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十一月も中旬を迎えると夜はちょっとだけ肌寒い。月初は街にまだ微かに残っていた夏の匂いは完全に消え、そこかしこに冬の気配を感じるようになった。
今年、七瀬は一日たりとて秋を感じなかった。振り返ればそれらしい日がいくつかあったかもしれないが、季節というのものを意識して日々を過ごしていなかった。
たぶん東京にいたからだ、と七瀬は思う。
郷里の群馬ではいやがおうにも季節というものを思い知らされる。とりわけ七瀬の暮らしていた地域は自然が多く、四季の移ろいがはっきりしていた。
七瀬は地元を離れてみて一つわかったことがある。あの町はゴミだ。夏は死ぬほど暑く、冬はクソほど寒い。
きっとこの先一生、自分があそこに戻ることはないだろう。いい思い出がカケラもないのだ。
深夜一時半、七瀬は二丁目に向かっていた。二丁目といっても歌舞伎町ではなく、新宿の二丁目だ。矢島に電話で呼び出されたのである。
あのヤクザとは定期的に会っているが、いつもこうして歌舞伎町以外の場所を指定される。きっと七瀬といるところを知り合いに見られたくないのだろう。
初めて足を踏み入れる新宿二丁目は歌舞伎町とはまたちがった、独特な雰囲気を放っていた。カラーで喩えるなら歌舞伎町二丁目はピンク、新宿二丁目はパープルだ。噂には聞いていたが男同士のカップル、女同士のカップル、はたまた男なのか女なのかわからない者がそこら中にいる。
七瀬は街灯に背をもたせ、煙草を吹かしながら、ベンチに並んで座るカップルのディープキスを眺めていた。どちらもいい歳をしたおっさんなのに周りの者は誰も気に留めない。
なんかいい街じゃん、と思った。
「お嬢ちゃん、路上喫煙はダメよォ」前を通った女装した男が足を止め、注意してきた。「罰金取られちゃうわよォ」
「はーい」と咥え煙草のまま返事をすると、「ま、可愛くない娘」とプイッと顔を背けて去っていった。
首から下げているスマホを手に取り、時刻を確認する。一時四十五分だった。矢島からは二時に『マーマレード』というミックスバーに来いと言われている。ミックスバーとは多種多様なセクシャリティの人々が集うバーなのだという。
まだ早いがここで待っているのもダルいので店に向かうことにした。マップアプリを頼りに進むと、すぐに『マーマレード』の看板を見つけた。店は地下にあるようだ。
煙草を踏みつけ、階段を下りて行き、鉄製のドアを開ける。すぐにああなるほどと思った。薄暗いが様々な種の男女が混在してるのがわかる。店内は意外と広い。
まだ矢島はやってきていないようだ。
「いらっしゃい」店員がやってきて愛想良く声を掛けてきた。美人なおばさんだが声が野太い。
店員は七瀬の顔を覗き込み、「ねえ、お嬢さん、おいくつ?」と苦笑して言った。
「二十歳」
「ウソをおっしゃい」
「ほんとだよ」七瀬は財布から健康保険証のカードを抜き取り、見せた。「ほら」
「あらま」店員が目を丸くさせる。「十七、八だと思ったのに」
「よく言われる」
「でもお嬢さん、ノンケよね」
「ノンケ?」
「ストレートってこと」
これにも首を傾げた。
「男の子が好きでしょう」
「いや別に」
「あ、そうなの。じゃあいいわね」何か勘違いしてくれたようだ。「うちは初めて?」
「うん。待ち合わせしてるの」
奥に通され、壁側のテーブル席に案内された。やはり七瀬が異質なのだろう、客たちが好奇の目を向けてくる。
注文したコーラをストローで啜りながら矢島を待っていると、ほどなくして彼から電話が掛かってきた。
すでに店の中にいることを伝えると、
〈よく一人で入れたな〉
「言ったでしょ。ちょっと前に他人の健康保険証を拾ったって。だからどこでも入れるの」
〈そういう意味じゃない〉
電話が切れ、その十数秒後、矢島がやってきた。彼はウーロン茶を注文した。このヤクザは酒が飲めない体質らしい。それと煙草も吸わない。いつだったか颯太が、「うちの若頭ほど健康志向の人はいない」と話していた。
「この店によく来るの?」
七瀬が訊いた。なぜかこのヤクザには敬語を使おうという気にならない。
「いや、前に一度使っただけだ」
「じゃあなんでここに?」
「おまえにここの空気を肌で感じてほしくてな」
「なんで?」
「七瀬はソジーって言葉を聞いたことあるか? S、O、G、Iでソジーだ」
かぶりを振った。
「性的指向と性自認を英語に訳すと、Sexual Orientation and Gender Identityとなり、この頭文字を取ってSOGIとなる」
「ふうん」
「で、七瀬はこの店にいるような連中をどう思う?」
矢島が周囲をサッと見回して言った。
「女装したおっさんとかのこと?」
「ほかにもいるだろう。レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、いわゆるセクシャルマイノリティの奴らだ」
「別にどうにも」
「気色悪いと思うか」
「だからなんとも思わない。好きにしたらいいじゃんって感じ」
「おれも同意見だ。ただ世間の一部の者はそうじゃない。ここにいるような連中を偏見の目で見ている。そしてそうした偏見を根絶しようという働きかけが今世の中で急速に起きている」
「ねえ、さっきからなんの話?」
「主となって動いているのはPYPのバックにいるK党だ。K党は現在、SOGIESC(ソジエスク)理解増進法案とやらを押し通そうと躍起になっている。SOGIESCとはSOGIに身体的性と性表現を加えた言葉だ」
ここで矢島の頼んだウーロン茶を先ほど七瀬と会話をした店員が持ってきた。
「ちょいとお姉さん。SOGIESC理解増進法案って聞いたことあるかい」矢島が相好を崩して質問した。
「うん。あるわよ。だって他人事じゃないもの」
「その中身は?」
「なんとなく。あたしたちのような人間が堂々と生きられるようにって、そういうものでしょ」
「じゃあ、お姉さんらにとってはありがたい法案なんだな」
「まったく」店員はきっぱりと言った。「逆にありがた迷惑。あたしたちは世間に理解なんて求めてないし、自分たちだけでひっそりと楽しんでいたいの。ここらの人はみんな同じことを言ってるわよ」
「なるほど」
「ただ、最近増えてきた男女共用トイレってのはちょっとありがたいけどね。あたしたち、便に不便だから」
店員はつまらないギャグを飛ばし、自らゲラゲラ笑った。やっぱり男の声だ。
「そういえば今、歌舞伎町に造ってるビルの中にもそういうトイレを造ろうって案も出てるらしいわよね」
「今造ってるビルってえと、歌舞伎町一丁目地区開発計画のことかい?」
「そうそう」
「初耳だな。その情報は誰から?」
「誰だったかしら」と顎に人差し指を当てる。「たぶんうちのお客さん。ほら、こういうお店ってお偉方もいっぱい来るから」
「ほう」矢島が腕を組んだ。「ありがとう」
店員が離れたところで、「あれってさ、いつ完成するの」と七瀬が訊ねた。
今から三ヶ月くらい前だったか、トー横広場の目と鼻の先で大規模な建設工事が始まった。聞くところによると、モンスター級の複合高層ビルを建てようとしているらしい。以来、重機などの音がやかましくてうっとうしいのだ。風の強い日なんかは粉塵を感じることもある。
「たしか完成は二〇二三年の春とかだったかな」
今から四年も先なのか。
「いらないのに。そんなビル」舌打ち交じりに言った。
「世界に歌舞伎町をアピールしたいんだろう」矢島がウーロン茶で唇を湿らす。「それはそうと、あのビルの中に男女共用トイレか。きっとその辺りもK党が絡んでるんだろうな」
「どうせ変態が群がって終わりだよ」
矢島が白い歯をこぼし、肩を揺する。
「さて、話を戻す。K党はこのSOGIESC理解増進法案を推し進めるためにPYPを作ったんだ。どうしてかわかるか?」
「さあ」
「世の中にこの法案を知ってもらい、それこそ理解を深めるためにだ」
「ふうん。いいことなんじゃない」
「ああ、おれもそう思う。個人的にはな」
ただし、矢島のバックにいる連中はそう思わないということか。
「でもPYP自体はそんな主張してないじゃん」
「そのうちしだすさ。必ずな」
「なんで最初からしないの」
「ハナっから訴えたところで誰も聞く耳を持たないし、色眼鏡で見られるだろう。PYPはあくまで恵まれない若者を救済する心優しい団体として世間に認知させなきゃならないんだ。そしてそういう立派な団体だからこそ、その後の主張にも世間は耳を傾ける――わかるだろう」
なんとなく話はわかった。つまりトー横キッズは利用されているということなのだろう。
「で、本題だ」矢島がテーブルの上で指を組んだ。「その後、辻篤郎とはどうなってる?」
「変わりなし。あの人、妙に真面目だし、ガードが硬いの」
「なんとかしろ。すでにおまえにぞっこんなんだろう」
「でもあたし、フラれちゃってるし」
「建前さ。心の中じゃおまえを抱きたくて悶々としてるはずだ。おまえも十分わかってるだろう」
七瀬は頷き、煙草に火を点けた。
PYPの活動を共にするとき、七瀬はPYPの副代表兼経理の辻篤郎に対して積極的に好意をアピールしていた。先日は、自分がここでボランティアをしているのは辻がいるからだと耳元でささやき、プライベートで二人きりで会いたいとも伝えた。
すると彼の返事はノーだった。ぼくは妻子がある身でうんたらかんたら、さすがに十五歳の女の子はうんたらかんたら――必死に言い訳を並べ立てていたが、その目は拒否できていなかった。本人がいくら拒もうとも、下半身が七瀬を求めているのだ。
七瀬にはそれが手に取るようにわかった。これまで散々、バカな雄共を見てきたのだ。気がどうにかなってしまいそうなほどに。
「世の中って、なんでこんなにロリコンが多いんだろね」そうボヤき、天井に向けて煙を吐き出した。
「十五歳相手じゃロリコンとも言えないさ」
「十分ロリコンでしょ」
「その議論はさておき、早いとこ落とせ。好かれてるならいくらでもやりようがあるだろう」
「まあね」
矢島が身を乗り出す。
「いいか。今月中がリミットだ」
無理難題とは思わなかった。おそらくあと少しで辻は落ちるだろう。すでに彼の足はまっとうな社会人の境界線を跨ぎかけている。
「でもさ、たとえ盗みに成功したとしても、空振りだったらどうすんの」
辻篤郎のスマートフォンとノートパソコンを持ってこい――これが矢島から与えられている指示だった。その隙を作るためにも辻とはそういう関係にならなければならない。具体的にはホテルに連れ込み、睡眠薬を用いて眠らせるのだ。
「大丈夫さ。必ず何かしら出る」
「なんでそう言い切れるわけ」
「知ってるか? 藤原悦子の経歴はデタラメもいいところだ。そんな女が代表を務めている団体だぞ。ホコリが出ない方がおかしい」
「ふうん。ま、あたしはどっちだっていいけど。でも、なんも出なくても百万は必ずもらうからね」
先々週、成功報酬は百万円と矢島から提示され、七瀬は了承していた。一度にこれほどの金を受け取った経験はないが、たいした額とも思えなかった。パパ活を再開し、その気になってやれば一ヶ月足らずで稼げるだろう。
「安心しろ。おれは約束は守るさ」
「どうだか」
「払わなかったら、おまえとこれきりの関係になっちまうだろう。おれはおまえのことを気に入ってるし、評価してるんだ。前にも言ったが、おまえほど頭が切れて、肝が据わってるガキはいない。おまえはトー横キッズじゃなくて、ハイパーキッズだ」
「クソダサ」
鼻で笑うと、矢島も口の片端を吊り上げた。
「わかったな、七瀬。今月中だ」