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「ちょうどこういう話になったから伝えるけど、実はね、今後、七瀬ちゃんにPYPのお手伝いはしてもらえなくなりそうなんだ」
 回りくどい言い方に七瀬は首を傾げた。
「それってつまり、わたし、クビってことですか」
「いや、クビとかそういうことじゃないんだけど……」
「じゃあなんですか? はっきり言ってもらって構わないんですけど」
 辻は逡巡する素振りを見せてから、「実は今日の会議で、藤原代表が十代の若い子を活動に参加させるのはやめようって。もちろんぼくは反対したんだよ。七瀬ちゃんはこれまでがんばってくれたし、愛莉衣ちゃんにだって加わってもらったばかりだしね。でも藤原代表はもう決定事項だからって。どうして彼女がそういうことを言い出したのか、ぼくにもよく――」
 七瀬は辻の話に相槌を打ちながら思考を巡らせた。
 昨日の藤原の様子からすればそうした気配はまったくなかった。今後もよろしくといった言葉だって投げかけられたのだ。
 だとするとなんだ。もしかすると藤原に対し、都知事の池村から助言があったのかもしれない。あの少女は危険だからそばに置かない方がいい――なんとなくこれが正しい気がした。
 とはいえ、たいして問題じゃない。むしろ好都合だった。
 どの道、今夜をもってPYPと関わる必要などなくなるのだ。
「本当にごめんね」
 辻が心底申し訳なさそうに詫びてきた。
「いいえ。気にしないでください。それに、辻さんと会えなくなるわけじゃないですもんね」
 七瀬は辻の太ももに手を置いて言った。
 彼は生唾を飲み込み、「ちょっとお手洗いに行ってくる」と腰を上げた。
「すぐに戻ってきてくださいね」
 辻が離れたのを見計らい、七瀬は彼のグラスに粉状の薬を混入させた。これはサイレースという強力な睡眠薬――コディからもらった――で事前に粉々にすり潰しておいたのだ。
 ほどなくして戻ってきた辻はなんら疑うこともなく、再び酒を呷った。七瀬はそれを横目でしっかりと確認しつつ、「そろそろ出ません?」と誘惑の目で切り出した。
 至近距離で見つめ合う。辻のレンズの奥の目は情欲を隠しきれていなかった。
 七瀬はそんな彼の手を取り、「行きましょ」と促して店を出た。
 七瀬の誘導でラブホテルのある通りへ向かう。辻はしきりに周囲に目を配っていた。
 そうして中世ヨーロッパの城を模した安っぽいラブホテルまでやってきた。だが入り口の前に立ったところで、辻はこの期に及んで「やっぱりまずいよ」と怖気づいた。
「どうして?」
「だって、さすがにこんなことって……」
 いいや、これはポーズだ。この男は情けないことに、まだ背中を押してもらいたいのだ。自分の半分も生きていない小娘に。
「わたし、好きなんです。辻さんのことが」七瀬は彼の指を弄んで訴えた。「いいんですか。女の子に恥をかかせて」
「……」
 辻は中指で眼鏡を押し上げたあと、七瀬の手を引っ張り、中へと勢いよく入った。
 受付を済ませ、エレベーターに乗り込む。そこで辻はいきなりキスをしてきた。舌も入れてきた。拒むこともできないので仕方なく受け入れる。
 部屋に入るなり、ベッドに押し倒された。首筋に彼の舌が這う。服の上から胸を乱暴に揉まれた。
「わたし、シャワー浴びたい」
「いいや、このままがいい。きみの匂いをあますことなく嗅ぎたいんだ」
 辻がギラついた目で、鼻息荒く変態台詞を口にする。えらい豹変ぶりに笑いそうになった。
「だーめ。少しだけ待っててください」
 七瀬は彼を押しのけ、鞄を持って浴室に向かった。途中、足を止めて振り返り、「覗かないでくださいよ」と、チャーミングに告げておいた。
 シャワーを出し、そのまま流しっぱなしにして一旦脱衣所に戻った。洗面台の前で口を濯いだあと、鞄からスマホを取り出して時刻を確認した。二十三時に差し掛かっていた。あとどれくらいで辻は眠りに落ちるだろうか。あの様子だとまだ薬は効いていなさそうだ。
 手の中のスマホが震えた。またも愛莉衣からの着信だった。
 もちろん応答しない。だが、着信が収まったあと、すぐにまた掛かってきた。
 舌打ちし、「なに?」と声をひそめて応答した。
〈なあちゃん、うち、もう無理〉
 愛莉衣は泣いていた。それも結構な泣きじゃくりようだった。
〈もう死にたい〉
「なんなの急に」
〈今から会えないかな〉
「無理。忙しいの」
〈どうしてもダメ?〉
「だからダメ。あたし今、歌舞伎町にいないし」
〈でも戻ってくるよね〉
「たぶんね」
〈何時頃?〉
「わかんないって。零時とか、それくらいだと思うけど」
〈じゃあトー横のとこで待ってる。うち、ずっと待ってるから〉
 電話が切れた。
 彼女に何があったのか。もっとも、大したことではないだろう。彼がプレゼントをよろこんでくれなかったとか、おそらくそんなところだ。
 それからしばらくして、七瀬は辻の様子を確認するため、脱衣所から顔だけを出して部屋を覗いた。
 すると辻がベッドに大の字になって眠っているのがわかった。ようやく睡魔に襲われたのだ。
 足音を立てぬよう、抜き足差し足で近づいていく。そうして彼を真上から見下ろした。口を大開きにして、いびきを掻いている。
 肩を軽く揺すってみた。まったく反応しなかった。今度は強く揺すり、「辻さん」と耳元で声を掛けた。だが、やはり反応はなかった。
 七瀬は頷き、傍らにある彼のリュックに手を伸ばした。ジッパーを滑らせ、中からノートパソコンとスマートフォンを取り出す。
 まずはノートパソコンを開き、記憶していたパスワードを打ち込んだ。問題なくログインすることができたのでホッとした。もっとも、パソコンの扱いに慣れていない七瀬はこれ以上先に進むことができないので、すぐに閉じた。
 つづいてスマホを手に取り、先ほど同様に暗証番号を入力した。こちらも容易くログインに成功した。几帳面な彼らしく、ホーム画面にはいくつものアプリが綺麗にフォルダ分けされて表示されている。この男は意外とゲームなんかをするようだ。背景は彼の娘だろうか、笑顔の幼女の写真だった。
 なんとはなしに《ファイル》アプリを開いてみた。たくさんのフォルダが入っていた。その中に《PYP》と書かれたものがあった。もしかしらこのスマホはパソコンと同期されているのかもしれない。
 いずれにせよ、これで自分はお役御免だ。七瀬はノートパソコンとスマホを辻のリュックの中に戻し、それを背負ってホテルを出た。
 通りでタクシーを捕まえて乗り込み、「歌舞伎町まで」と告げる。
 車が発進したところで自分のスマホを取り出した。無事に任務が完了したと、矢島に報告を入れるのだ。
 だが、七瀬は発信マークをタップしようとした指をピタッと止めた。
 やや思考を巡らせたあと、一旦自分のスマホを手放し、辻のリュックの中から彼のスマホを取り出した。
 パスワードを打ってログインし、まずはスマホの位置情報をオフにし、次に中を物色した。
 よくよく考えれば自分も何かしら、辻の弱みを握っておかなければならないことに思い至ったのだ。仮に今後、辻及びPYPとの間でトラブルが起きたとして、そのとききっと、矢島は自分を守ってはくれない。我が身に火の粉が降り掛かるとみれば、あのヤクザはあっさりと七瀬を切り捨てるはずだ。
 手始めにPYPフォルダの中のデータファイルをいくつか開いてみた。だが無知な七瀬にはこれらがどういうものなのかまるでわからなかった。たとえこれらがPYPの弱点になりうるデータファイルだったとしても、その判別がつかないのだから意味がない。
 なので、辻の個人的な弱みを探ることにした。指を滑らせていると、一つのアプリに目が止まった。これは写真や動画を保存できるKeyというアプリなのだが、鍵付きのシークレットアルバムなのだ。つまり、人に見られたくないものが入っている可能性が高い。
 アプリマークを指で触れ、立ち上げてみる。当然顔認証を求められ、そこでエラーとなった。試しにスマホのパスワードを打ち込んでみた。ダメ元だったが、呆気なくロックが解除された。
 そうして中を調べた。七瀬は肩を揺すらずにはいられなかった。
 女のスカートの中を写した写真や動画だらけだったのだ。それも電車内やエスカレーターといった場所で、被害者は女子学生ばかりだった。 
 結構な趣味をお持ちで――まだホテルで熟睡しているであろうマヌケに向けて皮肉を飛ばした。
 七瀬は再び自分のスマホを手に取り、矢島に電話をかけた。彼はすぐさま応答した。
〈どうだ〉
「無事終わったよ」
〈よし〉
「けど、パソコンだけね。スマホは奪えなかった。どういうわけか知らないけど、あいつスマホを持ってなかったの」
 二つとも矢島に献上するのはやめることにした。あのヤクザに対しても念のため保険を掛けておきたい。
〈そんなはずないだろう〉
「探したけど、本当になかったの。あいつ相当酔っ払ってて、ホテルに行くまでにふらふら歩いてたから、たぶんそのときに落としたんだと思う」
 舌打ちが聞こえた。
〈まあいい。それで、パソコンはちゃんとログインできるんだろうな〉
「うん。確認済み」
〈さすがだ。よし、これから合流しよう。今どこだ?〉
「まだ池袋。タクシーでそっち向かってる。事務所に行けばいい?」
〈いや、あとで場所を指定するからそこに来い〉
 電話が切れた。
 先の横断歩道の信号が黄色になった。加速して突っ切ればいいものをタクシーは減速し、止まった。
「ねえ、煙草吸ってもいい?」
「困ります」運転手がにべもなく言う。
 七瀬はシートにもたれ、フロントガラスの先を薄目で見た。横断歩道を大勢の人が行き交っている。

 

(つづく)