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 第四章 破壊からはじまる

 寝不足のせいで、重力が増したようなだるさを感じた。
 まだ太陽が昇りきらない窓の外を睨みながら、真っ先にスマホに手を伸ばす。東オクのホームページには、もちろん変化がなかった。もう期待すらしておらず、惰性でチェックしているだけだ。コールセンターに電話したときから、爆破予告の効果がないことはわかっている。
 布団をはねのけ、この日開催されるオークションのカタログを手にとる。アンディ・ウォーホルの紙幣をモチーフにした作品が堂々と印刷された表紙は、手触りがよく高級感があって、いかにも富裕層が好みそうだ。
 付箋のついたページを開き、そこに掲載された作品を見ていると、怒りがつのる。これさえなければ、この作品さえ市場に出なければ──。今度は胃がきりきりと痛みはじめ、胃薬へと手を伸ばす。小さなガラスの瓶は、もう空になっていた。
 不快さを追いだすべく、深く息を吸ってから、部屋の片隅に置いていた段ボール箱を、机の上に慎重に置いた。材料は揃っていた。インターネットや本で入念に調べたので、手順も頭に入っている。あとは手を動かすだけだ。
 ここ一ヵ月の迷いとは裏腹に、作業はじつにスムーズに進んだ。危険な薬品を扱うことも多い職業柄、こうした代物をつくるハードルは低い。リスクを伴うときほど冷静かつ正確に手を動かせる性分でもあった。
 できあがった代物は、トイレットペーパーの芯に似た形状と大きさの爆発物だった。ハンカチで包んで鞄に忍ばせれば、まさか不審物だとは気づかれないだろう。ただしオークション会場の手荷物検査がどのくらい厳しいのかはわからない。後悔しても仕方ないが、事前に下見をしておけばよかった。
 こうなれば、実際に行ってねらいを定めるしかない。オークションが中止になり、これを使わないまま済むことを心から望んでいるが、自分以外に、そんな奇跡を起こせるわけがなかった。

 *

 凜太郎はオークション当日を迎えた朝、いつもより早く出勤した。
 緊張で目が冴えたせいもあるが、会場で最終確認すべき事項が山積みだったからだ。国内外に返すべきメールも溜まっている。無事に一日が終われば明日は好きなだけ布団で過ごし睡眠不足を取り戻してやるぞ、と自らを鼓舞しながら、入館ゲートをくぐって誰もいないオフィスで作業をはじめた。
 二杯目のコーヒーを飲み終えた頃、他のスタッフが続々と出勤してきた。普段よりも華やかだったり、フォーマルな服装に身を包んでいたりする。まもなく席についた美紅も、タイトな黒いワンピースがよく似合っていた。
「会議の準備は?」
「はい、もうできています」と資料を掲げると、美紅はうなずく。
 午前九時からの会議には、ほぼ全員のスタッフが四角に並んだ長机の席についた。こちらを見つめる視線の真剣さに圧倒されながら、凜太郎は唾を飲みこむ。これまでの身を削る思いでした準備が報われるかが、あと六時間と経たずに決まるのだ。
 この会議では、ひとつずつ、作品の入札者やその状況を確認する。司会を務めるのは総合的にオークションを取り仕切る美紅である。凜太郎はとなりに立ち、彼女のアシストに徹した。今回も壇上でハンマーを握りオークショナーを務める社長は、美紅の近くで資料を読み込んでいる。
「まずは、ウォーホルの《一九二枚の一ドル札》について。富永グループのご令嬢、姫奈子さまをはじめ、多くの入札申し込みがあります。姫奈子さまは数時間後に会場にいらっしゃるので、私と小洗が対応します」
 美紅のきびきびとした説明に、社長が口をはさむ。
「ご令嬢ははじめての入札というが、ご様子は?」
「昨日お電話したら、緊張なさっているようでしたが、落としてみせると意気込んでもいらっしゃいました」
「期待できるな。とはいえ、最後まで気を抜かずサポートを頼む。ウォーホルの大作は、今回の目玉だから」
 美紅は口角を上げて、肯いた。
「わかりました」
 それから数点の作品について確認がなされる。
「つぎは、藍上潔氏の《無題》について。こちらはコレクターの安村さまからお預かりしています」
「入札者は?」
「じつは、思った以上に問い合わせが少ないままです」
「困ったな」
「安村さまの奥さまも、この作品の落札額に並々ならぬこだわりを抱いていらっしゃるようなので」と言いよどみ、美紅は顔をしかめる。「ご本人には、当日になって新しい入札があるケースも珍しくないとお伝えしていますが」
 凜太郎の不安がふたたび大きくなる。安村の妻、佳代子とは直接話もして事情がわかっているので、二人の関係が心配だった。だからこそ、これまで広告を打ったり目星をつけたコレクターに連絡したりと手を尽くしたが、ここまで来れば東オク側にできるのは番狂わせが起こるようにと祈ることくらいだ。
「わかった。慎重に進めよう。つぎは?」
 他の作品を担当しているスタッフが順番に現状を報告すると、総じて悪くはない状況だった。むしろ過去のオークションと比べても入札数が多い方だという印象さえ受ける。絶対に成功させたい、と凜太郎はペンを持つ手に力がこもる。
「最後の作品は、コダマレイ氏の《ダリの葡萄》。ミズクボギャラリーに所属する新進気鋭のアーティストで、多くの問い合わせをいただいていますが、今のところ桜井さまからの入札額が最高です。しかも、桜井さまはどうしても落札したいので、さらに予算を積んでもいいとおっしゃっています。ただ……」
 美紅はそこまで言って、言いよどむ。たしかに凜太郎も、気になっていた。美紅はあのあと水久保と直接話をしたようだが、水久保がサクラを呼んでいるのではという疑惑はまだこの胸の中でくすぶっている。でも、あくまで疑惑であって、今ここで口にするのは憚られるけれど。
「事情は心得ているよ」と、社長は口調をやわらげる。「こちらも慎重に入札者を見極めよう。少しでも怪しい入札者がいたら、声をかけてほしい」
「わかりました。では、以上になりますが、他になにかありますか?」
 一瞬、爆破予告のことが頭をよぎったが、話題にする者はいない。
 ──油断しないで。
 二日前に美紅が言ったことがこだまし彼女の方を見るが目が合わず、かといって自分から声をかける勇気はなかった。あと少しでオークションがはじまるのに、問題はいくつも残っている。凜太郎は今日が無事に終わる気がせず、明日を迎えている自分さえ想像できなかった。

 

                        (第27回につづく)