
「水久保さん、こちらにいらっしゃったんですね!」
 ふり返ると、立っていたのはコーディネーターのライ・リーだった。彼女には結局、計画を白紙に戻すことを伝えられないままだったので、今もっとも会いたくない相手だ。彼女はこちらの空気を読まず、中国訛りのある日本語で、いかに非常ベルに驚いたかをぺらぺらと語った。コダマの方をふり返ると、さきほどまでのリラックスした表情が一変して強張っている。二人を引き離そうにも、避難の最中でそれもままならなかった。
 どうやらライ・リーは、目の前にいる若者が、例のコダマレイであるとは認識していないようだった。サクラ計画を企てている作品の作者なのに、ネットなどで調べていないのだろうか。やはりライ・リーにとって大事なのは、アーティスト個人の人生ではなく、取引そのものに過ぎないのだ。
「それで、今、スタッフの方に確認したんですが、非常ベルが鳴ったのは、故障なのか、イタズラなのか人為ミスなのか、実際の火災は発生していないようです。すでに会場の安全確認をしているそうですから、運がよければ、コダマさんの競りも予定通りに再開されるんじゃないでしょうか?」
「そ、そうですか」と、目が泳いでしまう。
「今日のために、いろいろと悩んでいらしたわけですから、中止になっちゃ、拍子抜けしますよね」
 ライ・リーが思わせぶりにほほ笑み、水久保は冷や汗が吹きだす。
 もう余計なことを言わないでくれ。
「あの、僕、コダマレイといいます」
 思いがけず、コダマが一歩前に出て、ライ・リーを睨みつけた。
「あら、あなたが? はじめまして。お会いできて光栄です」
 さすがは海千山千のプロだ。明るく挨拶をするのを遮って、コダマは口調を強める。
「はっきり言います。もう水久保さんに近づかないでもらえますか? サクラのことはもう、バレていますよ。悪い噂をこれ以上流されたくなければ、今日のオークションでは手を引いてください」
 ライ・リーは困ったように肩をすくめただけで、取り乱す様子もなく、コダマを上目遣いで見返した。
「そう言われましても、私はただ、水久保さんからの依頼を受けただけです。そして、水久保さんが私に相談を持ちかけたのは、ギャラリーの経営が危ういからではないのでしょうか? その原因はもとをただせば、所属アーティストが魅力的な作品をつくっていないからだと存じますが」
 コダマは微動だにせず、目を見開いた。ライ・リーはくすりと笑った。
「自分でもわかっていらっしゃるんですね。余計なことを言って、ごめんなさい」
 彼女はコダマの肩にそっと触れたあと、水久保に向かって「では、のちほど」と小さく頭を下げて去った。
 水久保は呆然と立ち尽くした。仮にコダマとの関係を修復できても、ギャラリーが経営不振で存続の危機に追いやられていることに変化はない。このまま手を打たなければ、自分のギャラリーは沈みゆく泥船なのだ。コダマを引き留めることは罪ではないか。
「水久保さん。どうしてはっきり言ってくれないのさ?」
 コダマの低い声がして、われに返る。
「申し訳ない……俺はもう、正直どうしたらいいのかわからないんだ。君たちアーティストのためにいくら頑張っても、無駄なあがきでしかない。いや、正確に言えば、逆効果でさえある……」
「だからって、違法行為に手を染めるの? もう、どの水久保さんを信じればいいのかわからなくて、僕はついていけないよ」
 コダマは悲しい目で一瞥しただけで、離れていく。
 コダマとの幸せなひとときが、蜃気楼のように遠ざかった。

 

                        (第38回につづく)