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 彼にはよくないスジから多額の借金があったらしい。そこでキリトリから逃れるため、行方をくらませていたものの、あの日、居場所が取立て人に知られてしまったのだという。噂によると、誕生日だからと店側が大々的にバースデーパーティーを喧伝したことが仇となったそうだ。
 なにはともあれ、危険を察知した彼は歌舞伎町から姿を消した。自分の愛する恋人を連れて――。
 これを聞かされた愛莉衣は絶望し、そして死んだ。
 自殺だったのか、それとも事故だったのか、それは未だわからない。
 いずれにせよ、無様な死に方だ。実に安い命だ。
「けどさ、愛莉衣、これでママに会えるかもね」
 自分らしくもない一言を残し、七瀬は踵を返して斎場を出た。
 すぐそこに傘立てがあり、いくつもの傘が収まっていた。誰のものか知らないが、そこからランダムに一本抜き取った。
 傘を広げようとしたところで、「七瀬ちゃん」と震えた声が背中に降り掛かった。振り向いた先にいたのは喪服姿の辻篤郎だった。
「頼む。頼むから返してくれ」血走った目で言われた。
「うざい」七瀬はそう突っぱね、身を翻した。
 あの日以来、この男と会うのは今日が初めてだった。先ほどこの斎場を訪れた際、辻は目をかっ開いて七瀬のもとに駆け寄ってきた。そしてスマホとノートパソコンを返却するように懇願してきた。
「なあ、七瀬ちゃん」後ろからガッと肩を掴んできた。「財布も鞄もいらない。けどお願いだから、スマホとパソコンだけは返してくれ」
「放せよ」
「本当に洒落にならないことになるんだ。もしも紛失したなんてことが藤原代表にバレたらぼくは殺されるかもしれない」
「いいじゃん。死ねよ」
「……」
「若い子を救う団体であるはずの副代表がさ、少女の盗撮を趣味にしてんだから世話ないよね」
「……中を見たのか。どうやって」辻の顔が青ざめている。
「さあね」七瀬は小首を傾げ、「さよなら。変態」と告げて歩き出した。
 すると辻が後を追ってきた。
「だ、だとすると、き、きみの身だって危険だ。これは脅しじゃないよ。我々の背後にはどれだけ大きな組織が構えているか、子どもにはわからないだろうけど、本当に容赦のない人たちが――」
 七瀬は振り向きざまに辻の顔面に傘を打ちつけた。
 不意打ちを喰らった彼は両手で顔を覆い、腰をくの字に折った。そうして無防備となった後頭部に、七瀬はまたも傘を振り下ろした。辻がたまらず地面に膝をつく。
 そこから徹底的に辻を痛めつけた。七瀬は何度も、何度も、傘を振り下ろした。
 やがてひしゃげた傘を投げ捨て、七瀬は歩き出した。周囲の人々が恐怖の眼差しでこちらを見ていた。
 ポケットに両手を突っ込み、冷たい雨に打たれながら歌舞伎町へ向かった。往来する人の中で、傘をさしていないのは七瀬だけだ。前髪から滴ってくる雨水がうっとうしい。
 濡れそぼった新宿の街並みはうらさみしく、どこか病的な感じがした。そのせいか、いつになく足が重たかった。心も重たかった。
 愛莉衣が死んで以来、七瀬の中で様々な感情がない混ぜになっていて、激しい渦ができていた。そのため、今自分がどういう精神状態にあるのか、七瀬自身もよくわからない。
 ――なあちゃんは今日も可愛い。
 ふいに愛莉衣の声が蘇り、七瀬は足を止めた。
 ――うち、なあちゃんが好き。大好き。
 ――強がってても独りはさみしいんだよ。誰だって、人は一人じゃ生きていけないんだよ。
 ――うち、バカだし、だらしない女だけど、なあちゃんに友達だって思ってもらいたいんだ。
 ――なあちゃんはうちの親友。
 天を仰いだ。ビル群の隙間から覗ける灰色の空はどこまでも空虚だった。
 ふいに視界が滲み、映るすべてがぼやけた。目に雨が入ったのではなかった。
 七瀬は人差し指で目を拭った。
 そのとき、わかった。
 愛莉衣は自分にとって、とても大切な人だった。

 歌舞伎町に戻ってから、カプセルホテルで泥のように眠った。おもてに出ると雨は止んでいて、夜空には淡い三日月が浮かんでいた。
 一昨日から何も食べていないが、空腹感はなかった。だが今夜はラーメンを食おうと思った。七瀬のお気に入りで、愛莉衣とも一緒にきていた店だ。
 道すがら、はからずもトー横広場の前を通った。するとふだんとなんら変わらぬ光景があった。バカ共がいつものようにバカ騒ぎをしている。
 素通りしようとすると、「七瀬」とショウに声を掛けられ、手招きされた。
 このガリ勉少年は、親に発見されてしまい、一旦は家に連れ戻されたものの、またすぐに歌舞伎町に舞い戻ってきた。
 広場から少し離れた場所に移動したところで、七瀬は煙草に火を点け、「なんか用?」と訊ねた。
「……愛莉衣のことなんだけど」
 そう言ったきり彼は黙り込んでしまった。目を左右に逸らし、何か言い淀んでいる。
「こっちもヒマじゃないんだけど」
 苛立ちを露わにすると、彼は意を決したように七瀬の目を見つめてきた。
「今からする話はぼくから聞いたって、絶対に誰にも言わないでほしい」
 七瀬は目を細めた。
「あの日の夜――」
 そんなふうに切り出したショウの話は聞き捨てならないものだった。
 あの日、愛莉衣はひどく憔悴した様子でトー横広場にやってきたという。そんな彼女は自らオーバードーズを求め、仲間から分け与えてもらった風邪薬を一気に飲み込んだ。
 すると数十分後、愛莉衣は路上に寝転んだ。声を掛けても返事はなく、虚ろな目で一点を見つめていたという。
 やがて彼女が口から泡を吹き出し始めたところで、仲間たちは慌てた。
 病院に運び込もう、と、みなが口々に言った。
 だが、そんな中、ユタカがボソッとこうささやいた。
 ――そのうち起きるだろ。このまま放置しとこうぜ。
 七瀬の咥える煙草の先端から灰がポロッと剥がれ落ちた。
「ユタカがどういう意図があって、そういう発言をしたのかはわからないけど、結局、みんな彼の言うことに従ってしまって……実はぼく、今日こっそりと愛莉衣の葬儀に行ったんだ。そのとき、愛莉衣の顔を見て、ぼくは……ぼくたちは……なんてことをしてしまったんだって……」
 ショウは半ベソを掻いていた。
「へえ。後悔してるんだ」 
「……うん。心から」
「遅いよ」
「……」
「おまえら全員人殺しだよ」
 七瀬は煙草を踏み潰し、やにわに歩き出した。「あ、七瀬」とショウの声が背中に降り掛かる。
 向かった先はトー横広場だ。
 騒ぎ立てているユタカたちのグループへ、七瀬は一直線に歩を進めて行く。
「おい」と、勢いに任せて七瀬はユタカの胸ぐらを掴んだ。「おまえ、よくも愛莉衣のことを殺しやがったな」
「な、なんだよ。いきなり」
 ユタカは泡を食っている。周りの者は困惑していた。
「うざったいヤツが消えてくれて満足か。借りた金も返さなくて済むしな」
「お、おれが何したってんだよ」
「放置しとこうだ? ふざけやがって」
「……」
「おまえ、覚悟しとけよ」
「……べ、別に、警察に言われたところで、罪に問われねえし」
 顔面をグッと近づけた。目を剥いて睨みつける。
 絶対にぶっ殺してやる――胸の中で誓った。
 七瀬は突き飛ばすようにしてユタカから手を離し、大股で広場をあとにした。
 予定変更だ。ラーメン屋に行く前にコディに会おう。
 七瀬は東通りに向かい、そこで彼を捉まえた。コディはファー付きのロングコートを羽織り、耳当てのついた可愛らしいニット帽を被っていた。
「ナナセ、ダメダメ」
 殺し屋を手配してほしい、と伝えたところ、コディは真っ白な歯を覗かせて笑い、かぶりを振った。
「どうして? あたし、ちゃんと金は払うよ。ほら、ここに百万あるし」
 矢島から受け取った封筒を揺すってみせた。
「これで足りないならもっと出してもいい」
「ノーノー」両の手の平を突き出される。「オカネモラッテモ、ソンナコトデキマセン」
「それは物理的にできないってこと? やりたくないってこと? どっち?」
「サイショデス。ワタシ、ソウイウコワイシゴトハシマセン」
「嘘でしょ。ほんとはできるでしょ」
 そう迫ると、コディは薄く微笑み、再びかぶりを振った。
「ワタシ、ウソツキジャアリマセン。デキナイモノハデキマセン」
 できるんだ、と確信した。
「ナナセ、ヒトコロシタライケナイデス。コワイ、コワイ」
「ナディアって、言ったっけ? コディの死んだ娘」
「ハイ」
「似てるんでしょ。その子とあたし。それなのに頼まれてくれないんだ」
 コディが苦笑する。「ニテテモダメ」
「使えないね。あんた」
 コディに背を向け、歩き出した。すると、「ナナセ」と声が追いかけてきた。
 足を止める。 
「ハヤマラナイデ。ワタシカラオネガイ」
 七瀬は再び歩き出した。
 東通りを離れ、風林会館近くのラーメン屋の暖簾をくぐった。小汚く、狭い店だがスープに独特の臭みがあってクセになるのだ。七瀬は小腹が空いたらよくこの店を訪れていた。そんな七瀬にたまについてきた愛莉衣はここのラーメンが苦手で、いつも餃子だけをつまんでいた。
「ラーメン。それと餃子」
 カウンターに座り、厨房にいる五十絡みの男の店主に告げる。この店は彼が一人で切り盛りしていた。
「お、餃子も。めずらしいじゃない」
 店主が親しげに言った。歌舞伎町に来て以来、通いつづけているので自然と口を利く間柄になった。 
「そういえば昨日颯太くんが来てさ、最近七瀬ちゃんは店に来てるのかって訊かれたよ」
 この店で颯太と初めて出会い、以来彼とはちょくちょくここで顔を合わせていた。なぜかいつも鉢合わせになるのだ。
「あいつのことはどうでもいい」
「あれ、喧嘩でもしたの」
「喧嘩っていうか、縁を切った」
 そう告げると、店主は二回鼻をすすり、「まあ、彼も稼業の人だからね」と独りちた。
 やがて「お待ち」と、ラーメンと餃子が同時に出された。 
 酢を手に取り、ぐるっと一周させてラーメンに垂らす。
 割り箸を手に取り、麺をすすり始めると、聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。
 店の隅に置かれている小さなテレビからだった。
 画面には喪服姿の藤原悦子の姿があった。背景には斎場が見えている。これはニュース番組のようだ。
 藤原の頭上は黒い傘で覆われていた。傘を手にしているのは彼女の傍らに立つ辻篤郎だ。彼は目の上が腫れ上がっていた。七瀬が傘で殴りつけたからだろう。
「若く、尊い命が、このような悲しい運命をたどることになってしまいました」
 藤原がハンカチを目に当てて、仰々しく言った。
「彼女は自分の身体を売り、その日銭で生計を立てていたそうです。また、そこで得た収入をホストクラブに費やしていたようです。そんな生活を繰り返す中で、彼女は心を病み、こうしてこの世を去ってしまったのです。これを彼女の責任だけにするのでしょうか。自業自得だと切り捨てるのでしょうか。はたしてそういう世の中でいいのでしょうか。わたしはPYPの代表としてこう思うのです。彼女が欲していたのはきっと愛情だったのだろうと。束の間の幻想だとしても、彼女にとってそれを実感できる場所はホストクラブ以外に――」
 藤原はカメラに向けて、身振り手振りで熱く訴えている。
「まっとうな生活が送れない少女が夜の繁華街へ来て、ホストクラブに通うために身体を売る。はたまた少年は日銭を稼ぐために闇バイトなんてものに簡単に手を出してしまう。社会にはこのような子がたくさんいるのです。世の中の搾取構造の底辺に置かれるのは、いつだっていたいけな十代の子たちなのです。わたしたちPYPは、そうした恵まれない少年少女に手を差し伸べる活動を行っています。どうかそんなわたしたちに――」
 クソババアが――。七瀬の持つ割り箸が折れた。
 あの女も許さない。潰してやる。
 七瀬は餃子を頬張りながら、本日二回目の誓いを立てた。

 

(つづく)