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 カウンター席の真ん中に座った七瀬は「さっちゃん、買ってきたよ」と、さっそくコディから受け取った白い粉の入ったビニールパックを差し出した。
 サチは「ありがたいねえ」と相好を崩して受け取ったあと、口から卵を産むようにして入れ歯を外し、カウンターの上に置いた。次に慣れた手つきで人差し指の先を舐め、その指をチャックの開いたビニールパックの中に突っ込んだ。そして白い粉がたっぷりついた人差し指を再び口元へ導き、丹念に歯茎に擦り込んでいった。
 若い頃は鼻から吸引していたらしいが、年老いてむせるようになり、そうなるともったいないからという理由で今の方法に変えたらしい。ちなみに効果は「どっちもおんなじ」だそうだ。
 目を閉じたサチが一言、「ああ、生き返る」と、しみじみと漏らした。この台詞を聞くのは四度目だ。
「そんなにいいならあたしもやってみようかな」
「よしな。金が掛かって仕方ないよ」
「危険だからじゃなくて?」
「コカインは安全さ。でも高い」
 コディは危険と言い、サチは安全と言う。たぶんどっちも本当なのだと思う。きっと風邪薬のオーバードーズと一緒で、使う人の体質によるのだろう。
「七瀬、またトマトジュース飲んでくかい?」
 と訊きつつ、サチはすでにトマトジュースをコップに注いでいる。
「うん。塩もちょうだい」
 先月、七瀬は人生で初めてトマトジュースを飲んだ。以来、ここを訪れるたびにトマトジュースを飲むのが恒例になっていた。
 一回目は不味いと思った。二回目は悪くないと思った。三回目は美味しいと思った。
 そして今回で四回目――より美味しいと思った。ただ、自分で買うことはしないだろうとも思った。この赤く、どろっとした液体はこの店で飲むべきものだ。
「どうだい。美味いかい」
 頷いてみせると、サチも目を細めて、二度頷いた。
 七瀬はサチの白内障で白く濁ったこの瞳が好きだった。その双眸から放たれる眼差しは、人や社会に対する深い諦めが滲んでいる感じがして、七瀬の気持ちを落ち着かせてくれる。
 そんなサチと七瀬が出会ったのは一ヶ月くらい前のことだ。
 深夜、七瀬が歌舞伎町をあてもなく徘徊していたところ、酔っ払った若い男たちが前を歩く一人の老婆に向けて空のペットボトルを放った。ペットボトルは老婆の頭に命中し、男たちは高笑いをした。
 正義感など持ち合わせていないが、七瀬は端で見ていて、どういうわけか無性に腹が立った。だからだろうか、七瀬は無意識に路上に落ちたペットボトルを拾い上げ、男たちに向けて投げ返していた。
 これにより男たちから取り囲まれ、「殺すぞ」と髪を掴まれたが、七瀬は「殺してみろよ」と言い返した。
 口論の末、男たちから頬にビンタ二発と尻にローキックを食らったところで、仲裁に入ったのは被害者の老婆だった。
「後生だから堪忍してやってくれ。堪忍してやってくれ」
 老婆が手を合わせ、必死に懇願したことで、男たちは路上に唾を吐いて去って行った。
 老婆は離れていく男たちの背中に向けて、思いきりあっかんべーをしていた。その姿が妙にいじらしくかつ、やたら可愛らしくて、七瀬の怒りはすーっと引いていった。 
 老婆は七瀬に礼の言葉――欲してもいなかったが――を口にしなかった。かわりに七瀬の顔をまじまじと覗き込み、「強い女の目だ。あんたはしぶとく生きるよ」と意味不明なことを言った。
「あたしの名前はサチ。さっちゃん。あんたは?」
「七瀬」
「七瀬、お腹空いてるだろう。うちにおいで。焼きうどんを食べさせてあげる」
 別に腹など空いていなかったのだが、腕を取られ、半ば強引にゴールデン街の中にある小汚いスナックに連れ込まれた。それが『きらり』だった。
 サチは七瀬の嫌いなタイプの大人ではなかった。訊かれるがまま、これまでの生い立ちと歌舞伎町に辿り着くまでの経緯を語った七瀬に対し、彼女は驚くことも、同情することもなく、「まあ、そんなところだろうね」と乾いた感想を口にした。
 それが七瀬には心地よかった。したり顔で道徳を説いてくる大人が一番嫌いなのだ。
 サチ曰く、年端も行かない少女が歌舞伎町を訪れ、棲み着いてしまうのは、それ相応の事情があるのだという。
「この街は大昔からそうさ。ここは居場所を失った人たちの駆け込み寺なのよ。いつの時代もね」
 嘘か本当か知らないが、サチは歌舞伎町が誕生したときから、ここで暮らしているらしい。
 そんな自分のことを「生き字引のクソババア」と卑下した彼女は歌舞伎町について様々なことを教えてくれた。
 この街の旧名は角筈つのはず町といい、昔はただの寂れた住宅地だったそうだ。それが今のような歓楽街に変貌したきっかけは太平洋戦争だという。空襲による被害で街が焦土と化してしまったことで、変わらざるをえなかったのだそうだ。
 発起人は町会長を務めていた鈴木喜兵衛という男で、彼は終戦日、玉音放送を拝聴しつつ、我が国の生きる道は観光しかないと考え、復興を誓った。
 鈴木はさっそく、角筈町から歌舞伎町へと町名を変え、劇場や映画館など様々な娯楽施設を誘致した。
 また、アイディアマンだった彼は、たくさんのT字路を街の中に組み込み、あえて人が歩きづらいように設計したという。これは街を訪れた人々に突き当たりを曲がった際の光景や、新たな店との出会いを楽しんでもらうためなのだそうだ。
 たしかに歌舞伎町は道がやたらと入り組んでいて、ちょっとした迷路のような作りになっており、七瀬も最初の頃は自分がどこを歩いているのかわからず、よく立ち往生したものだ。
「毎年のようにいろんな建物が立ってさ、そこにお店がたくさん入って、人がどんどん押し寄せてきてね、もう毎日がどんちゃん騒ぎよ。ただ、そうなると揉め事も起きるでしょう。そういうときのためのヤクザ屋さんだったんだけど、石原慎太郎にみーんな追い出されちまってねえ。それ以来、表向きは安全な街になったんだけど、怖い男たちがいなくなったもんだから半端者が幅を利かすようになっちまってさ、逆に秩序が乱れたんじゃないかってあたしなんかは思うよ。だいたい浄化なんてしないでいいのよ。放っときゃいいの。綺麗にされちまったら生きづらくなる人間だっているんだもの」
 サチの話は朝方までつづいたが、不思議と七瀬は眠たくならなかった。けっして歌舞伎町の歴史に興味があったわけではないが、ずっと聞いていられた。飲み慣れないトマトジュースをちびちびと舐めながら。
 やがてコップが空になった頃、帰ろうとした七瀬の手をサチは掴んだ。そして目を鈍く光らせ、定期的にお遣いを頼まれてくれないかと申し出てきた。
 七瀬は数秒ほど考え、了承した。もちろん怪しいお遣いだと察したが、だとしてもそれが断る理由にはならなかった。
「はい、今回のお駄賃と次の分のお金」
 サチはそう言って一万円札と、封筒を七瀬の前のカウンターに滑らせた。封筒の中身を確認すると、次回の購入資金の三万円が入っていた。一パック一万円なので、購入できるのは三パックまでだ。
「さっちゃんさ、なんでまとめて買わないの」
 七瀬がそう訊ねると、サチは少し寂しそうな顔を見せて、「こまめにお遣いを頼まれちゃ面倒かい?」と言った。
「ううん。あたしはどっちでもいい。毎日ヒマだし」
 七瀬はそう言って、指でつまんだ塩をさらさらと赤い液体に振り落としていく。
「そうかい。じゃあこれからもよろしく頼むよ」
 結局、質問に対する解答はもらえなかったが、もしかしたらサチは自分にちょくちょく会いたいのかもしれないと思った。そもそもお遣いを頼んでいることも、七瀬と接点を持ちたいからなのかもしれない。そういえば初めて会ったとき、「あんたはあたしの若い頃に似てる」などと言っていた。
「さっちゃんてさ、子どもいるの」
 七瀬はふとそんな質問をしてみた。
「いるよ。息子が一人」
「へえ。何してる人?」
「戸籍の売買の仲介人」
「は?」
「世の中にはさ、過去の自分を捨てて、別の人間になりたい人がいるのさ」
 まあいるだろうなと思った。七瀬自身、別人になりたいと望んだことが過去に何度もある。結局、いくら望もうともなれるわけがないのだから考えるだけ無駄だと思い、いつしかそんなことも思わなくなったが、どうやら不可能じゃなかったらしい。
「世の中にはそういうワケありの人に手を差し伸べる仕事があんのさ」
「でもそれって裏稼業だよね」
「もちろん」 
「だよね」
 七瀬はここで少し思案を巡らせた。
「ねえ、さっちゃんの息子、今度紹介してよ」
「いいけど、どうしてだい? 言っとくけど還暦過ぎたオヤジだよ」
「別に年齢はどうだっていいんだけど」七瀬は肩を揺すった。「身分証作ってもらえないかなって」
「身分証? 保険証とかかい」
「そうそう」
 サチが目を細める。
「なるほど、年齢を誤魔化したいわけね」
「そ。ネカフェやカプセル泊まるのに、いちいち友達に借りんの面倒なんだもん。十五歳ってめちゃくちゃ不便なんだよ」
「じゃあ今度店に顔出したら相談しとくよ」
「ありがと」
 七瀬はそう言ってトマトジュースを飲み干した。つづいてスマホを取り出して、時刻を確認する。ここには壁掛けの時計があるのだが、ずっと針が止まっているのだ。
 時刻は二十時に差し掛かっていた。
「さっちゃん、あたしそろそろ行くね」
「あいよ。またおいで」
『きらり』を出た。薄暗く、細い路地を人とすれ違いながら歩く。十代の少女がゴールデン街を歩いているのが珍しいのか、みな好奇の目を向けてくる。
 その後、七瀬はセントラルロードを行ったり来たりを繰り返した。サチから一万円をもらったものの、懐がさみしいので稼ぐことにしたのだ。
 ここらの通りを歩いていれば若い女は必ずナンパをされる。そしてこれが今の七瀬のメインの収入源だった。
「ねえ、今一人? ご飯奢らせてよ」
 最初に声を掛けてきたのは遊び人風の若い男だった。歳は二十代後半といったところか。
「あたし十五だよ」
 七瀬が言うと男は顔をしかめた。
 やっぱりスカウトだった。歌舞伎町にはこのようにふつうのナンパに見せかけて女を引っかけようとするモグリのスカウトがいるのだが、彼らはこちらの年齢を伝えるとすぐに引き下がった。十五歳の小娘など使い道がないからだ。
 つづいて声を掛けてきたのは二十代前半と思しき男性二人組だった。同様に安っぽいスーツを着ており、髪は薄茶に染められていた。
 風貌としては合格だった。共に隠しきれないスケベな目もいい。
「このあとおれらと遊ばない?」
 この軽い誘い文句もよかった。彼らの目的は先ほどのスカウトなどとは違い、夜の街をうろついているような、頭が悪そうで、すぐにヤラせてくれる若い女と遊びたいという純粋なもので、そういう男を七瀬も求めている。
「あたし、もうご飯食べちゃった」
 七瀬が腹に手を当てて言うと、「じゃあ軽く飲もうよ」と男たちは誘ってきた。
「えー。どうしよっかなあ」
 あえて焦らした。すぐに乗らない方がいい。
「行こうよ。ところで名前はなんて言うの?」
「ミキ」
 偽名はいつもこれで通している。
「ミキちゃんか。おれはケン、こいつはタケル。ね、飲み行こう」
「まあ、このあと予定もないし、いいか」
 七瀬が誘いに乗ると、二人は頬を緩めた。
「けど、あたしまだ十八なんだよね」
 カモにはこのように年齢も偽っている。
「十八? ああマジか……」
 二人は白々しい芝居を披露してくれた。
 七瀬はメイクをしていると大人っぽく見られることが多いが、さすがに二十歳を超えているようには見えない。つまり、男たちは七瀬が十代であることをわかって声を掛けてきたのだ。
「あたしが知ってる店で、年齢確認されないとこあるけど、そこ行く?」
 七瀬が上目遣いでそう切り出すと、「マジ? いいじゃん、いいじゃん」と二つ返事で食いついてきた。
 これで仕事は半分終わったようなものだ。七瀬は二人を促して歩き出した。

 

(つづく)