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 暑さがますます際立ってきた。気温は日に日に上がっており、先日は熱中症で死者が出たという報道もあった。日本の夏は外出禁止となる日もそう遠くない気がする。
 盆が迫った金曜日の早朝、藤原から國彦のスマホに電話が掛かってきた。応答するや否や、〈いい加減にしてちょうだい〉と鼻息荒い第一声が飛び込んできた。
〈歌舞伎町は外国人観光客がもっとも訪れる街なのよ。こっちが全世界に向けて歌舞伎町の魅力をアピールしている中、こんな物騒な事件を起こされちゃたまったものじゃないわ。だいたいあなたたち、令和のこの時代に暴力に訴えて覇権争いをするだなんて――〉
 昨夜、抗争事件があったのだ。國彦のところの若い衆が誠心会に寝返ったオーナーのキャバクラ店を訪れ、営業妨害を行っていたところ、そこに駆けつけた敵陣営と揉み合いになり、激しい乱闘へと発展したのである。
 これまで何度も街中で衝突してきた両陣営だが、今回はその規模がちがった。双方ともに次々と仲間が応援に駆けつけ、最終的に乱闘に加わった人数はこちらは八人、敵は二十人以上となった。これによって店内は修羅場と化し、多くの血が流れた。
 誠心会も相応の痛手を受けただろうが、内藤組はその比ではなかった。こちらの若い衆は全員が病院送りにさせられたからだ。その中で組の盃を持っている者は三人、あとの者は準構成員の立場であったが、大幅な戦力ダウンにはちがいなかった。
 さすがの國彦も意気消沈し、途方に暮れた。もはや内藤組は絶体絶命、万事休すだった。
〈この事件はすでに副総理の耳にも入ってるのよ。わたしは朝っぱらから嫌味を言われたわ。『相変わらず都庁のお膝元が騒がしいようですが』ってね。あなたたちの抗争はそれほど問題視されてるの。なぜかわかる? そこが東洋一の歓楽街だからよ。これで外国人を巻き添えにでもしてみなさい。大変な国際問題になるわよ。それでなくとも物騒な街だってことで外国人観光客が減ったら、経済に甚大な影響が――〉 
 藤原のキンキンした声が鼓膜を刺すたびに頭に血が上っていった。
〈どうせわたしが早いところ警察を動かさないからこうなるんだって言いたいんでしょう。あなた二言目にはそれを持ち出すものね。今あの手この手を使って根回ししてるわよ。だからそれまでは大人しくしてて。いいわね? わかったわね?〉
 まるで教師が理解力の乏しい生徒に言い諭すかのごとく説教され、怒りがますます募っった。
「あんた知ってるか」 
〈何をよ〉
「ここの住人がマナーの悪い外人共にうんざりしてるってことをだ。奴ら、よその国ででかい顔して歩いて、むちゃくちゃしやがるだろう。だったらここらで一つ、歌舞伎町にジャパニーズマフィアありってことを刷り込んでおくのも――」
〈笑わせないで。言っとくけど今や東京は、いえ、日本全体がインバウンドの恩恵なくしては立ち行かないのよ〉
「それはテメェら政治家の責任だろうが。自分たちの無能さを棚に上げてほざくな」
〈なんですって? こっちの苦労もわからないくせして知ったような口を利かないでちょうだい〉
「そっちこそ、税金を納めてる都民様に対して、ずいぶんな物言いじゃねえか。おれは毎年きっちり確定申告もしてんだぞ」
〈表の端金だけでしょう。黒い金も納めてから吠えなさいよ〉
 さらに怒りが増幅した。くだらない口喧嘩であることはわかっているが、なんとしてもこの女を言い負かしてやりたくなった。
「豊洲市場じゃ二重価格なんてのが横行してるんだってな。あんたもこっそり推奨してるそうじゃないか。日本も下賤な国に成り下がったものだ」
〈そんなのはどこの国もやってることなの。狭い世界に生きているあなたは知らないでしょうけどね〉
「よそがやってるからうちもやりますってか。見上げた大和魂だこって」 
〈あら、金持ちの外国人からぼったくって何が悪いのかしら? あなた、憲法14条1項はご存知? そこには『国民は、法の下に平等』って書いてあるの。つまり外国人には平等権は保障されないし、平等に取り扱わなくてもいいってことなの〉
「その拡大解釈をメディアを通して訴えてみろや」
 その後もしばらく、生産性のない口論はつづいた。
〈もういい。こっちはあなたと言い合いをしている暇なんてないの〉
「ああ、同感だ。だが、約束は守ってもらわなきゃ困る。あっちの件はどうなってんだ?」
〈だから今動いてるところだって言ったでしょう。物事には順序ってものがあるの。一つ一つ手順を踏んで――〉
「三日だ。あと三日以内に警察を動かせ」
〈馬鹿なことを言わないで。無理に決まってるじゃない〉
「じゃあ、いつだ? この場で期限を決めろ」
〈今月中にはなんとかするわよ〉
 國彦は声高に笑ってしまった。
「藤原、おれをナメるのも大概にしろよ」
 一転して低い声で凄むと、藤原が黙り込んだ。
「どうやらまだわかっていねえようだな。改めて言うぞ。おれが倒れたらテメェの知られたくない過去も公になると思え」
〈いい加減そういう脅しはやめてちょうだい〉
「だったら誠意を見せろ。いつだ?」
〈……二週間〉
「一週間だ。そこまでは譲歩してやる。だが、それまでに警察が動かなければ、おれはテメェの過去をメディアに売る。本気だぞ」
〈……〉
「地獄までテメェを道連れにしてやるからな。覚えとけ」
 捨て台詞を吐き、そのまま電話を切ろうとすると、それを察した藤原が〈ねえ待ってよ〉と止めてきた。
〈あなたが少し前に話してた浜口竜也の件だけど、そっちは何か進展ないの?〉
「残念ながら、何も」
 先週から愛に誠心会の周辺を探らせているが、いい報告は聞けていなかった。むしろ連中も浜口の失踪を不可解に思い、その行方を調べているのだという。ただし、それは奴らのパフォーマンスの可能性もある。
〈もし本当に誠心会の仕業なんだとしたら、なんとかしてその証拠を掴んでちょうだい。それさえあればこっちだって動きやすくなるんだから。つまり大義名分が欲しいの〉
「ああ、わかった。浜口の件は引き続き探る。だが、それがないから警察を動かせませんでしたは通用しねえからな」
 改めて念を押し、電話を切った。そしてすぐに愛に電話を掛けた。ここ数日、彼女からの連絡がないということは何の進捗もないのだろうが、直近の状況を把握しておきたい。
 だが、愛は応答しなかった。おそらくまだ寝ているのだろう。あの種の女はきまって夜行性なのだ。國彦はどんなに夜更かしをしても、朝にはきっちり起床する。朝日を浴びてこそ、一日の活動に精が出るというものだ。
 スマホを耳から離し、デスクの上に雑に放った。すると、スマホは卓上を滑り、フローリングの床に落ちた。
 そのとき、ある疑問がぽんと頭をもたげた。それは、あの女はいったいどこに住んでいるのだろう、というものだ。
 思えば愛について認識しているのはその名前と、二十一歳という年齢、そして惚れ込んだホストの行方を追っているということだけだ。
 もっとも、これは彼女に限ったことではなく、その他の情報屋もみなそうであった。彼らの個人情報やプライベートなど興味がないし、それを知ったところで得もないからだ。欲しているのは彼らが持ってくるネタだけである。
 國彦は指先でトン、トン、トンとデスクを叩いた。
 ――不気味なんですよ。
 ――ゾッとしたんです。
 ふいに耳の奥でシゲの声が再生され、次に愛の微笑が脳裡に浮かび上がった。
 國彦はスマホを拾い上げ、若頭のシゲに電話を掛けた。彼は今、歌舞伎町にある大久保病院に詰めている。昨夜の乱闘で負傷した怪我人が運ばれている病院がそこなのだ。
「そっちはどうだ?」
 ワンコール目で応答したシゲに状況を訊ねた。彼には内藤組の責任者代行として、病院及び警察の対応を任せている。
〈どいつも命に別条はありませんが、当分は使い物にならないでしょう〉
「そうか。刑事は?」
〈数名来ています。ただ、加害者、被害者共に堅気がいないので、大事にする気はなさそうです。それと、自分はこのあと事情聴取で新宿署に行くことになってしまったので、おそらく昼過ぎまで身動きが取れません〉
「任同だろう。断ればいいじゃないか」
〈小松崎から首根っこを掴んでも引っ張ると言われてしまいましたから〉
やつこさんも来てるのか」
〈ええ。いの一番に病院に駆けつけてきましたよ。今もすぐそこのベンチに〉
 すると電話の向こうから、〈相手は矢島か。だったら代われ〉と小松崎の声が漏れ聞こえた。
〈おい矢島、あれほど忠告しただろう。意地を張るのもいい加減にしろ。おまえが降伏しないせいで下の者が泣いてるじゃねえか。これ以上、歌舞伎町に血の雨を降らせるな〉
「こっちは被害者じゃないですか。文句なら加害者側に言うのが筋でしょ」
〈ぬかせ。もとはおまえんとこの若いのが吹っかけて始めた喧嘩なんだぞ〉
「だとしても限度があるでしょう。見ての通り、うちは全員が半殺しの目に遭ってるんですよ」
〈気に食わないなら被害届でも出したらどうだ〉
「ふん。受理する気もないくせに――うちのに代わってください」
 数秒後、再びシゲが電話口に出た。
〈ではこれで。警察署を出たらまた連絡を入れます〉
「待て。最後に一つ訊きたいことがある」
〈なんでしょう〉
「おまえ、ちょっと前に愛について調べると言ってただろう。実際に動いてみたのか?」
〈ええ、一応。ですが、まったく素性が浮かび上がってきません。あの女、謎だらけです〉
「それは片手間に調べたからじゃないのか。だいいち愛は歌舞伎町に来て、まだ日が浅いらしいぞ」
〈だとしても、あまりに過去が不透明です。唯一知れたことといえば……失礼。ちょっと移動します〉
 少し間を置いて、
〈唯一知れたのは、あの女がDivinusの会長と繋がっているという話だけです〉
「Divinusって、あのホテルのか」
〈ええ。そうです〉
 Divinus Pacific Hotel――都内の高級シティホテルから地方のリゾートホテルまで手掛ける国内の有名企業だ。歌舞伎町タワーの上層階に入っているホテルも、たしかDivinusだったのではないだろうか。
 國彦はDivinusの会長と面識はないが、メディアを通してその顔は知っている。名前はむらしげじゆうぞう、歳はすでに八十を超えているはずだ。
「そんな大物とホス狂いの小娘がどこでどう繋がったんだ?」
〈さあ、そこまでは。ただ、噂では会長があの女をえらく可愛がっているということでした。ただし、これは噂の域を出ない話なので、そこだけご留意を〉
 國彦はしばし虚空を見つめた。少々気になる話だ。
「おまえ、なぜこれをもっと早くおれに報告しない」
〈昨夜、入手した話なんです。親父の耳に入れようとしたところ、こういうことが起きてしまったもので〉
「なるほど。よし、この件はおれが直接愛に訊ねてみる。おまえは引き続き後処理を頼む」
 電話を切り、デスクを離れて窓辺に寄った。指でカーテンを開き、眼下に広がる新宿の街並みを見下ろした。真夏の日差しが降り注ぐ中、交差点をたくさんの人が往来している。ちょうど出勤の時間帯だからだろう、その多くは勤め人だった。
 なぜ自分は彼らのような人生を歩むことができなかったのだろう――國彦は一瞬、つまらぬ感傷に触れ、それを打ち消すようにカーテンを閉じた。

「ああ、村重のおじいちゃんね。うん、とっても仲良しよ」
 國彦の質問に対し、愛は屈託ない笑顔で答え、キングサイズのウォーターベッドに大の字に寝そべった。
 彼女から折り返しの電話があったのは昼を過ぎてからだった。その電話で用件を伝えることはできたが、直接会って話したかったので、しぶる彼女を強引に呼び出した。
「これって何がいいのかまったくわからないわ。逆に身体が疲れそう」
 愛がウォーターベッドの表面を手で叩いて言った。
 ここは稲荷鬼王神社の真裏にあるラブホテルの一室だった。この場所を会合の場に指定したのは愛だった。國彦は新宿ではないところを希望したのだが、彼女が移動が面倒だというので、仕方なくここになった。たしかにここなら人目につかず、時間をずらして別々に入れば誰にも怪しまれない。國彦は愛に先に部屋に入らせ、自身はそれを確認してからホテルへ向かった。一応、ホテルの出入り口の前には若い衆を二人、見張りに立たせている。
「村重会長とはどこで知り合ったんだ?」
 國彦がベッドの端に腰掛けて訊ねると、愛は天井を見たまま「訪問介護」と答えた。
「わたし、前にそういう仕事をしていたから」
「おまえが人の介護?」
「意外かしら? こう見えて根は真面目なのよ」
「まあいい。つづけろ」
「つづけろも何もそれだけよ。あの人、糖尿病で足を悪くしちゃって、自力歩行ができないの。で、車椅子で公園とかをお散歩するんだけど、付き人たちに押してほしくないってわがままを言うもんだから、その役割を一時期わたしがやってたってわけ」
「もうやってないのか」
「今もたまに呼び出されて、時間があれば付き合ってあげてるけど。まあ、一種のボランティアね」
 國彦は目を細めて愛を見据えた。
「そりゃあ多少のお小遣いはもらってるわよ。だってあの人、すぐにお尻とか触ってくるんだもの。こっちはあなたの孫娘より若い女だっていうのに――」
 愛の話に相槌を打ちながら、國彦は計算を働かせていた。この小娘は思っていた以上に利用価値があるかもしれない。人脈は生きていく上で何より大切なものだ。
「念のため確認するが、そのスケベじいさんがDivinus Pacific Hotelという大企業の会長で、とんでもない資産家だってことは知ってるんだよな?」
「もちろん。そのせいで、わたしあの一族から毛嫌いされてるし。わたしが村重のおじいちゃんの資産を狙って近づいたって、ふざけた言いがかりをつけられてるの」
「ちがうのか?」
「ちがうに決まってるじゃない。他人の財産を当てにするほど、落ちぶれちゃいないわ」
 愛は少し腹を立てたように言って、上半身を起こした。

 

(つづく)