第二章 サラリーマン・コレクター(承前)
安村は一人で会場を出て、外のベンチに腰を下ろした。
見失っている──だって?
佳代子から言われたことを考えるが、やはり理解できない。とはいえ、完全に佳代子の味方についている高校生の娘は、最近まともに口をきいてくれないので、自分に非があるのかとは思う。しかしそれがなにかがわからない。少なくともわかるのは、離婚すれば娘に会わせてもらえなくなるということだ。
「おや、安村さまでいらっしゃいますね」
顔を上げると、欧米人のような風貌の男性が立っていた。
キャサリンズのアイザック・ホワイトだった。社交の場ですれ違ったことはあるが、改まって会話するのははじめてである。キャサリンズは安村のような低予算のコレクターは相手にしないからだ。といっても安村の方は、以前からキャサリンズに憧れを抱き、あれこれネットでチェックしていた。もちろん、アイザックについても日本と米国にルーツがあり、若くして東京支店のオーナーになったという経歴まで知っている。
「前々からご挨拶したかったんです。私はアイザック・ホワイトと申します」
「こちらこそ、声をかけていただいて光栄です」
名刺を交換しながら、安村はサラリーマンとしての癖でぺこぺこと頭を下げる。
「光栄なのはこちらの方です。安村さまとは以前から、折り入ってお話しさせていただきたいと思っていました。今回のオークションでは、安村さまのコレクションで有名な、あの藍上潔の素晴らしい大作を出品なさっていますね?」
アイザックは上目遣いで言う。
「ええ、そうですが」と、安村は訝しがりながら答える。
「拝見しましたよ。円熟期の傑作であり、状態も申し分なかったです。にもかかわらず、予想落札額が低くて驚きました。私どもキャサリンズで出品していただければ、二十万ドルは下りません」
「に、二十万ドル?」
「もっと高額をお望みですか?」
安村は必死に平静を装いながら、さすがキャサリンズだと唾を飲み込む。東京オークションは冬城美紅のように優秀な社員がそろっているとはいえ、日本国内の市場が主なので入札者も限られている。キャサリンズの方が顧客のパイプは圧倒的に太いのだ。
「二十万ドルなんて、私には願ってもいない大金ですが、もう今更ですし……」
返答に詰まっていると、アイザックは不敵な笑みを浮かべた。
「“制御されたカオス”をご存じですか?」
唐突な一言ではあったが、安村はすぐにピンとくる。
「ポロックの言葉ですね」
「さすが、安村さま。お詳しい」
「いえいえ、たまたま知っていただけですよ」と謙遜しながらも、自尊心がくすぐられる。
「そう、藍上潔が若い頃に影響を受けたジャクソン・ポロックの芸術は、ときに“制御されたカオス”と呼ばれます。一見して運任せの無作為な作品に思えて、じつはポロックによって周到にコントロールされた美なのです。むしろ、あらゆる美がつねにコントロール下に置かれている。偶然生まれたと見えるような美ほど、です」
話の筋が見えない安村に、アイザックはつづける。
「つまり、運や偶然に任せていては、結局のところ夢は成し遂げられない。われわれキャサリンズの社員はそのことを肝に銘じています。もしわれわれに作品を任せていただけるなら、どんな手を使っても高額で落札させてみせます」
「どんな手を使っても?」
「ええ、他ならぬ安村さまのためですから」
安村は頬が紅潮するのを感じた。これだ、これだからやめられないのだ。特別扱いされているという実感を得られることが、安村にとってアート・コレクションの醍醐味だ。自分は大切にされるだけの価値ある人間なのだ、という優越感を得られる。
「……少し待ってもらえますか? この段階になって出品を取り下げられるかどうか、東京オークション側に訊いてみます」
「もちろん。いつでもご連絡ください」
アイザックは一礼をして、その場を去っていく。
脚が長く優美なうしろ姿に見惚れていると、その先に見覚えのある人物が現れた。東京オークションの社長、栗山氏ではないか。栗山氏は安村の方には気がつかず、アイザックに軽く手を上げて合図したと思ったら、二人で並んで歩いていった。
いったいどういう関係なのだろう──。
ふと疑問が浮かぶが、着信音でかき消された。
冬城美紅からだった。
「もしもし、安村さま。まだ会場の近くにいらっしゃるようでしたら、少しお時間をいただけないでしょうか?」
「ああ、僕の方もお話があるんです」
「左様でございますか。どのようなお話でしょう?」
快活な美紅の声に、安村は返答できない。今更出品を取り下げれば、美紅には多大な迷惑をかけることになるだろう。アート購入をはじめた頃から数え切れないほど世話になってきた恩を踏みにじるようで、安村は葛藤する。
「……まず、僕がそちらに行きますよ。話はそれからで」
「承知いたしました」
通話を切って、安村は深い息を吐いた。
──自分を見失っている。
なぜか妻の一言が、頭のなかでこだました。