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 その数分後、浜口からまた着信があった。
〈二つ返事でOKをもらったよ。今銀座にいるからタクシーで歌舞伎町に向かうって。七瀬ちゃん、このあと店に来れるかい?〉
「店ってRanunculusですか」
〈うん〉
「でもまだ営業中ですよね」
〈大丈夫。客も従業員も追い払って、クローズにしとくから――あ、でもあれか。一人で向かわせるのは危険か。よし、おれが七瀬ちゃんを迎えに行くよ〉
 七瀬は少し逡巡したあと、「いえ、あたしが店に行きます」と告げた。
 電話を切り、「さっちゃん。またね」とささやいて、『きらり』を出た。左右を確認し、明治通り側へ向かう。幾人もの酔いどれ客とすれちがいながら路地裏を抜けた。この時間帯がゴールデン街のピークだ。
 それから花園神社の脇を通って、靖国通りに出た。ここからセントラルロードを使って二丁目にあるRanunculusを目指すのだ。
 今夜も歌舞伎町はうんざりするほどの人いきれだった。欲にまみれた老若男女がごちゃ混ぜにひしめき合っている。
 一応、周囲に警戒して歩いているものの、怪しい人影はなかった。相手も尾行のプロではないことを思えば追手はいないとみていいだろう。
 やがて暗黒地帯の二丁目に足を踏み入れた。ここからはさらなる警戒が必要だ。
 どこかで誰かの叫声が上がった。ただ、みんな慣れっこなので気にも留めない。この街は毎晩のように誰かが泣いて、叫んで、怒っている。
 無事にRanunculusまでやってきた。ビルを見上げる。縦に並んだ看板の下から三つ目、『Ranunculus』のライトは消えていた。
 階段を使って三階に上がった。ドアの前で浜口に電話を掛けた。ワンコールで浜口は〈ついた?〉と応答した。その声がドア越しにも聞こえた。
 ドアが開けられ、七瀬は中に入った。浜口はすぐに内側から鍵を掛けた。
「その雑誌の人は?」
「もうすぐ着くと思う。七瀬ちゃん、オレンジジュースでいい?」
「はい」
 カウンターではなく、テーブル席で向かい合った。浜口のグラスの中身もめずらしくジュースだった。彼はふだんハイボールばかり飲んでいるが、今夜は酔うつもりはないのだろう。
「先に詳しい話を聞かせてもらえるかな」
 七瀬はオレンジジュースを飲みながら、コトのあらましを順を追って語った。
 浜口はいつになく真剣な眼差しで相槌を打っていた。
「なるほど。矢島からしたら、入手した情報を告発しないとPYPと取り決めたのに、それを七瀬ちゃんにされてしまったら面目丸潰れってことか」
 七瀬は頷いた。
「それにしても驚いたな。おれがあの事務所からいなくなったあと、矢島とそんなやりとりがあったなんてさ」
 浜口はそう言ったあと、腕組みをして黙り込んだ。
 七瀬は少しだけ残っていたオレンジジュースを飲み干してから、「これで潰せますかね?」と訊ねた。
「ん?」
「PYPのこと」 
「さあ。どうなんだろ。おれも政治の世界のことは詳しくないから。でも、そっか。七瀬ちゃんにとっては矢島より、PYPなんだもんね」
「はい。矢島なんてどうでもいいです」
「だよね。けど意外だったな。七瀬ちゃんがそんなに友達思いだったなんて――あ、ごめんね」
「いえ」
 浜口が組んでいた腕を解き、テーブルの上に投げ出した。そして七瀬を上目遣いで見てきた。
「あのさ、七瀬ちゃん、今さらなんだけどさ、やっぱりよした方がいいんじゃないかな」
「何を?」
「この告発」
 七瀬は首を傾げた。
「だって危険だもん。もちろん七瀬ちゃんの気持ちはわかるし、おれだって矢島に復讐したい気持ちはあるから、応援したいところだけど、やっぱり七瀬ちゃんの身が心配だよ」
「あたしは平気ですから」
「そうは言ったって相手はヤクザだよ。それに、ちょっと話が大き過ぎるよ。PYPはまだしも、N財団とか池村都知事とか、そんなどデカい組織や大物まで絡んできてる話なんだとしたら、七瀬ちゃんの手には負えないって」
「だから雑誌の人を紹介してくれるんじゃないんですか」
「いや、そのつもりだったけど、まさかここまでヤバい話だなんて思ってもみなかったから」
「じゃあどうしろって言うんですか」
「だからまずは矢島に詫びを入れて、そのスマホに入ってるデータを消すしか――」
 七瀬はテーブルを平手で叩いた。
「あたしはやめない。死んでもやめない」
 浜口は身を引き、唾を飲み込んでいる。
「浜口さん、今回もまたイモを引くんですね」
「いや、おれはただ七瀬ちゃんのことが――」
「自分のことでしょ、心配してるのは。あたしに力を貸したことが矢島にバレたらヤバいと思い直したんでしょ」
「ちがうって」
「ダサい男」
「だからちがうって」
「もういいです。自分でなんとかしますから」
 七瀬が席を立とうとすると、「ちょ、待ってよ」と手首を掴まれた。
「わかった。おれも腹括るよ。全面的に協力する」
 七瀬はため息をつき、椅子に座り直した。 
「あのさ、話は変わるけど、七瀬ちゃんって群馬の出身だったよね?」
「そうですけど」
「ご両親ってまだそっちにいるの?」
「そうなんじゃないですか」
 七瀬はあくび混じりに答えた。どうやらまだ寝足りないようだ。
「縁を切ってるんだっけ?」
「そんな話もしてないですけど、実質はそうですね」
 歌舞伎町にやってきて一ヶ月ほど経った頃、七瀬は警察に保護されたことがある。その際に親から行方不明者届が出されていないことがわかり、担当した警察官の方が驚いていた。 
「ってことは今後も、七瀬ちゃんに行方不明者届が出されることはないってことだよね」
「ないでしょうね。なんでそんなことを?」
「いや、ふと思っただけ」
 七瀬は斜めに相槌を打った。
「遅いですね、雑誌の人」
「うん。道が渋滞してるんじゃないかな」
 七瀬は煙草を咥え、火を点けた。一口吸い込むと一瞬で気だるくなった。
 急にヤニクラ――いや、そうじゃない。身体がなんか変だ。
 次第に意識が朦朧としてきた。座っているだけなのにしんどい。目を開けているのがやっとだ。
「おっと。灰が落ちちゃうよ」
 浜口が灰皿を差し出してくる。七瀬はそこに煙草ごと落とした。火種を消す余裕もなかった。
 耐えきれず、七瀬はテーブルに突っ伏した。その際、オレンジジュースの入っていたグラスを腕で弾いてしまい、グラスはバリンッと派手な音を伴って割れた。
 そこで七瀬は確信した。この飲み物にクスリを盛られたのだ。
 テーブルに頬をへばらせながら薄目で浜口を見上げる。彼はひどく冷たい目で七瀬を見下ろしていた。
「やれやれ」
 と、浜口がつぶやいた。
 そこで七瀬の目蓋は閉じ、意識がぷつりと切れた。

  遥か彼方で、人の声がかすかに聞こえる。男のものだ。それも一人じゃない。
 やがてその声がこちらに迫ってきた。音の波が静寂を掻き分け、徐々に、だんだんと、七瀬の耳に近づいてくる。
 いや、実際には七瀬の聴覚が鮮明になってきているのだった。男たちはすぐそこにいるのだ。だが何を話しているのかまでは、まだ聞き取れない。
 七瀬は微かに目を開けた。しかし、何も見えなかった。なぜか暗闇が依然として七瀬を包み込んでいた。
 そもそもここはどこなのか。意識がまだ混濁していて、うまいこと思考が巡らない。
 手の指先を動かしてみた。だが、動かせたのはそこまでだった。腕も、足も不自由だった。
 麻痺しているのではなく、物理的に動かせない状態にあった。
 手首と足首が拘束されているのだとわかった。皮膚に紐のようなものが食い込んでいる感覚がある。
 だとすると、視界が奪われているのも目隠しをされているからなのだろうか。
 七瀬は音を立てぬように、スー、スーと鼻で呼吸を繰り返した。
 口も塞がれているのだ。これはおそらくガムテープで覆われているのだろう。
「――なので、行方不明者届が出されることはなさそうです」
 ふいに男の声を鼓膜が捉えた。すぐに浜口のものだとわかった。
「けど……消すのはマズくないですか。さすがに」
「このまま七瀬を野放しにしておく方がよっぽどマズいんだよ」
 これは矢島の声だった。
「でもこうしてスマホも奪えたわけですし、もう告発されるリスクはないと思うんですけど」
「このスマホのほかにもデータを移していたらどうなる」
「それはたしかにそうですけど……」
「だいいちデータを奪ったところで七瀬はあきらめないさ。ヤキを入れたくらいじゃ、こいつは止まらねえんだ。人生をかけて、刺し違えてもPYPを潰しに掛かるさ」
「こんな小娘にそんな執念がありますか。言ったって、ただの家出少女じゃないですか」
「おまえは七瀬をまるでわかってねえな。こいつはそこらのガキどもとはちがうんだ。甘くみてたら喰われるぞ」
 浜口はうーんと呻吟している。
「だいいち、データを取り上げましたなんて、ぬるい着地じゃ藤原が納得しないさ」
「え。もしかして、これって、あの女の命令なんですか」
「藤原は池村からそれとなく示唆されたらしいけどな。『行方不明届が出されなければ警察も動きようがないようですね』ってな」
「とんでもない都知事ですね」
 しばらく沈黙がつづいたあと、
「ああ、けどなあ」
 と、浜口がなおもボヤいた。
「おまえ、あんなチンケなぼったくりバーの経営者で終わっていいのか。歌舞伎町でホストクラブを展開したいんだろう」
「もちろんそうですけど……でも、まあ、そうか。ある日突然、人が消えるなんて歌舞伎町じゃめずらしくないですもんね」
「ああ、誰も気に留めないさ」
 なるほど、すべてを理解した。
 自分は浜口に売られ、矢島によって消されようとしているのだ。そしてその指示をしたのは藤原悦子であり、池村大蔵らしい。
「ところで、処理は誰にさせるつもりなんですか」
「うちの若い衆だ。今、足がつかないバンを手配させてる」
 七瀬は必死で思考を巡らせた。
 機を窺い、逃走を試みるのだ。
 いや、視界を奪われている上に、手足が不自由であることを考えれば、自力での脱出は不可能だろう。
 となれば誰かに助けを求めるほかない。
 今し方の会話を聞く限り、自分は車に乗せられ、どこかへ連れて行かれるのだろう。そのときが唯一のチャンスだ。必死にもがき、抵抗をする。そしてそれを第三者が見つけて、通報してくれたらいい。 
 望みは限りなく薄いが、それしか自分に残された道はない。
 七瀬は息を潜め、微動だにせず、そのときをじっと待った。

 

(つづく)