最初から読む

 

エピローグ


 この日の歌舞伎町は見事なまでの快晴だった。太陽が燦々と輝き、目に痛いくらいに街を照らしている。
 きっとお天道様も今日の納涼祭を祝福してくれているのだろう。
 午前七時半過ぎ、颯太は店先に出て、両手を空へ突き出した。伸びと共に大欠伸が出た。昨夜から一睡もせずに、餃子を大量に仕込んでいたのだ。
「颯ちゃん、おはよう」
 と、声を掛けてきたのは店の隣にある不動産屋のデブオヤジ――名前を山本という――だった。もっとも、ふつうの不動産屋ではなく、水商売の人間や曰く付きの連中が客相手の、グレーな商売人だ。
 当人もろくでなしで、ギャンブルに狂っていて、借金まみれの身だった。裏カジノに行く際には、闇金の取り立て人が必ず同行するらしい。
 颯太はそんな山本から妙に好かれていた。こちらは邪険にしているのだが、いつも人懐っこい顔ですり寄ってくる。店にもよくやって来ていて、だがラーメン代すらないことも多く、大抵はツケを頼まれる。
「いやー、これまたぶっ飛んだ事件が起きたね」
 山本がこちらに歩み寄って来ながら言い、颯太が「ぶっ飛んだ事件?」と眉を顰めると、「え、ニュース見てないの?」と彼は目を見開いた。
「こっちは夜通しで餃子を仕込んでたんだよ」
「ああ、今日は稼ぎどきだもんね」
「おっさんも出店でも出せや。そんでもってツケを払え。言っとくけど今月は待ってやらねえからな」
 そう言いつけると、山本は一本指を立て、「そんなことより都知事だよ、都知事」と前のめりになった。
「都知事がどうしたんだよ」
「殺されたのさ」
「はい?」
「だから殺されたの」
 一瞬、思考がショートする。言葉は届いても、理解が追いつかなかった。
「どうして都知事が殺されるんだよ」
「知らないよ、そんなの」
「誰に?」
「だから知らないって。犯人、捕まってないもの」
「どこで?」
 訊くと、山本は斜め上を指さした。その先には青空に向かって延びる歌舞伎町タワーがある。
「あそこに入ってるホテルの一室が殺害現場だってさ。どうやら都知事は昨日からあそこに宿泊――」
 聞き終える前に、颯太は店の中に入った。カウンターに置かれたリモコンを手に取り、古びたテレビを点けた。立ったまま視聴を始める。
 はたして山本の話は本当だった。都知事が殺害されたとニュースで報道されていたのである。中継に映っている場所はここから目と鼻の先だ。朝なのに野次馬の数がすごかった。
「マジでヤバいよね」
 背中の方で山本が言った。どうやら勝手に店内に入ってきたようだ。
「総理は殺されるわ、都知事も殺されるわ、いったいこの国はどうなっちゃって――」
「うるせえな。声が聞こえねえだろう」
 テレビの音量を上げた。
 報道によると、藤原悦子都知事が殺害されたのは昨夜のことのようだ。だが、死体が発見されたのは明け方になってのことらしい。秘書が部屋を訪ねたところ、応答がなかったため、支配人を伴って部屋の中に入った。そこで床に倒れている都知事を発見した。肝心の死因は刃物で切られたことによる失血死とのことだ。
『警察は現場から立ち去ったホテルの従業員である女性が事件と何らかの関わりがあるとみて、現在女性の足取りを追っているとのことです』
 アナウンサーが神妙な顔で口早に述べると、「えっ、犯人はまさかの従業員なの?」と山本が驚きの声を上げた。
「それも女って。これまたたまげたねえ。いったいどんな女が何の目的で――」 
「うっせえんだって。出てけよ」
 颯太はさらに音量を上げた。
 だが、ここから新たな情報は得られなかった。チャンネルを回して、ほかの局のニュースもチェックしたが、みな一様に同じことしかしゃべっていない。おそらく報道規制がされているのだろう。
 テレビを消した。だが、颯太はしばらくその場から動けなかった。
 都知事に思い入れなどないが、ショックだった。それは怒りや悲しみといった感情ではなく、ただただとんでもないことが起きたのだという事実を受け止めきれないのだ。
 正直、颯太の中では池村総理が亡くなったときよりも衝撃がでかかった。
 その理由を考えてみたところ、おそらく、より身近な存在だったからだろうと思った。藤原悦子がPYPで活動をしていたとき、歌舞伎町で頻繁にその姿を見かけていたのだ。
 何はともあれ、今日の納涼祭はどうなるのか。都知事が亡くなったから中止なんてことにされたら困る。こちらはすでに準備してしまっているのだから。
「なあ。納涼祭、ちゃんと行われるよな?」
 山本に訊ねてみたが無視された。彼は勝手にカウンター席に座り、熱心にスマホをいじっている。
 その山本が「ねえ、ねえ」と声を発した。
「さっきのニュースで都知事は刺殺されたって言ってたじゃない。どうやら、ナイフで頸動脈を掻っ切られたみたいよ」
「それ、どこの情報だよ」
「ネット。関係者を親に持つガキがSNSで暴露してる」
「そんなの眉唾だろう」颯太は鼻を鳴らした。「ってか、おっさんもSNSなんかやってんのかよ」
「やってるよ。ギャンブル仲間と情報交換するのはSNSが一番手っ取り早いもん。あ、颯ちゃんのアカウントを教えてよ。フォローするから」
「おれは持ってねえよ。そういうもんは嫌いなんだ」
「ふうん。若いのにめずらしいね」と山本は鼻を啜る。「でさ、現場は血の海だったんだってさ。部屋の壁がガラス張りになってたそうなんだけど、そこに血飛沫がべっとりと付着してたって」
 頸動脈を掻っ切られたのならそうだろうなと思った。もっとも、そんな場面を目撃したことはないのだけど。
「なんか、おれは悲しいよ」
 山本がため息混じりに言った。
「なんでだよ」
「応援してたから。藤原都知事のこと」
「へえ。意外だな」
「だってあの人、カジノ推進派だったじゃない」
「知らねえよ」
「法案自体は前々から通っていて、何年か先に大阪に日本初のカジノ施設ができるんだけどね、東京にも作りましょうって藤原都知事は訴えてたんだよ」
 それも知らなかった。颯太は政治にもギャンブルにも興味がないのだ。
「けど、それならおれは反対だな」
「どうして?」
「カジノなんかが公営になっちまったら、おっさんみたいなダメ人間が増えるだけだろう」
 そう言うと、山本は膝を叩いて愉快そうに笑った。
「でも颯ちゃん、知ってるかい? すでに日本は世界一のギャンブル大国だってこと」
「そうなのか」
「そうよ。それもダントツでね。毎年、ギャンブルの売上が年間十兆円以上もあるんだけど、そんな国って実は日本しかないんだよね。だから世界一のギャンブル大国」
「ふうん。なんかみっともねえ称号だな」
「おれは立派だと思うけどねえ。ちなみにその中の一番の売上はパチンコ」
「あっそ。もうその話はいいわ。そろそろ準備を始めるから出てってくれ」
「でもってそんなパチンコ屋が一番儲かる日っていつだと思う?」
「おっさん耳が遠いのか。もういいって言ってんだろう」
「答えは生活保護の受給日。あははは」
 まったく。ろくでもねえ国だ。
 颯太が呆れてかぶりを振ったとき、店のドアが勢いよく開いた。
 入ってきたのは刑事の小松崎だった。その表情にいつもの余裕がなかった。軽く息を切らせている。
「平岡。女は?」
「女?」
「愛だ」
「愛ちゃん?」
「ああ。どこにいる」
 小松崎が真剣な眼差しで颯太を睨みつけてきた。
「どこって、知らないっスよ。おれが知るわけないでしょう。連絡先すら知らないんだから」
 咄嗟に嘘をついた。現在の居場所と連絡先を知らないのは事実だが、本当はこのあと彼女は店にやって来ることになっている。店先に立つ売り子を愛が務めることになっているのだ。
「愛ちゃんがどうしたんスか。何かあったんですか」
 訊ねると、小松崎は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「悪いが詳しいことは言えない」
「そりゃないっスよ。訊くだけ訊いて、こっちの質問――」
「とある事件の容疑が掛かっている」
 小松崎は遮って言い、颯太はごくりと唾を飲んだ。
「話せるのはここまでだ。万が一愛と会ったら、もしくはその居場所がわかったら、おれに連絡をくれ」
 小松崎が名刺をカウンターに滑らせてきた。そして、「必ずだぞ、平岡」と念を押して店を出て行った。
 山本と顔を見合わせる。
「颯ちゃん。今の人、刑事?」
「ああ」
「愛っていうのは?」
「客だ。うちの」
「事件の容疑って言ってたよね」
「ああ」
「もしかして、都知事のやつじゃないよね」
「まさか」
「だよね。まさかね」
 山本の顔は引き攣っていた。きっと自分はもっとだろう。

 店内で一人、気を揉みながら時を経ること一時間、時刻はやがて九時を迎えた。
 愛は現れなかった。
 おそらく遅刻ではないだろう。
 売り子不在の問題もあるが、それ以上に彼女の身が心配だった。店と客、それも知り合って数ヶ月の間柄だが、颯太はいても立ってもいられなかった。
 いったい、彼女は何を仕出かしたというのか。
「切り替えて仕事だ、仕事」
 颯太は両頬を叩き、口に出して言った。
 とにかく今は愛の代わりを務めてくれる売り子を確保しなければならない。これこそが目下、自分が行うべきことだ。
 そうと決まればまずはトー横へ向かってみよう。あの広場には若い連中がわんさかいるので、片っ端から声を掛けて交渉すれば働き手が見つかるはずだ。難航するようなら、バイト代を増やすこともやぶさかではない。
 そうして颯太が出掛けようと、店のドアに手を掛けたところ、自動扉のようにドアが勝手に開いた。ほぼ同時に外側からの力が加わったのだ。
 そこに立っていたのはTシャツにハーフパンツ、キティちゃんのサンダルを履いた少女だった。化粧をしているが年齢は中学生くらいだろう。
「あ、ごめん。まだ準備中なんだけど」
 颯太が言うと、少女は「バイトしにきた」とぶっきらぼうに口を開いた。
「バイト? うちで?」
 少女が頷く。
「ええと、どういうこと?」
「店の前で餃子とか売るんでしょ。そのバイト」
 詳しく聞けば、少女は深夜の歌舞伎町で女から声を掛けられ、ラーメン屋で一日バイトをしないかと話を持ち掛けられたという。
「その女の人の名前は?」
 女が誰かはわかっていたが、あえて訊ねた。
「聞いてない」
「特徴は?」
「特徴……綺麗なお姉さんって感じ」
 まちがいない。愛だ。
「で、働いたらいくらくれるの?」
「いくらくれるって……雇えねえよ。だってきみ、まだ中学生だろ?」
「小学生だけど」
 思わず「えっ」と声が出た。
「マジかよ。何年生?」
「六年。学校は行ってないけど」
 どうしてまた愛はこんなガキに代理を頼んだのか。意味がわからない。
「なあ、その女の人にはどこで声を掛けられたんだ?」
「大久保公園のとこ」
「もしかしてきみ、立ちんぼしてたのか?」
「そう」
 颯太は脱力した。最近の歌舞伎町に立つパパ活女子はどんどん低年齢化が進んでいるという。そして若ければ若いほど客取りに困らないらしい。つくづく世も末だ。
「ねえ、いくらくれるの? おっさんとヤるより稼げるって言うから来たんだけど」
 愛のヤツ、勝手なことを――。
「稼げるわけねえだろ。日給一万だ、一万」 
「あーあ、やっぱり騙された」少女が舌打ちした。「無理。うち、帰る」
「おう、帰れ。帰れ」
 颯太は手をひらひらさせて追い払う仕草をした。
「マジで大人って嘘ばっか」
 背を向けた少女が捨て台詞のように言った。
「おい」と、咄嗟にその背中を呼び止める。「おまえ、親は?」
「さあ」
「いないのか」
「いるけどいない。どっちもクソだから」
「でも家はあんだろ? なら帰った方がいいぞ」
「やだ。地獄なんかに戻りたくない」
 地獄――か。
「なあ、歌舞伎町は楽しいか」
「楽しくはないけど、楽」
「楽?」
「うん。うちの居場所はここしかないと思う」
 なぜだろう、その台詞が七瀬を思わせた。
 颯太は天井を見上げて、ふーっと息を吐いた。
「おまえ、腹減ってるか?」
「減ってるけど」
「じゃあラーメン食ってけ」
 少女が怪訝そうな目で見てきた。
「うち、そんなので働かないよ」
「バカ野郎。こっちだって頼むつもりねえよ」
「じゃあ、ぼったくろうとしてる? あ、ヤラせてほしいんでしょ」
 ため息が出た。この子はよほど変な大人とばかり関わってきたのだろう。
「そんなこと言わねえし、金もいらねえよ。いいからそこ座って待っとけ」
 颯太は厨房に入り、サクッとラーメンを作った。チューシューを一枚、通常より多く載せてやった。
 差し出されたラーメンを少女は無我夢中で食べている。
「どうだ、美味えだろ?」
 少女が箸を動かしたまま頷く。ただし、箸の握り方はグーだ。
 やがて少女はラーメンを平らげ、席を立った。そのまま出入り口へ向かおうとしたので、「おいコラ」と呼び止めた。
「ご馳走さまだろ」
「ご馳走さま」
「腹減ったらまたうちに来い」
「また無料にしてくれる?」
 つい笑ってしまった。
「ああ、いいよ。その代わり、皿洗いくらいさせるけどな」
「わかった」
 少女がドアを開け、店を出て行った。
 だがその十数秒後、再びドアが開き、また少女が姿を見せた。
「なんだよ、忘れ物か?」
 颯太が訊ねると、少女は気恥ずかしそうにして、「働いてあげてもいいよ」とボソボソと言った。
「だから雇えねえんだって」
「……そっか。わかった」
 そう言って踵を返した少女を「待て」と颯太は呼び止めた。
「やっぱり働け。ただし、日給は一万だからな」
 そう言い渡すと、少女は口元を綻ばせて頷いた。
 なんだよ、可愛い顔できるじゃねえか。颯太も相好を崩した。
「あ、そういえば」
 少女が思い出したように手を叩いた。
「女の人から伝言を頼まれてたんだ」
「おれに?」
「うん」
「なんて?」
「またね、だって」
「それだけ?」
「それだけ」
 肩透かしを食らった。
 まあ、愛らしいか。
 たぶん、きっと、愛とはまた会える。いつになるかわからないが、彼女は猫のように、またふらっと店にやって来る。
 なぜか、そんな気がした。
 ほどなくして、おもてが騒々しくなってきて、颯太は店先に出た。
 驚いた。すでに物凄いひといきれだったのだ。様々な国籍の老若男女が行軍のようにして通りを歩いている。この数は例年以上かもしれない。
 みんな、今朝の事件などどこ吹く風、そんなふうに見えた。
 これぞ我が街、歌舞伎町――。
 颯太は《準備中》だった木製の看板を裏返し、《真心込めて営業中》にした。

 

(了)