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 店のドアを開け、フロアに足を踏み入れると、その場にいる全員の視線がいっせいに竜也に注がれた。
 フロアの中央に誠心会の連中が七、八人固まって立っていて、その前で店長の飯島をはじめ、ボーイスタッフらが土下座をしていた。女たちは距離を取るように壁に沿って横一列に並んでいる。その表情は一様に恐怖に歪んでいた。
 ほかに客はいなそうだった。きっと巻き添えを食いたくなくて帰ったのだろう。
 何はともあれ、想像していた以上の切迫した状況に竜也は当惑を隠せない。
「キサマ、従業員にどんな教育をしとるんじゃコラ」
 一人の男が椅子を蹴り上げて叫んだ。
「この度は当店の不手際により、お客様にとんだ不快な思いをさせてしまいました。誠に申し訳ありません」
 竜也は声を張って言い、その場で頭を垂れた。
「しかしながら、飲み物一つでここまでなされるのは、さすがにいかがなものでしょうか」
「飲みもんだ? おれらがそんなこまいことで怒っとると思うとんか」
「ちがうのでしょうか」
「全然ちゃうわ。こっちが虫入っとると指摘したら、『うちはそんな飲み物を出した覚えはない。おたくら自分で入れたんだろう』なんて吐かしよったんや」
 まさか――飯島を見た。この男に限ってそんな火に油を注ぐようなことを言うはずがない。飯島は冷静で、誰よりも腰が低い男なのだ。もちろん彼はカタギである。
 次にボーイスタッフらを見回した。きっとこいつらの中の一人だろう。若さゆえに怖いもの知らずの愚か者がいたのだ。
「なあ、たしかにそう言うたよな、お嬢ちゃんよ」
 お嬢ちゃん――? 
 男の視線の先を見る。そこには竜也の見知らぬ、真っ赤なドレスを纏った女がいた。ほかの女たちが壁に沿って立っている中、その女だけは堂々と足を組んでソファーに座っている。それも、大胆不敵にも煙草を吹かしていた。
「さあ、覚えてない」 
 女が気だるそうに、紫煙を吐き出しながら言った。
「覚えてねえだ? ええ加減にせえよ、このアマ。道頓堀に沈めたろか」
「ここ、東京だけど。バカなんじゃない」
 耳を疑う発言に竜也は唖然とした。
 男を見る。目を剥いていた。そして女に向かって足を踏み出した。すると、男の後ろに立っていた年嵩の者が、「まあ、待てや」と制した。
 年嵩が竜也に視線を向ける。
「わしは宇佐美うさみてつってもんじゃ」
 やはりそうか。その貫禄からおそらくそうだろうと思っていた。宇佐美は誠心会の若頭だ。
「この店のオーナーの浜口竜也と申します」
「あんたが浜口さんか。一つよろしゅう頼みますわ。で、あっこのお嬢ちゃんがそう発言したんは事実や。わしもこの耳でしかと聞いとる。さっきのあんたの台詞やないけど、さすがにいかがなもんか思うわな。この落とし前、どうつけてくれるつもりや」
「ここのお代は結構です」
「それはまあ、当然やろな」
「迷惑料もお支払いいたします」
「それはちゃうな。わしら、別に金が欲しいわけやない」
「ならばこの通り、頭を下げるほかありません。従業員に不適切な発言がありましたこと、心からお詫びさせていただきます」
「そらどうも。けど、できたら、わしらあのお嬢ちゃんから一言詫びがほしいんだわ」
「かしこまりました」
 竜也は新しい煙草に火を点けている女のもとへ足早に向かった。
 女の前に立ち、「さあ、お客様に謝って」と告げた。
「どうして?」
「どうしてって。きみはお客様に失礼な発言をしたんだろう。さあ早く立って」
「イヤ。だってわたしは事実を言ったまでだもの。あいつらの自作自演に決まってるじゃない」
 女が咥え煙草のまま答えた。
 竜也は言葉に詰まった。なんて強情な女なのか。
「そんなことはおれだって百も承知だ」竜也は女の耳に口元を近づけて言った。「だけど、証拠がないだろう。だから今はこの場を収めるほかない。きみがまちがっていないのはわかるけど、ここはおれに免じて折れてくれ。頼む」
 竜也が声をひそめて懇願すると、女は鼻から紫煙を吐き、煙草を灰皿に押しつけて立ち上がった。
 そして宇佐美のもとへ向かって行き、「さっきはごめんなさいね。あたしがまちがってたみたい」と、不敵に言い放った。
「お嬢ちゃん、そんな誠意のない詫びはないな。正しい謝罪ってのは床に額をこすりつけてするもんや」
「誰が決めたの、そんなの」
「決まっとるんや。常識やろう」
「ごめんなさいね、非常識で。そんな常識知らずなわたしだから、正しい謝罪の仕方がわからないの。あなたが先にお手本を見せてくださる?」
 宇佐美が肩を揺すって笑い出した。
「まいったな。ほんまどうしてくれるかな。なあ、お嬢ちゃん、教えてくれよ」
「とことん話し合うほかないんじゃないかしら」
「ほう。ここでか」
「いえ、みなさんの迷惑になっちゃうし、場所を変えましょ」
 女はそう言うなり、一人出入り口へ向かった。この場にいる全員が呆気に取られた。
「肝の据わった女がいたもんやな――ほんなら、そうしよか」
 宇佐美が若い衆を促して女のあとを追った。
 だが、途中で足を止め、
「浜口さん、勘違いせんといてくれな。わしらがこのお嬢ちゃんを拐ったわけとちがうぞ」
 釘を刺すようにそう言い残して、店を出て行った。

 一団が嵐のように去ったあと、店の女たちとボーイスタッフらを帰らせ、店先の電光看板の灯りを落とさせた。こういうことがあった以上、これから営業再開はできないだろう。
 竜也は店長の飯島と膝を突き合わせ、くだんの女についてあれこれと質問を浴びせた。
 はたしてあの女は何者なのか。
 女の名前は愛、『Ranunculus』に入店したのは三ヶ月ほど前だそうで、スカウト経由ではなく、自ら面接希望者としてやって来たのだという。それほど前から在籍しているのなら、竜也が知らないはずがないのだが、愛は入店したものの、これまでほとんど出勤していなかったらしい。
「いくら頼んでもシフトに入ってくれないものだから、『じゃあ気が向いたらおいでよ。うちはいつでも歓迎するから』とだけ伝えていたんです。そうしたら今日になって急にやってきて今夜働かせてほしいって――」
 そして誠心会の連中から愛に指名が入ったのだという。きっと見てくれが良かったからだろう。愛は抜群の美人だったのだ。
「で、VIPルームで愛ちゃんと何人かの子が接客しているときに、ああいうことが起きてしまって……」
「なるほど。そういう流れだったか」
 だが愛はどこで連中の自作自演を疑ったのだろう。まさかその行為を目撃したわけでもあるまい。 
「自分はあの子があんな爆弾娘だとは思いませんでした」
「そりゃあな。あんなはねっ返り娘、そうそういねえもん」
 今頃、愛はどうしているだろうか。きっとこの期に及んで、不遜な態度を取っていることだろう。あの女は意地でも泣き寝いりはしなそうだ。
「あの子、大丈夫ですかね」
「さあ。けどまあ、連中だって女相手に手荒な真似はしないさ」
「ですよね」
 竜也と飯島が同時にため息をついた。
「あの子、どこかの富豪の娘らしいんですよ」
「そんな子が水商売なんてしないだろう」
「いや、たぶん本当だと思います」
「その根拠は? 本人がそう言ったのか」
「本人は何も。でも、店の女の子たちが噂してたんです。愛ちゃんがホストクラブで湯水のようにお金を使って遊んでるって――あ、それこそ『Dream Drop』だって聞きましたけど」
「は? うちで?」
 思わず声が大きくなった。『Dream Drop』は竜也が手掛ける三つのホストクラブの内の一つだ。
「ええ、自分はそう聞きましたけど。浜口オーナーはご存知なかったですか」
「いや、それがさっきの子なのかわからないけど、そういう若い女がいたっていう報告はたしかに聞いてるな」
「じゃあ、きっとあの子がそうですよ」
 竜也はすぐさまスマホを取り出し、『Dream Drop』の店長の中西なかにしに電話を掛けた。中西は歌舞伎町の元ホストで、あまり賢くはないが熱意だけは人一倍ある男だ。
 その彼に問いただしたところ、『Dream Drop』で散財していた女が、先ほどここでおてんばしていた愛であることを確信した。
〈実はあの子が店に来なくなっちゃったものだから、ここ最近うちの売上が落ちてるんですよ〉
「なんだ、真凰くんは飽きられちゃったのか」
〈いえ、真凰じゃなくてユタカがいないからだと思います〉
「ユタカくん? 彼女は真凰くんの客だったんだろう」
〈そのはずだったんですが、ユタカに乗り換えたというか、まあ、実際のところはよくわからないんですけど〉
 要領を得ない話にイライラした。こいつはいつもこうなのだ。
「で、そのユタカくんがいないってのはなんだ?」
〈それが自分らも困ってるんですが――〉
 ユタカが三週間ほど前から無断欠勤をつづけているらしい。連絡も取れないというので、おそらくは飛んだのだろう。
 これはけっしてめずらしいことではなかった。この街では客同様、ホストもまた、ある日突然消えることがままあるのだ。
〈たしかにそういうヤツはごまんといますけど、ユタカは売上も伸びていたし、とくにトラブルを抱えている様子もなかったんで、本当にどうしちゃったんだろうって〉
「おまえにはその様子がないように見えていただけで、本当はあったってことだろ。おれからすると、彼はいかにもってタイプに見えてたけどな」
 ついこの間、初めて二人でユタカと飯に食ったときのことを思い出す。その際、利己的で薄情そうなヤツだという印象を受けた。もちろん人のことを言えた義理じゃないが。
〈まあ、きっとそうでしょうね。何かしら問題があって逃げたんでしょうね〉
「ああ、それしかないさ」
 そう発言したあと、竜也の中である想像が頭をもたげた。
 もしかしたらユタカは今歌舞伎町で起きている抗争に巻き込まれたのかもしれない。彼は陰でスカウト引き抜き活動に一枚噛んでいて、そこで何かしらのトラブルが発生した――その考えに至ったらますますその可能性が高いように思えた。なぜなら竜也から『butterfly』のスカウトと縁を切れと忠告をした直後に彼は飛んだのだから。
 いずれにしても、ユタカはもう、この街に戻って来ることはないだろう。
 中西との電話を終えたあと、竜也は勝手に店の酒を開け、飲み始めた。こんな日は酔わなきゃやっていられない。
「万が一、内藤組が誠心会に潰されるようなことがあればおれもおまえも路頭に迷うことになるぞ。おいわかってるのか、飯島」
 竜也が部下相手にくだを巻いていたところに、店の扉が開いた。
 誰かと思えば愛だった。
「ああ、よかった。無事だったんだ」飯島が安堵のため息と共に言った。「奴らに何もされなかった?」
「ええ、全然。むしろ打ち解けちゃったくらい」
「冗談でしょう」
「ほんとですよ。個人的に連絡先も交換したし」
「おいおい、それは困るな」竜也が口を挟んだ。「あの連中とプライベートで親しくするようなら、うちには置いておけないよ」
「あ、じゃあ辞めます。今日の分のお給料は結構なんで」
 愛はあっさりそう言い放ち、バックヤードへ向かった。荷物を置いたままだったのだろうか。
 そして再びフロアに姿を見せた愛は、「わたし、お腹空いちゃった。飯島さん、退職祝いってことでご飯に連れてってくださいよ」と、軽い口調でそんなことを申し出てきた。
 竜也はすかさず、「おれが連れてってやるよ」と言った。
 この謎めいた女についてもっと深く知りたい。愛には、誰だって興味を示すだろう。
 竜也は愛と連れ立って店を出た。

 

(つづく)