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 第二章 サラリーマン・コレクター(承前)


 *

 凜太郎が顧客対応の合間に会場を歩いていると、藍上作品の前で話しこんでいる安村がいた。
 あれは奥さんだろう。作品を見られてよかったな──。
 ほほ笑ましく見守っていると、奥さんの方だけこちらに歩いてくる。
「ご来場くださり、ありがとうございます」
 笑顔で挨拶すると、奥さんはビクリと肩を震わせた。
「ああ、こんにちは……えっと……」
「東京オークションの小洗凜太郎と申します!」
「そうですか、安村佳代子です。夫がいつもお世話になっています」
 佳代子は遠慮がちに頭を下げてふり返るが、安村の姿はなかった。
「このたびは素晴らしい作品を弊社に預けていただき、誠にありがとうございます」
「素晴らしい、ですか」
「もちろんです。今回安村さまの貴重なコレクションを扱うことができて、大変ありがたく感じています」
「はぁ、ありがたいと……」
 佳代子は深いため息を吐き、黙りこんだ。
 さすがの凜太郎も、オウム返しの連続に不穏な空気を感じとる。
「あの……他の作品などもご覧いただけましたか?」
「いえ」
 素っ気なく答える様子からして、もしかすると佳代子はアートにさして興味がないのかもしれない。話題を探していると、佳代子はほほ笑んだ。
「これから拝見するつもりです。私、こう見えてアート作品を見るのは嫌いじゃないんです。独身の頃は一人で美術館に行くこともあったくらいで、昔は夫ともよく出かけました。ただし、今はそんな気分になれないんです」
 凜太郎はなんと答えればいいのかわからない。
 すると、佳代子は表情を明るくしてつづける。
「お忙しかったら、私の対応なんてしなくて大丈夫ですよ」
「いえ、そんな」
 たじろぐ凜太郎にかまわず、佳代子は声のトーンを落として言う。
「夫は感覚が麻痺しているんです。そのせいで家族は長いあいだ振り回されてきました。本当のことを知ったら、小洗さんも夫に対して違う印象を持つと思います」
 誰でもいいから愚痴をこぼしたかったのか、それとも、アート業界にいる凜太郎にも責任があると思っているのか。戸惑う凜太郎に語りはじめた佳代子の目には、有無を言わせない迫力があった。
「出会った頃、夫は今みたいな人じゃなかったんです。少なくとも価値観がズレているとは感じませんでした。むしろ、堅実な人柄に惹かれたんです。当時はまだバブルの名残りがありましたが、浮ついたところのない夫といると安心できました」
 中小企業で経理として働いている安村は、昔は趣味に大金を投じることはなく、金銭感覚もきわめて堅実な方だったらしい。一方、同業である佳代子も、お金の使い方には厳しい家で育ち、節約が趣味みたいなところがあると自ら語った。
「だから夫があの作品を買ってきたときも、まさかそのあと、ここまでのめり込むとは思ってなかったんです」
 そう言って、佳代子は藍上の《無題》がある方を向く。
 巨大な抽象絵画は、彼女の目にどううつっているのだろう。
「えっと……安村さんがはじめて買った作品とお伺いしました」
 著書の内容を思い出しながら、凜太郎は問う。
「ええ。驚きましたが、なにより嬉しそうだったし、真面目な主人にひとつ宝物ができてよかったと思いました。好きなことがあるっていいことじゃないですか。誰かを応援したいっていう気持ちもわかるし。ただ、高額の投資をしたり、私生活をないがしろにしてまで打ち込むべきじゃないですよね」
 安村は以後もアートの購入をつづけ、しだいに変わっていった。
 まだ小さかった娘が熱を出しているのに海外のフェアに出かけていったときは、さすがに呆れたという。そもそも作品の購入費だって、そんなものがあるなら本来は娘の教育費として貯金しておきたかった。
「夫は、生活費はちゃんと渡しているんだから、残りは好きに使っていいだろうって言うんです。共働きだしって。正論にも聞こえるけど、どうしても許せなくて」
 佳代子は黙りこんだ。「……どうして許せないんだろう」
 悲しげな呟きに、凜太郎は返す言葉がない。
「東オクの方だから言いますけど、夫が好きなことなんだから許してあげたい気持ちもあるんです。でも最近ではメディアに露出するようになって、さらに夫が別人になったように感じられます。なにかが憑依したように見えてしまうんですよ。自己顕示欲っていうんですかね。とにかく他人からの尊敬を集めたいっていう欲望が伝わってきます。実力が伴っていないのに。服装のセンスだってないし。それに……」
 ここまで奥さんからの評価が低かったら、安村もつらいだろうなと同情しながら、「それに?」と凛太郎は促す。
「ある記事をたまたま新聞で読んだんです。駆け出しの若い女性画家に付きまとう中年の男性コレクターがいるっていう内容でした。女性アーティストの作品を買うたびに、もしかして、夫の真の目的はこれなんじゃないかって疑うようになって。へんな世界ですよね、アートって」
 佳代子の言う通り、金を払う側なのをいいことに、セクハラまがいの迷惑行為に走る客もいるのは事実だった。つくり手が存在するアート収集は、ある意味“推し活”的な側面もあるのだ。
「安村さんはそんな方じゃないと思いますが?」
「そうじゃなきゃ困ります。でも疑ってしまうのを止められないし、私はやっぱりアートをよく理解していない夫がどんどん作品を買うことに嫌悪感があるんです。単にお金の問題ではなく、もっと根本的なところで受け入れられなくなるから。小洗さん、あの人、芸術のセンスがあるように見えますか?」
「え、ええ、それはもちろん」
「お優しい方ですね。本当はプロの方たちから小馬鹿にされてるんだろうなって、私は妻として情けないです」と、佳代子は目を逸らした。
 凛太郎はしどろもどろになりながら話題を変える。
「ところで、安村さんとは話し合われたんですか?」
「以前は。でも聞く耳を持ちません」
 佳代子は《無題》を睨みながら言った。
 凜太郎はふと思う。佳代子が本当に許せない理由は、嫉妬もあるんじゃないか。夫が自分や家族に対して向けるべき時間やお金を、代わりに捧げているアートというものに対して恨みを抱いているのではないか。佳代子はまだ安村に愛情が残っているのは口ぶりからも伝わるし、すれ違ったままなのは残念だった。
「って、私ってば長々と愚痴ってしまい、本当に申し訳ありません」
「いえ……僕たちもなにも知らずにすみません」
「謝るのはこちらの方です。すべては夫の責任です。話しながら、やっぱり思いました。庶民のくせに身の程を知らず、舞いあがっている夫が悪いんです」
 佳代子はそこまで話すと、「では、失礼します」と去っていった。

 

 (第13回につづく)