「死んだら会えるのかなあ。だったら死ぬのも悪くないかも」愛莉衣が虚空を見つめて言う。「けど、うちはまだ死にたくないかな」
「なんで」
「だって死んじゃったら彼に会えなくなっちゃうし、なあちゃんともお別れしなきゃならないもん」
「そんなの仕方ないじゃん」
「仕方ないとか言わないでよ」
「仕方ないもんは仕方ないでしょ。いつかは必ず別れるときが来るんだし」
七瀬のこの物言いに対し、愛莉衣は返答をせず、ぶすっと頬を膨らませた。そして黙り込んだ。
それからしばらく互いに口を利かずにいると周囲の客の声がやたらうるさく感じられた。飛び交う言語の大半は外国語だ。英語に中国語、その他の言葉はどこの国のものなのかもわからない。
気がつけば網の上の肉が焦げていた。油が滴り落ち、七輪の中の炎がぶわっと大きくなったところで、七瀬はトングを手にした。
「うち、なあちゃんのこと好き。すごく大好き」
愛莉衣がふいに言い、「なに、急に」と七瀬は手を止めた。
「けど、なあちゃんはうちのこと、あんま好きじゃない」
「別に嫌いじゃないよ」
「ほら、好きって言ってくれない」
「あたしは誰のことも好きじゃない」
本心だった。愛莉衣に限らず、誰のことも好きじゃない。そもそも人を好きになるという感情がよくわからない。
そう伝えると、愛莉衣は自身の指を弄びながら、「でもなあちゃん、仲間のところ、いつも来るじゃん」と不満そうに言った。
「さっきだってレミちゃんやモカちゃんやショウくんとお話ししてたじゃん」
「だから?」
「だからそれが答えなんだと思う」
「意味わかんない」
「強がってても独りはさみしいんだよ」
七瀬は小首を傾げた。
「誰だって、人は一人じゃ生きていけないんだよ。だからなあちゃんも、うちも、歌舞伎町にいるんじゃないのかな」
七瀬は鼻息を漏らしたあと、トングを手放して煙草に火を点けた。
「ねえ、これって説教?」
「ううん。そんなのじゃないけど」
「じゃあ何?」
訊くと愛莉衣は上目遣いで見てきた。
「怒らない?」
七瀬が頷いて了承すると、愛莉衣はおずおずと唇を動かした。
「……なんていうか、なあちゃんのそういう感じ、痛々しいっていうか、もちろんかっこいいとも思うけど、でもやっぱり、うちはなあちゃんに人を好きになってもらいたいし、素直になってもらいたいな。だって本当のなあちゃんはすごく可愛いくて、優しい子だってことをうちは知ってるから。だからああいう人を騙す仕事もあんまりしてほしくないなあって……ごめんね、急に」
七瀬は煙草を肺いっぱいに吸い込んだ。
「ほんと、ごめん。大きなお世話だよね。ってか意味わかんないよね。うち、バカだからさ」
「知ってる」七瀬は紫煙をふーっと彼女の顔に吹きかけた。「おっさんのチンポしゃぶって稼いだ金をホストに貢いで、周りの連中に求められるがまま金貸して、歩くATMって笑われてる女がバカじゃなかったらなんなの」
七瀬は咥え煙草のまま席を立ち、愛莉衣を置いて店を出た。
大股で路上を歩いた。煙草を吐き捨てた。唾も吐いた。妙にイライラが治まらなかった。思いきり叫びたい気分だった。
キン、キンと金属音がする。バッティングセンターが近くにあるからだ。あんなものでストレスを発散できる連中の気がしれない。
再び煙草に火を点けた。一口吸って不味かったので、すぐに投げ捨てた。
そのときふと、どうして自分は腹が立っているのだろうと七瀬は思った。
はたして自分はこんな瑣末なことで怒るような人間だったろうか。
少なくとも地元にいるときはこうではなかったように思う。あのときの自分は感情をもたない人形だった。だからこそ悪夢みたいな現実に耐えることができたのだ。
七瀬は生ぬるい夜風に吹かれ、満艦飾の街なかをあてもなく歩いた。ひたすら足を繰り出し続けた。気がついたら東の空が白み始めていた。
2
昼下がり、狭苦しいカプセルホテルの中で七瀬は目覚めた。枕元で充電中のスマホが振動していて、意識が覚醒してしまったのだ。
手を伸ばしてスマホを掴む。寝ぼけ眼を擦り、焦点を合わせ、青白い画面を見た。相手はRanunculusのオーナーの浜口だった。彼とは連絡先を交換していたものの、こうして電話が掛かってくるのは初めてのことだ。
「はい」と、気だるく応答すると、〈七瀬ちゃん、今どこ?〉と浜口の切迫した第一声が耳に飛び込んできた。
「カプセルホテルですけど」
〈なんていうとこ?〉
「西新宿にある――」
七瀬が名称を伝えると、〈わかった。すぐ行く。合流しよう〉と鼻息荒く言われた。
「なにかあったんですか」
〈いや、その……ちょっとまずいことになっちまったんだ〉
「まずいこと?」
〈落ち着いて聞いてほしいんだけど、実はね、昨夜、七瀬ちゃんが引っ掛けた男の片割れ、代議士の息子だったみたいなんだよ〉
「はあ」
間の抜けた声が出た。七瀬は代議士というのが何者なのか知らない。
〈ああやべえ。マジでシャレになんねえよ。どうすりゃいいんだよこれ〉浜口が電話の向こうで嘆いている。頭でも掻きむしっていそうな勢いだった。〈そこいらのチャラついたパンピーのガキだと思ってたのに〉
「あのう、あたしよく意味がわかんないんですけど」
〈今さっき、その代議士先生の後援についてるヤーさんからおれのもとに連絡があったんだ。『えらいことしてくれたな。どう落とし前つけてくれるんだ』って。しかも運が悪いことに、そのヤーさんは歌舞伎町に根城を構える組の若頭で――〉
ここまで聞いても七瀬には話がピンとこない。よからぬトラブルが起きていることだけは理解したが。
「結局あのあとどうなったんですか。お金払ってもらったんですか」あくび混じりに訊いた。
〈ああ。耳を揃えてきっちり払わせちまった〉
「じゃあ返せばいいじゃないですか」
〈それで済む問題じゃないんだって〉呆れたように言われた。〈実はあの二人、中々財布を開かない上に、店の中で抵抗して暴れたんだよ。そんなもんだからこっちも頭に来ちまって――〉
立ち上がれないほど暴行したのだという。折れた歯が床に落ちていたというから相当痛めつけたのだろう。
ただ、だとしても浜口がなぜこの話に自分を巻き込んでくるのか、意味がわからない。
「けどそれ、あたし関係ないですよね」
〈残念だけど、大アリなんだわ。そのヤーさんから『先生の息子さんをハメた女と一緒に詫びに来い』って言われちまったんだ〉
「は? あたしが?」
〈ああ。当人の息子はおれらよりも、むしろ七瀬ちゃんの方が許せないらしい。あの女は何がなんでもぶっ殺すって息巻いてるんだと〉
七瀬は額に手を当て、ため息をついた。
〈とにかくまずは合流しよう。あと三分でそっちに着くから〉
電話が切れた。
七瀬はもう一度ため息をついたあと、スマホを放り、「だる」とつぶやいた。
タクシーに乗り込んだ浜口が「Rマンション歌舞伎町まで」と行き先を告げると、運転手はバックミラーを一瞥した。きっと浜口はその筋の人間で、七瀬は若い情婦と思われたのだろう。
東新宿駅から徒歩三分のところにあるRマンション歌舞伎町は通称ヤクザマンションと呼ばれていて、その名の通り、ヤクザの巣窟なのだという。住民の八割近くが裏稼業の者らしい。
「基本的に反社は賃貸契約が結べないんだけど、あのマンションは分譲になってて、買い取った人が個人的に貸し出してんだよ。ま、そいつもカタギじゃないだろうけどね」
浜口が欲してもいない情報を寄越してきた。彼は落ち着かないのか、ずっと貧乏揺すりをしている。
そんな浜口とはちがい、七瀬に緊迫感はなかった。それは寝起きだからというより、やはり目の前の問題を我が事と思えないからだ。
あたしは街で声を掛けてきたバカな男たちをバーに案内しただけ。ただそれだけ。
「まいったなあ」
浜口が悲壮感に満ちた顔でボヤいた。ふだんの調子の良さはどこへ消えたのか。
「なんでおれが本職に呼び出しを食らわなきゃならねえんだよ」
「行かなきゃいいじゃないですか」
「シカトするってこと?」
「はい」
浜口が鼻で笑う。「あのね、そんなことしたら歌舞伎町で生きてけないの」
それから浜口は裏社会にもルールがあるなどと説いてきたが、相手の少女に聞く耳がないと見たのか、途中で黙り込んだ。
七瀬はシートに背をもたせながら車窓に虚ろな視線をやり、流れる風景をぼんやり眺めていた。なぜだろう、行き交う人々がみな、人間の形をしたロボットのように見えた。夜はそんなことないのに。
「今どき、指詰めなんて言われねえよな。こっちは一応カタギだし、うん、まずありえないな」
浜口が今度はぶつぶつと自問自答を始めた。
「まあ、最後は金だろうな。それしかねえもん、結局」
彼の独り言は目的地に到着するまでやまなかった。
タクシーを降り、浜口と並んで十三階建ての茶褐色のマンションを見上げた。Rマンション歌舞伎町はA棟、B棟に加え、第二棟の三つがあるらしい。今目の前にしているのはB棟で、ここの404号室に来るように浜口は指示されたという。
もっと物々しい建物を想像していたが、特別不穏な雰囲気は感じられなかった。強いて言うならば、いくつかの部屋のベランダに粗大ゴミのようなものが高く積まれているのが気になる程度か。いかにも外からの目を遮断したいがために置かれているかのようだ。
「ときどきさ、人が降ってくるんだって」浜口がマンションを見上げたまま言った。「落下した人があそこに突き刺さってたこともあるらしいぜ」
彼の指さした先にはマンションを囲う柵があり、その先端は矢のように尖っていた。
この話は有名で七瀬も知っていた。ほかにも外廊下が血の海だったとか、持ち運ばれていた段ボールの中から人の呻き声が聞こえたなどといった話も聞いたことがある。どれも噂ではなく事実なのだろう。
「けど大丈夫。あっちだって十代の女の子に手荒なことはしないさ」
七瀬は大口を開けてあくびをした。
「さっさと行って済ませちゃいません?」
浜口が苦笑する。「どういう心臓してんだよ」
マンション内に足を踏み入れた。エントランスを抜けた先のロビーに二つ並んで置かれた自動販売機を見て、やっぱりふつうのマンションじゃないのだなと思った。それは洗濯用洗剤とコンドームの自動販売機だったのだ。
エレベーターを待っていると、後ろに人がやってきた。ガラスに反射して映し出されている姿はスーツを着たおっさんだった。年齢は五十代後半といったところで、恰幅が良く、目つきが鋭い。いかにもヤクザ然とした風貌だ。
「お嬢ちゃん。こんなところにどんな用があるんだい?」
その男が七瀬の真後ろから低い声を発した。
「いえ、別に」浜口が答える。
「てめえに訊いてんじゃねえよ」
「なんすか、いきなり。自分らただ人に会うために――痛っ」
振り返ると、男が浜口の髪を鷲掴みにしていた。
「ちょっと放してくださいよ。誰なんですか、あなた」
浜口が反撃しないのは相手の素性がわからないからだろう。
「ふん。きさま、おれを知らないようじゃモグリだな」
男が口の端を吊り上げて言い、突き放すようにして浜口を解放した。そして男は胸元から黒っぽい手帳を取り出して、それを七瀬たちに掲示してきた。
金色の桜代紋が目に飛び込んでくる。七瀬は視線をやや上げ、改めて男の顔を見た。このおっさんが刑事なのか。どこからどう見てもヤクザだ。
男は小松崎と名乗り、マル暴だと言った。そしてここから小松崎による職質が始まった。