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 第一章  ラブ・アンド・マネー(承前) 
 
 *
 
 東京オークションのセールスまで、あと三日に迫っていた。
 午前十時頃、凜太郎のもとに、受付から来客の知らせがあった。富永響子という、姫奈子の母親だった。
 すぐさま美紅に知らせると、応接室に通すように言われた。
 富永響子は、美魔女という表現がぴったりの、年齢不詳な女性だった。さて、どこをどういじったのだろう、と美容に詳しい凜太郎は真っ先に分析せずにいられない。肌は消しゴムをかけたように染みひとつなく、唇もプルプルである。完璧な比率の顔は、どこか人工的だった。引き締まった身体に、胸元が露出したシャツとジャケットを身につけ、アクセサリーも含めて見るからにお金がかかっていそうだ。
 まもなく紅茶とお茶請けが出されると、響子はこう切りだした。
「アポイントもなく、失礼いたします」
 丁寧な口調ながら、押しの強さを感じさせる。
「とんでもない。どうなさいましたか?」と、美紅が訊ねる。
「単刀直入に申しあげます。姫奈子からの今回の問い合わせは、なかったことにしていただきたいのです」
 美紅は瞠目したあと、頭をすっと下げる。
「たいへん申し訳ございません。昨日、姫奈子さんが弊社にいらっしゃったときに、こちらの対応に失礼な点があったようですね。今更ながら、謝罪を受け入れていただけませんでしょうか──」
「いえ、違うんです。どうか頭を上げてください」
 美紅はゆっくりと姿勢を正し、響子をまっすぐ見て訊ねる。
「……どういうことでしょう?」
「謝罪したいのは、こちらの方です。娘のわがままに付き合わせて、急にキャンセルすることになってしまい、心から申し訳なく感じています。東京オークションさんにはなんの責任もありませんので、ご安心ください」
 傍らで見守る凜太郎の疑問を、美紅が代弁する。
「状況が飲みこめないのですが、理由をお聞かせいただけますか?」
「ええ、そうですよね……なにから話せばいいのでしょう。娘の振る舞いには、以前から手を焼いておりました。あの子は、長女というのに結婚も出産もせず好きなことばかりして、富永家に生まれたことへの責任感が皆無です。好きなことにしか手を出さず、何事も長続きしない怠け者でして。そのくせ反抗的なのですから困ったものです。甘やかしすぎたせいでしょうね」
 否定的な評価のオンパレードに、凜太郎は内心、姫奈子に同情する。
 それに、話を聞けば聞くほど、響子の主張には違和感しかない。今時、結婚や出産を当たり前に求めるのは、どうなのだろう。響子の女性観は、一昔前から更新されずに止まっているように感じた。
 ──凜太郎くんって女の子みたいだね。
 ──男らしくしたらモテそうなのに。
 日本に帰るたびに、心無い評価をぶつけられた凛太郎は、古傷がうずく。
「しつけがなっていないせいで、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。今後、姫奈子から連絡があっても、取り合わないでください。その際は、こちらにご連絡いただければ私たちの方で対応しますので」
 響子はディオールのクラッチバックを開けて、テーブルの上に名刺を差しだした。
 富永グループの役員という肩書がつき、電話番号とメールアドレスが記されていた。
 しかし美紅は黙っている。一瞬だけ、今まで見たことがないくらい険しい表情が浮かんだのを、凜太郎は目撃した。怒っている? いや、まさか。誰よりプロフェッショナルな美紅は、いつだって感情を表に出さない。目を疑っているうちに、険しさは消え、いつものほほ笑みが戻っていた。
「なるほど。ご事情はわかりました」
 美紅は一拍置いて、相手を見据えながら、目を見開いてきっぱりと言う。
「ならば、それはできかねます」
「はい?」と、響子は間抜けな声を出した。
「本件は、姫奈子さまからお問い合わせいただいたので、最後まで、あくまでご本人とやりとりをさせていただきます。もしキャンセルするのであれば、姫奈子さまご自身から、こちらにご連絡をいただく必要があります」
 響子になにか言う間も与えず、美紅はつづける。「ですので、響子さまには、まずは姫奈子さまにお話しいただければ幸いです。姫奈子さまからのお申し出であれば、すぐにでもキャンセルを致します」
「……待って。私は彼女の母親ですよ。監督する立場なんですよ!」
「存じております。しかし一切の例外は認められません」
 清々しい笑顔で答えると、美紅は響子から差しだされた名刺を、すっと数センチ押し戻した。
 響子は眉間にしわを寄せる。形状記憶されそうなほど深かった。
「も、もちろん、キャンセル料など、金銭的な代償がともなうのであれば、対処法を考えても構いませんのよ」
「セールスの前ですので、料金はまったく発生しません」
「つまり……ただ、私の言うことを受けつけない、ということ?」
 響子はプルプルの唇を震わせている。さすがに凜太郎も、怖じ気づきそうになる。しかし美紅は、まったく動じない。
「左様です。さきほど申し上げたように、弊社はお客さまのご意思やプライバシーをなによりも重視します。たとえ肉親からのお頼みであっても、お客さまのご意向に背いたり、情報を外部に漏洩したりすることは、固く禁じられています」
 響子はしばらく美紅を睨みつけていたが、「わかりました」と息を吐いて、名刺をケースにしまい、クラッチバッグに放り込んだ。
「ええ、わかりましたとも! このような対応をされるとは、まことに心外ですわ。私にはアートをコレクションしているお友だちが何人もおります。今回の対応については、彼らにも報告しておきますからね」
 鼻の穴を膨らませながら、響子は別れの挨拶もせずに応接室を出ていった。
 火花が散るような応酬が終わって、凜太郎はやっと息を吐く。お金持ちという人種は、自分を中心に世界が回っていると思い込んでいる人ばかりなのだろうか。肩の辺りにどっと重みを感じる。
「まったく! 感じの悪い母親でしたね。姫奈子さんがあんな風に育ってしまったのも、ああいう母親から生まれたせいでしょうか? 二人ともわがままで似た者同士だし、いっそ今のキャンセルも受け入れた方がよかったんじゃないですか」
 返事がない。
 片づけする手を止めると、美紅が険しい顔で、こちらを見ていた。
 しまった──。キャンセルを受け入れるべきだったなんて、美紅の対応を否定する言い方じゃないか。さきほど一瞬認めた怒りらしきものが、ふたたび浮かんでいる。
「凜ちゃん」
 迫力に圧されて、「は、はい」と唾を呑みこむ。
「子どもは親を選べないものよ」
 思いがけない指摘だった。美紅にも育ちにコンプレックスがあるのだろうか。
「……すみません」
 答える隙を与えず、美紅は応接室を出ていった。

 

 (第6回につづく)