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 おもてに出たところで、はーっと大きく息を吐く。今日は梅雨の中休みで、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせていた。だが、せっかくのお天気も、竜也の心は晴れない。ここ最近、一貫して曇り模様だ。
 大手スカウトグループ『butterfly』が引き抜き行為をしていると噂が流れたのは三ヶ月ほど前だろうか。『butterfly』は他所のグループに所属する腕利きのスカウトに好条件を提示し、次々に自分たちのもとに取り込んでいるのだという。
 竜也は初めてその噂を聞いたとき、危険だなと思った。ただ、すぐに収束するだろうとも考えた。楽観的でいられたのは歌舞伎町のスカウトグループを取り仕切る内藤組の存在があったからだ。
 もともと歌舞伎町にはいくつかのスカウトグループが存在し、それぞれに縄張りが決められていて、共存共栄の関係で活動をしていた。それでも瑣末な諍いはあり、そうしたときに出張って事の鎮静化を図っていたのが内藤組だったのだ。
 ゆえに『butterfly』の引き抜き行為が問題視されたときも、即刻やめるよう、内藤組から幹部連中に対し、厳しい注意勧告があった。
 だがしかし、『butterfly』はこれ以降も引き抜き行為を自粛することはなかった。『butterfly』がこのような強硬な姿勢に出たのは、彼らのバックに誠心会がついたからだった。
 どういう背景があって、誠心会が『butterfly』のケツを持つことになったのか、詳しい経緯は知らないが、いずれにしてもこれは内藤組への宣戦布告にちがいなかった。
 内藤組は古くから歌舞伎町を牛耳る任侠団体であり、そんな彼らの大切なシノギに手を出すということは、真っ向から喧嘩を売ったことにほかならない。
 よって今、歌舞伎町は異様な緊迫感に包まれていた。
 最近では制服警察官の姿がやたら目につくようになってきた。両陣営が街の至るところで衝突するため、警戒を強化しているのだろう。つい先日も、花園神社の境内で刃傷沙汰の傷害事件が発生し、内藤組の若い構成員が意識不明の重体に追い込まれたのだ。
 そのような緊迫状態の中、竜也もまた、非常に苦しい立場にあった。
 竜也は歌舞伎町でキャバクラを四店舗、ホストクラブを三店舗手掛けていて、そのキャバクラに在籍していた女たちに次々と店を辞められてしまっているからだった。
 去った者はみな、『butterfly』のスカウトが引っ張ってきた女たちだった。要するに、内藤組側に立つオーナーのもとでは働かせられないという理由から、彼らが女たちを強制的に店から引き上げさせているのだ。
 また、これに加え、供給が途絶えていることも大きな痛手だった。新規の女たちが入店してこないのである。これは『butterfly』以外のスカウトが活動を自粛している影響だった。彼らは誠心会に怯えているのだ。
 竜也が深々とため息をついたとき、手の中のスマホが震えた。相手は歌舞伎町で風俗店を展開するオーナー仲間だった。彼とはたまにゴルフをする間柄だ。
〈いよいようちも、あっちの陣営に移ることにしたよ〉
 五十代のオーナーは疲れ切った声で言った。あっちとは誠心会のことだ。
 竜也は驚かなかった。日々、ケツ持ちを乗り換える店が増えているのだ。今、歌舞伎町で水商売をしている店は、内藤組側と誠心会側で真っぷたつになっている。
「そうですか。内藤組には仁義を切ったんですか」
〈そんなの切れるはずがないじゃない。わかってるくせに〉ため息混じりに言い返された。〈内藤組にはうちの創業以来、ケツを持ってもらってきたわけだし、何度かトラブルを処理してもらったこともあるけど、それでも、これ以上は持ち堪えられないもの〉
 このオーナーもまた、店に在籍する嬢がどんどん減り、それに比例して売上も下がっているらしい。客がやってきても、あてがう女がいないのだから商売になるはずがない。
〈ここ数ヶ月のうちの売上、例年の半分にも満たないんだよ。浜口さんはホストクラブもやってるからいいだろうけど、うちは風俗一本だから、本当に死活問題なんだよ〉
「うちだってつらいのは同じですよ。それにホストクラブの売上も下がってますしね」
 事実、ホストクラブの方もまた、キャバクラほどではないが、集客減に伴い、売上が落ちていた。
 集客が減っている原因はもちろん、歌舞伎町で連日起きている抗争にある。客もわざわざ危険な戦地に遊びに行こうと思えないのだろう。
「ま、わかりました。自分は悪手だと思いますけど、人それぞれのご判断ですからね。ご多幸を祈ります」
 嫌味を浴びせ、電話を切った。そしてまた、ため息を吐く。
 実のところ、内藤組から誠心会に鞍替えしたいのは、竜也も同じだった。なぜなら今回の抗争は、誠心会優勢と見る向きが多数なのだ。
 もしも内藤組に代わり、誠心会が歌舞伎町を牛耳るようなことがあれば、最後まで転向を拒否した者は街から追いやられるだろう。
 ただ、周りのオーナーたちとは違い、竜也には寝返ることなどできなかった。それは内藤組への恩義どうこうではなく、親分の矢島國彦との腐れ縁があるからだった。あの男とはけっして親しい間柄ではないが、切っても切れない関係にあった。なぜなら自分たちは、過去に結託して、一人の少女を手に掛けてしまっているのだ。
 花道通りを外れ、歌舞伎町一番街に入ったところで竜也はふと足を止め、斜め前方を見た。視線の先には十代の若者が群れをなしていて、好き勝手に騒ぎ立てている。トー横キッズという名称が叫ばれて久しいが、彼らこそがそれである。
 自分たちが葬った少女もまた、トー横キッズの一人だった。
 少女の名は七瀬、愛らしい顔立ちのわりに冷めた目をしている、少し華奢な子だった。
 そんな七瀬とは、当時はまだしがないぼったくりバーであった『Ranunculus』で初めて顔を合わせた。竜也の顔見知りのスカウトが路上で声を掛け、ガールキャッチ要員として連れて来たのだ。十五歳という年齢を知って驚いたが、竜也はお構いなしに雇うことにした。今なら考えられないが、当時は竜也もイケイケで、リスクなど二の次だったのだ。
 はたして七瀬は驚くほど優秀だった。彼女は街に出れば必ずカモを捕らえ、店に引っ張ってきた。その成功率の高さには、これまで数多の女を見てきた竜也も舌を巻かざるをえなかった。
 であるからこそ矢島に対し、『だったら、おあつらえ向きな子がいますよ』と、七瀬のことを紹介――いや、献上したのだ。
 矢島は当時、どこからともなく歌舞伎町に現れたPYPという団体の弱みを握るべく、画策していた。それは彼自身が望んでいたことではなく、人から依頼されたもので、所謂シノギの一つであった。
 トー横キッズの世話をしているPYPに近づくには、七瀬ほどうってつけな人物はいないのではないか。竜也の進言に矢島も興味を示したが、用心深く、何事にも慎重を期す彼は、七瀬が本当に刺客として使えるかどうか、テストを実施したいと言った。
 そうして、三文芝居が打たれることとなった。七瀬が『Ranunculus』でハメた客が代議士の息子で、父親のバックについているヤクザから呼び出しがかかったという、お粗末なストーリーだ。
 はたして、この茶番劇によって矢島は七瀬と手を組むことに決めた。「噂に聞いていた以上だ」と、彼は七瀬を心から気に入った様子だった。
 そうして七瀬は矢島からの命を受け、愚直に任務を遂行し、見事に成功させた。
 だが、ここで風向きが変わった。七瀬の活躍によって、PYPの背後に潜む大物――池村大蔵――の存在を知った矢島が、依頼主を裏切り、PYP側に寝返ったのだ。
 そして問題は起きた。七瀬が掴んだPYPの情報を世間に公表すると言い出したのだ。なぜ七瀬がそんなことを言い出したのか、動機は知らないが、彼女は本気だった。
 これによって七瀬の存在は、矢島を始め、藤原悦子、池村大蔵にとっても、放っておくことのできない悩みの種となった。
 そして、危険分子は即刻排除せよ――そのような指令が矢島に下った。
 竜也は矢島に加勢するか否か、ひどく悩んだ。なんと言ったって、一人の人間を手に掛けるのである。
 もっとも良心の呵責に苛まれたわけではない。万が一、事が発覚してしまったときのリスクを思い、二の足を踏んだのだ。
 その一方で、ここが自分の人生の岐路であり、飛躍のチャンスであるとも考えた。矢島は歌舞伎町の裏社会で幅を利かせているヤクザであり、池村大蔵はその肩書き通り、東京のドンだ。彼らに恩を売り、パイプを作っておけば、この先、様々な面でプラスに働くことだろう。
 そうして竜也は七瀬を罠に嵌めて捕らえ、その身柄を矢島に差し出した。
 その先のことは結果のみ、知らされている。七瀬がどこの地で、どのようにして最期を迎えたのかは教えてもらえなかった。竜也としてもそれで構わなかった。
 何はともあれ、これを機に竜也はアングラな商売に見切りをつけ、表舞台で堂々とビジネスを始めた。そして成功を収めた。
 竜也に限らず、あの一件に携わった者はそれぞれ上り詰めていった。若頭であった矢島は組の親分になり、藤原悦子は東京都知事に当選を果たした。そして、池村大蔵は日本の頂点、内閣総理大臣にまでなった。
 そう、自分たちはこの上なく順調だった。七瀬という少女の死が自分たちに幸運をもたらしたのだ。
 そんな幸福の日々が今、音を立てて崩れようとしている。池村大蔵は何者かに暗殺され、矢島は突如として現れた大敵によって、組ごと潰されかかっている。そして、その矢島と鎖で繋がっている竜也もまた、破綻の兆しが見え隠れしてきた。
 なぜこのタイミングで自分たちに不幸が舞い込んできたのかはわからない。
 はたしてこれらすべて、神の悪戯で片付けていいものだろうか。竜也にはどういうわけか、そうとして受け入れられなかった。
 根拠はないものの、何か引っ掛かるものがあった。もっとも、その正体は判然としない。
 オカルトめいたものが嫌いな自分であるが、何かこう、得体の知れない、それこそ死神がにじり寄ってきているような、そんな感覚がしてならないのだ。
 ふいにカシャ、カシャと、シャッターを切る音が聞こえた。脇を見る。すぐそこにいる外国人女性が一眼レフカメラを構え、周囲の目などお構いなしにはしゃぐトー横キッズを熱心に撮影していた。彼女は彼らを何者として捉えているのだろうか。



 しとしと雨がそぼ降る夜、竜也はタクシーを飛ばして『Ranunculus』に向かっていた。店長を任せている飯島いいじまという男から、ヘルプの連絡があったからだ。
 今、誠心会の団体が客として店を訪れているという。
 もっとも、連中が竜也の店に来店するのは初めてのことではなかった。これまでも時折、ふらっと店にやって来ては小一時間ほど遊んであっさりと帰って行っていたのだ。この行為は竜也に対する牽制以外のなにものでもないのだが、しっかり金を払い、行儀良く利用していたため、追い払うこともできなかった。
 だが今回はそうではなかった。連中はあろうことか、こちらが提供したドリンクに虫が混入していたなどといった、とんでもないイチャモンをつけているという。
 つまり、いよいよ行動に出たということだ。鳴かぬなら鳴かせてみせよう、というところなのだろう。いや、鳴かぬなら殺してしまえ、なのかもしれない。
「あークソ」
 竜也は頭を掻きむしった。
 奴らはとことんおれを追い込む気だ。どうしておれがこんな目に遭わなくてはいけないのか。
 ただ、ここでイモを引くわけにはいかない。伊達にこれまで歌舞伎町で商売をやってきたわけじゃないのだ。
「これは人生最大の危機。だが、必ず乗り切ってやる。そのためには頭を使え、頭を」
 竜也は自らを鼓舞するように口に出して言った。
「やっぱり、ここは矢島に連絡して兵隊を寄越してもらうべきか。本来、そのためのケツモチなんだから」
 竜也はスマホを取り出そうと鞄に手を突っ込んだ。だが、すぐにその手を止めた。
「いや、ダメだ。うちの店でドンパチが始まったらどうする。万が一死人なんか出たらシャレにならんぞ」
 今度は腕組みをして、しばし呻吟した。
「かといって、サツなんかに頼ったらナメられちまう。となると――」
 自ら両頬を叩いた。
「やはりここは一人で行くしかないな。さすがに奴らも堅気のおれに手を出してはこないだろう。それに、おれが誰にも頼らずに一人でやってきたことに奴らも一目を置くはずだ」 
 客が後部座席でぶつぶつと独り言を漏らしているからだろう、運転手が「あの、大丈夫でしょうか」と、不安そうに声を掛けてきた。
「ああ、大丈夫だ。おれは必ず勝つ」
「はあ」
「そこを右に曲がったところで下ろしてくれ」
 乗車賃を支払い、タクシーを下車する。店はすぐそこなので傘を差さずに向かった。

 

(つづく)