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第三章 変人と奇人(承前)

 こちらを見つめる西田の視線に、同情の色が混じるのを感じた。西田は「まぁ、大変そうだもんね」と訳知り顔で呟くと、空気を変えるつもりか、聞いてもいないのに最近出張したというマイアミのアートフェアの話をはじめた。パーティが大規模でセレブが大勢いたとか、持っていった作品は即完売したとか、好き勝手にしゃべりつづける。
 前の職場にいた頃、西田は仕事があまりできず、水久保がさり気なくフォローすることが多かった。そんな水久保に西田はいつも感謝し、尊敬していると言ってくれた。しかし今となっては、その片鱗もない。あのまま大手に残っていれば、という考えが水久保の自尊心を蝕む。
「マイアミのフェアは景気もよかったし、来年は出展したら?」
 西田はこちらの焦燥感をよそに、デリカシーのない提案をしてくる。内実、ミズクボギャラリーは海外フェアへの作品輸送費はおろか、出展料さえ支払うのも厳しい。西田は嫌味で言っているのだろうか。
「そうだね、ありがとう」
 もはや愛想笑いする気力も失くしたところで、ちょうど同行していた西田の客が戻ってきた。きらびやかな夜の通りへと去っていく二人を見送りながら、水久保は心底うんざりする。必死にとりつくろう自分が馬鹿みたいだった。
 
 西田が去って一息つく間もなく、通りの向こうから所属アーティストのグループが歩いてくる。
「お疲れさまでーっす。コダマくんの展示を見に来ました」
「やぁ、みんなか。来てくれてありがとう」
 口々に挨拶をすると、彼らは展示に散らばる。
「あの、水久保さん。ちょっといいですか?」
 声をかけてきたのは、金山麗華だった。数年前にコダマから友人として紹介され、本人から「所属させてほしい」と強く頼まれた三十代前半の女性絵描きである。バーバリーのトレンチコートに、別のハイブランドの小さなハンドバッグを斜め掛けして、五歳になる娘の手を引いている。
「お話があるんです」
「そっか、ここでいい?」
「いえ、できれば二人きりで」
 麗華から強い口調で訴えられ、水久保は嫌な予感を抱きながら応接室に案内する。麗華は娘を友人である別のアーティストに預けてから、水久保と向かいあうように腰を下ろした。
「単刀直入に言って、作品の前払いをしてほしいんです」
 麗華は変わらず軽い調子だったが、水久保はいきなりのハードな内容に面食らう。
「えっ、ど、どういうこと?」
「娘のベビーシッターを変えることにしたんです。子どもの世話をするだけじゃなく、英語とかも教育してくれるサービスがあるんです、ナニーっていうんですけど。小学校受験も控えているので」
 実家が太い箱入り娘の麗華は、港区の広々したマンションに娘と暮らしている。実家から支援を受けているはずなのに、ことあるごとに金を無心してくるのは、絵描きとして自分一人の力で娘を育ててみせると意地を張り、たびたび実家と喧嘩をするためらしい。
「えっと……今のベビーシッターじゃ駄目なの?」
 その一言で、麗華の目の色が変わった。
「可愛い娘にきちんとした教育を受けさせたいって思うのは、いけないことですか? シングルマザーに育てられたからって将来的に馬鹿にされないように、娘には立派な子になってほしいんです!」
「いや、決してそこを疑ってるわけじゃないけど──」
 麗華は間髪をいれずに畳みかけてくる。
「このあいだ、水久保さんに何点か絵を預けましたよね。あれ、どうなったんですか?」
 ああ、と水久保はため息を吐いた。
「まだ売れてないんだよ」
「それ、おかしくないですか? こっちは水久保さんに頼まれたから、時間と労力を費やして作品を描いて、それで水久保さんもいい作品だって同意して持っていったのに、支払いが生じないなんて」
 声を荒らげる麗華を、「落ち着いて」と水久保は宥める。
「最初にもしっかり説明したけど、うちは買取じゃなくて委託販売なんだ。だからマージンも五分五分という良心的な配分になっているわけで──」
 誠実に説明してきたつもりだったが、麗華は話半分でスマホをいじりはじめ、不満そうに唇をとがらせた。
「でも契約書とか、交わしたわけじゃないですよね」
「け、契約書?」と、水久保は気圧される。少なくとも以前の大手ギャラリーでは長らくグレーな部分はグレーなままで済ませるという風習があった。悪しき習慣ではあるが、今の水久保にそれを変えるだけの余力は残っていない。「頼むから、面倒なことを言わないでくれよ」
「なにそれ」
 なにそれ? 水久保は唖然としながら、さきほど西田に抱いた憤りが、ふつふつと再燃してくるのを感じた。
 そっちこそ、もっと売れる作品を描いてくれよ。ギャラリーは危機的な経営難にもかかわらず、いまだ頭角を現す者はいやしない。こちらが選んだアーティストとはいえ、君たちこそ真剣にやっているのか? 文句ばかり一人前で、なかなか新作を見せてこない。麗華にしても、先日やっと完成した三点を展示のために持ち帰っただけなのに、早くも支払いをしてほしいなんて、どれだけ偉そうなんだ?
 しかしそんな本心をすべて飲みこみ、水久保は穏やかに言う。
「こっちも大変だから、わかってくれないかな」
「もういいです!」
 麗華はしびれを切らすように立ちあがった。
 水久保が黙っていると、挑発的にこちらを睨みながら言う。
「曽我さんの気持ちがよくわかりました」
 曽我──麗華が吐き捨てるように口にした名前は、水久保の胸の奥を疼かせた。
 それは、どれだけ意識しないようにしても、決して消えない古傷だった。
 言い返せず、ただ固まっている水久保を置いて、麗華は「娘が待ってるんで」と応接室から出ていく。
 なにもかも最悪だった。どうしてこんなにうまくいかないのだろう。せめて今度の東オクのセールさえうまくいけば。コダマの《ダリの葡萄》さえ高値で落札されれば。もはや水久保はそのことしか考えられなくなっていた。
 失敗すれば、コダマもまた曽我のようになるかもしれない。
 そのとき、水久保の脳内で、唯一光が射している方向があった。
 そうだ、あの手がまだ残されている。
 名刺ファイルを手にとって、ページをめくる。あった、まだ捨てていなかった。しかしこれは禁じ手に違いない。やってはいけないと頭では重々承知しているが、今の水久保はほぼパニック状態でその名刺を掴んでいた。記された番号に電話をかけると、数回のコール音のあとでつながった。
「あの、先日お会いした水久保という者です」
 自暴自棄になるな。すぐに通話を切れ──。
 心のなかでもう一人の自分がささやく。しかし水久保はそれを無視して、誰にも聞かれないように声を押し殺した。
「オークションでサクラを頼めるって、本当ですか」

 (第20回につづく)