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「ねえ、まさかあなた、わたしのことを調べてるの?」
「いや、そんな噂を小耳に挟んだから訊ねただけで、本題は例の件だ。まだ証拠は上がらないか?」
 ダメもとで訊ねたところ、「証拠ってわけじゃないけど、一つだけおもしろい話を聞けたわよ」という返答があった。
 バッと身を乗り出した國彦に対し、愛が手の平を突きつける。
「待って。その前に、わたしもあなたに訊きたいことがある」
「なんだ?」
「ユタカのこと、ちゃんと調べてくれてるの? どうもわたしばかりいいように使われてる気がしてならないんだけど」
「やってるさ。だが、本当に何も出ないんだ」
 現在進行形ではないが、実際にユタカの消息は下の者を使ってかなり調べさせた。だが、その足取りは一向に掴めなかった。ユタカはホストの仕事は順調で、店にも街金にも借金はなかった。だからこそ不可解な失踪ではあるものの、若者ゆえに些細なきっかけで飛ぶことも十分考えられる。
 國彦がこれを諭すように伝えると、
「そっか。もしかしたら、わたしがうざかったのかな。彼はわたしから逃げたかったのかも」
「そんなことないさ」
「ううん。きっとそうよ」
 愛は目を伏せて言い、再びベッドに寝そべった。口を真一文字に結び、薄目で天井を見つめている。
 國彦ははやる気持ちを抑えて、愛の感傷に付き合うことにした。
 だが、いくら待てども愛は口を開かないので、さすがに痺れを切らした。
「それで、さっきのおもしろい話ってのはなんなんだ?」
 すると、愛は「ああ」と思い出したように言い、「あなた、藤原って女の人知ってる?」と、逆に質問をされた。
 思わぬ名前が出て心臓が跳ねたが、國彦は平静を装い、「その苗字を持つ女は何人か知り合いにいるが、誰のことかわからんな」と答えた。
「その藤原って女がどうかしたのか」
「昨日の夜、例のごとく宇佐美に呼び出されて夕飯を付き合わされたの。もちろん二人じゃなくて、ほかにも舎弟の人が何人かいたんだけどね。それで、いい具合に酔いが回ってきた頃に浜口さんの話題になったのよ。ほら、彼らもまた浜口さんの行方を調べてるって前に話したでしょう。でね――」
 その際に連中の口から「藤原」というワードが出たのだという。
「具体的にどういう発言だったか、イチから詳しく、正確に教えてくれ」
 國彦が鼻息荒く迫ると、愛は体勢を横向きに変え、ベッドに片肘をついて、手の平に頭を預けた。
「最初は誰かが冗談めかしてこう言ったの。『浜口の野郎はほんまにあの女に殺られたんとちゃうか』って。つづいて別の人がこう言った。『そんなわけあるか。だいたい藤原が浜口をやる理由がどこにあるって言うんや』って。そうしたら宇佐美がその発言をした男を叱りつけたの。たぶん、その場にわたしがいたからだと思う」
 体温が急上昇しているのを感じた。國彦は呼吸をするのも忘れ、話に耳を傾けている。
「ただ、宇佐美が最後にボソッとこう言ったわ。『まあ、あるとしたら何かしらの口封じやろうなあ』って」
 ここでようやく息苦しさを覚え、呼吸を再開した。息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。その間、痛いほどに心臓の鼓動を感じていた。
 その心臓を握り潰すように、國彦は自身の左胸を鷲掴みにした。
 浜口を消したのは藤原悦子――なぜおれは今の今までその可能性を考えなかったのか。
「たぶん誠心会は浜口さんの行方を調べる中で、彼の周辺に藤原って女の影があることを掴んだんじゃ――」
 藤原悦子は今回の歌舞伎町の動乱に乗じて、己の暗い過去を清算しようと目論んでいる――。
 今思えば、國彦の要求をのらりくらりとかわしているのも、このまま事を長引かせておけば、そのうち誠心会が自分の過去を知る者を消してくれると期待しているからなのかもしれない。
 少なくとも、あの女が國彦の死を望んでいることはまちがいないはずだ。
 ――なんとかして証拠を掴んでちょうだい。それさえあればこっちだって動きやすくなるんだから。
 あれはたぬきババアお得意の芝居だったのだろうか。
「ねえ、どうしたの。大丈夫?」
 愛が訝しむように言った。
「ああ、平気だ」
「平気そうに見えないけど」
「なんともないさ」
「そう。で、やっぱりその藤原って女に心当たりはないわけ?」
「さっぱり見当がつかんな」
「じゃあ、たいした話じゃなかったのかも。まあ、お酒の席の発言だったしね」
「かもしれんな。ただ、もう少しその件を探ってみてくれ」
「そう言われたって、これ以上わたしにできることなんかないわよ」
「いくらでもあるさ。おまえはそこらの情報屋よりよっぽど優秀なんだから」
「持ち上げられたって困るわ」
「いいから頼む。どうも気になるんだ」
 愛がため息をつき、肩をすくめた。
「わかった。ただ、そっちもちゃんと動いてよね。あなたから交換条件を持ちかけてきたんだから、それを忘れないで」
 彼女はそう念を押してから、反動をつけて起き上がった。
「今度はわたしから部屋を出てもいいかしら?」
「ああ、もちろん。女が残っている方が不自然だろう」
「それもそうね。じゃあまた」
 愛が鞄を手にして、出入り口へ向かっていく。國彦はその背中に「なあ、おい」と声を掛けた。
「こんな密室で会って、おれに襲われるリスクは考えなかったのか。おれがおまえに欲情しちまったらどうするつもりだったんだ?」
 そう訊くと、愛は口元に意味深な笑みを浮かべ、何も言わずに部屋を出て行った。
 一人残された國彦はベッドに仰向けで寝そべった。鏡張りの天井を見上げ、そこに映し出されている自分と目を合わせる。
 そういえば愛の住処を訊きそびれた。



 終戦記念日を迎えたこの日、関東地方には異例の大雨警報が発令されていた。予報では夕刻を過ぎたあたりから降るとされていたが、日没を待たずして夏の日差しが消え、ぽつぽつと雨がぱらついてきた。
 穏やかな幕開けであったものの、時間の経過と共に雨は勢いを増し、夜が訪れた頃には天が裂けたかのごとく、滝のような水が降り注いだ。ついには街の排水口が用をなさなくなり、雨水が小川のように流れ始めた道には人影が消えた。ふだんはネオンで賑わう通りもわずかな灯りがちらつくだけだった。
 歌舞伎町の夜とは思えない異様な光景が広がる中、國彦は事務所の一室に籠り、卓上に置かれたノートパソコンを睨んでいた。青白いディスプレイには自身が作成した短いメールの文面が映し出されている。
『浜口竜也を殺害したのは藤原悦子さん、あなたですね。当方、その証拠を持っています。ご連絡をお待ちしております。』
 これを藤原のプライベートメールアドレスに送るか否か、悩んでいるのだ。それも数日前から、ずっと。
 もちろんこんなブラフを送りつけたからといって返信などないだろう。だが、動揺を誘うことはできる。それによって彼女は尻尾を出すかもしれない。
 むろん、藤原が本当に浜口殺害の下手人――彼女は直接その手を汚してはいないだろうが――だった場合においてだが。
 國彦は椅子の背に身を預け、瞼を閉じた。そして、もう何十回目になろうかという思惟に沈んだ。
 五年前、あの女は一人の少女を葬るように國彦に命じた。今回もそのときと同様に、何者かに浜口暗殺の指示を出した。
 だが、今や藤原悦子は東京都知事という立場にある。それゆえ、はたしてそんなリスキーな行動を取るだろうか。ふつうは取るはずがない――が、疑いは拭えない。なぜならあの女は常人ではないからだ。彼女の中にある強大な野心と果てなき功名心は、他者の命を奪うことすら厭わないのだから。
 ひょっとすると、浜口は國彦の与り知らぬところで藤原を強請っていたのかもしれない。小心者の浜口に限ってそんな大それたことをするとは思えないが、これも絶対ではない。
 藤原は過去の暴露を仄めかして、何かしらの要求を迫ってきた浜口を脅威に感じた。そこで二つの任侠団体が覇権争いで衝突を繰り広げる中、漁夫の利を得たりとばかりに邪魔者を消し去った。
 だが、彼女はまだ安泰ではないだろう。なぜなら一番厄介な國彦が生きているからだ。 
 もしこれらの考えが行きすぎた妄想でなければ、次に藤原が狙っているのは確実にこの首だ。
 そのときドアがノックされ、國彦は目を開けた。
「親父、よろしいですか」 
 ドア越しにシゲの声が聞こえ、「ああ」と応答した。
「どうやらLushとDulcetが正式に解散を決めたようです」
 入ってくるなり、シゲが言った。
 LushとDulcetは新宿を拠点に活動をしていたスカウトグループで、今回の抗争によりButterfly――いや、その背後にいる誠心会に怯えて活動を自粛していたのだ。
「また、両団体に所属していた者はすべてButterflyが吸収するとのこと」
「要するにスカウトグループを一本化するってわけか」
「ええ。この先、歌舞伎町でスカウト活動ができるのはButterflyのバッジを持っている者だけになるのでしょう」
「看板を掲げて自由競争をしていたからこそ、ギリギリのところで秩序が保たれてたんだ。それがなくなりゃモグリのスカウトが湧き始めるだけだぞ。そういう奴らはルールを無視して、強引に女を引き抜き始める。結果、質のいい女たちほどほかの夜の街へ流れていき、歌舞伎町は衰退する。奴らそんなこともわからないで――」
 國彦は言葉を切り、舌打ちをした。語った言葉は本心だが、どこか負け惜しみのように響いたからだ。
「では、報告まで。失礼します」
 シゲが一礼をして去ろうとする。その背中に「なあシゲ」と声を掛けた。彼が半身で振り返る。
「いや、なんでもない」
 シゲが再び頭を下げ、ドアノブに手を掛けた。そこで彼は動きを止め、また振り返った。
「自分は足掻きますよ。最後の最後まで」
「ああ」
「ユキナリの放免、派手にやりましょう」
「ああ」
 シゲが部屋を出て行った。
 一人になった國彦は深いため息をつき、改めてパソコンの画面に目を移した。そして指先を動かし、サッとメールを送信した。いったいこれまでの熟考はなんだったのかと、己を滑稽に思った。
 ほとほと疲れているのだ。頭も、心も。 
 さあ、鬼が出るか、蛇が出るか――。
 デスクに置いているスマホがバイブレーションする。手に取って見ると、相手は愛だった。
 応答すると、〈今どこ?〉と愛が訊いてきた。
「事務所だ」
〈一人?〉
「ああ」
〈周りに誰もいない?〉
「ああ」
〈本当に?〉
 訝った。
「なぜそんなことを確認する」
 愛はしばし黙り込んだ。
「おい、どうしたって言うんだ」
 せっつくと、愛は声を落としてこう言った。〈前に話していた藤原って女の正体がわかったの〉
 國彦のスマホを握る手に力がこもる。
「本当か?」
〈ええ。あなたも知ったら驚くと思うわ〉
「どいつだ? 教えてくれ」
〈電話じゃとても言えない。それだけ大物ってことよ〉
「まさか、東京都知事の藤原悦子だなんて言うんじゃないだろうな」
 愛は答えなかった。
「おい。聞いてるのか」
〈ええ、そのまさかよ〉
「冗談だろう」
〈確証はないけど、おそらくまちがっていないと思う〉
 國彦は絶句しているフリをした。
 やはりこの女の情報収集能力は並外れている。情報屋を生業にしている連中にも、ここまでの成果を出す者はそういないだろう。
「にわかには信じられんな」
〈そう? なんだかそんな感じもしないけど。あなた、本当は見当がついてたんじゃないの?〉
 この洞察力もまた、油断ならない。
 國彦は一つ咳をし、
「そんなことないさ。わかったのはそれだけか?」
〈いいえ、なぜ誠心会が藤原の存在を掴んだのかもわかったわ。これはさらに信じられないだろうと思うけど――情報源はあなたのとこの人間よ〉
 今度はフリではなく、本当に絶句した。國彦は無意識に立ち上がっていた。
〈だから周りに人がいないか、念入りに確認したの〉
 額に手をやる。一瞬で汗ばんでいた。
〈ここから先は本当に電話じゃ言えない。今日はこんな天気だから、また明日にでも時間を作って落ち会いましょ〉
「いや、今からで構わん。嵐だろうがなんだろうがどこへでも出て行くさ」
〈あなたはよくてもわたしは身動きが取れないもの。こんな土砂降りの中、移動なんてできないわ〉
「おまえは今どこにいるんだ」
〈星座館だけど〉
 愛は夕方前に星座館に入っているまつエク店を訪れ、施術を終えて帰ろうとしたところ、この大雨で足止めを食らったのだという。今は別階にあるバーで雨が落ち着くのを待っているらしい。
「天気予報を見なかったのか」
〈見たわよ。でも夜からって話だったじゃない。本当に天気予報って当てにならないわ。おかげでこんな無駄な時間を過ごすハメになっちゃった。そういうわけだから、会うのは明日ね〉
「おれは今すぐに話を聞きたいんだ」
〈でも、さすがにこんなところで会えないでしょう〉
「ああ、だからなんとか移動してくれ」
〈なんとかって……ねえ、ここから近くにいい場所知らないの? 人目につかず、安全に話せるところ〉
 國彦は数秒ほど思考を巡らせ、「ないな」と答えた。星座館は区役所通りに面しており、近場はどこも危険だ。
〈じゃあ、やっぱり無理よ……あ、待って。ゴールデン街ならいいかも〉
「ゴールデン街?」
〈ええ。いいスナックを知ってるの。そこなら目と鼻の先だし、サッと移動できると思う。あなたの事務所からもすぐでしょう。どうかしら?〉
 壁掛けの時計に目をやった。二十二時に差し掛かっている。
「ほかに客がいるんじゃないのか」
〈この雨だし、いないと思うけど。いたとしてもママに言えば追っ払ってもらえるわ〉
「そんなに融通の利く店なのか」
〈そうなの。じゃあ近くまで来たらまた電話して〉
「わかった。これから向かう」
 國彦は電話を切り、部屋を出た。

 

(つづく)