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 そうして二人きりになったところで、矢島は七瀬の足元から這うように視線を上げていき、「気に入ったよ、お嬢ちゃん――いや、七瀬」と、ねっとりした笑みを浮かべて言った。
 七瀬は素早く部屋の中を見回した。武器になりそうな物は床に散らばっているボールペンしかなかった。襲われたらこいつを目ん玉に突き立ててやる。
 拾い上げようと腰を屈めたとき、 
「なあ七瀬、おれと手を組まないか」
 と、思わぬ声を掛けられた。
 七瀬は伸ばしていた手を止め、眉をひそめて矢島を見た。
「そうすりゃすべて水に流してやる。どうだ?」
「あんたとあたしが仕事をするってこと?」
「ああ。浜口みてえな小物と縁を切って、おれとでけえビジネスをしようや」
「……」
 七瀬はゆったりとした動作で煙草を燻らせ、素早く損得勘定をした。
「大事な選択だぞ。まちがえるなよ」
 決めた。
 七瀬は短くなった煙草を矢島に見せつけ、「灰皿は?」と訊ねた。
「そいつを使え」と浜口が床に転がっているペン立てを指差した。
 七瀬はそれを拾い上げ、煙草を側面に押しつけて火種を消してから、「で、何をすればいいの」と訊ねた。
 すると矢島は口の片端を吊り上げ、「優秀だ」と手を叩いた。
「トー横キッズならProtect Young people――通称PYPのことは当然知ってるな。恵まれない少年少女に温かい手を差し伸べてくれる、ご立派な社団法人様だ」
 七瀬は首肯した。
「おまえはあいつらのことをどう思う」
「どうって?」
「好きか、嫌いか」
「嫌い」
「なぜだ? 飯を食わせてくれて、時に寝床も提供してくれるんだろう」
 七瀬は視線を斜め上に持っていったあと、「なんかイケ好かないから」と答えた。
 すると、矢島は満足そうに頷いた。
「これは公にはなってないが、PYPのバックにはK党がついているらしい。ということはPYPはK党のシンパ団体であり、その活動の真の狙いはプロパガンダにほかならない。つまり奴らは世間の耳目を集めるためにトー横キッズを救済しているわけだ――ここまでついて来れるか」
 あまり要領を得ないが、要するにPYPはトー横キッズを利用しているということだろう。七瀬は頷いた。
「トー横キッズと接触すればメディアは放っておかない。現にネットニュースなんかでも散々取り上げられているだろう」
「あたし、そういうのいっさい見ないから」
「そうか」と矢島が笑う。「さて、七瀬はPYP代表の藤原悦子って女のことは知ってるか」
 直接の面識はないが、いつも遠巻きに彼らのことを見ているので、どの人物のことかすぐに見当がついた。おそらくおかっぱ頭の四角い顔をしたおばさんのことだ。年齢は四十代前半くらいで、PYPの中ではリーダー格として振る舞っている。
「ああ、その女のことだ」
「そのおばさんがなんなの」
 訊くと、矢島が眼鏡の奥の目を鈍く光らせた。
「弱みを握ってもらいたいんだ」
「弱み?」
「ああ。男でも家族でも裏金でも、なんでもいい。PYPの内部に潜り込み、藤原悦子の身辺を探って、奴の世間に知られたくない秘密を見つけ出してくれ」
 七瀬は鼻を鳴らしてしまった。このヤクザは何を言っているのか。そんなことができるわけがない。こちらは十五歳の、世間知らずの少女なのだ。
「だからいいのさ。藤原を含め、PYPの連中はまずおまえを警戒しない。おまえのことを周りのガキ同様、哀れなノータリン娘だと見做すはずだからだ。だが、本当のおまえはそうじゃないだろう」
「さあ」と七瀬は小首を傾げた。
「おまえは優秀さ。とびきりな。なにより肝が据わってる」
 七瀬は煙草をもう一本抜き取り、「いくつか質問」と言い、火を点けた。
「そのおばさんに弱みなんてあんの」
「あるさ」
「絶対?」
 矢島が大きく頷いた。「キナ臭い女なんだ、藤原悦子は」
「ふうん。じゃあもう一つ、そもそもどうしてそのおばさんの弱みを見つけたいの」
「PYPの活動を快く思っていない連中がいるんだよ」
「じゃあ、あんたはそいつらの犬ってことか」
 そう告げると、矢島は愉快そうに笑い声を上げた。
「最高だな、おまえは。七瀬、悪いことは言わない。おれと組め」
 彼はそう言って身を乗り出し、手を差し出してきた。 



 この日の夕方はふだんにも増してトー横の広場が騒々しかった。炊き出しをするPYPの連中と腹を空かせた少年少女たち、それに加え、この活動の様子を報道しようとするマスコミでごった返しているからだ。
「モカ、さっきも並んでたよね。豚汁は一人一杯までだよ」
 七瀬がお玉を持つ手を止めて注意をすると、湯気の向こうにいるモカは「えー」と不服そうに頬を膨らませた。
「それくらいいいじゃん」
「ダメ。だってルールだもん。余ったらおかわりしてもいいけど、この列が途絶えるまでは待って――でしたよね? 辻さん」
 となりに立つ辻篤郎に伺いを立てると、彼は「ああ、その通り」と人差し指を立てた。
 辻は三十代半ばの丸眼鏡を掛けた痩せ細った男で、PYPの副代表兼経理を務めている人物だ。
 そんな彼と七瀬は今、同じピンクのジャンパーを羽織っていた。その背中にはPYPのダサいロゴがでかでかと描かれている。
 四日前の夕方、今日と同じようにトー横にやってきたPYPに近づき、そこで七瀬は代表の藤原悦子を捉まえ、このように相談を持ちかけてみた。
「わたしも誰かの力になりたいんです。よかったらみなさんのお手伝いをさせてもらえないですか」
 すると彼女は嘆息を漏らして感心し、その場であっさり了承してくれた。
 こうして七瀬はPYPの臨時スタッフとして雇われることに成功した。とはいえ雇用契約などは結んでおらず、本当にただの手伝いの身だ。だから当然、内部事情――ましてや藤原の弱みなど――を探るまでに至ってはいない。
 とはいえ、つい先ほど突破口を見つけたのだが。
 それはとなりに立つ辻篤郎だった。この男はおそらくロリコンだった。その証拠に彼が自分を見る目はどこかいやらしい。こうして七瀬のそばに居るのも、彼がそれとなく近寄ってきたからだ。
 副代表兼経理のこの男と親しくなれれば、何かしら内部の情報を得られるかもしれない。
「ごめんなさーい。今日はここでおしまいでーす」
 PYPの人たちが周囲に向かって叫んだ。炊き出しの食材がちょうど尽きたのだ。
「まったく、これだけ持ってきてもあっという間だ。みんなタダ飯が食えると思って、ここぞとばかりに群がってくるもんなあ」
 辻が後片付けをしながらボヤいた。これに対し、「あたしが一度も見かけたことがない子たちだって並んでますから」と七瀬は反応した。
「やっぱりそう? まいっちゃうよなあ。だけど、どの子がトー横キッズかなんてこっちには判別がつかないしさ。きみはちがうだろうって指摘したところで、差別だなんて言われて騒がれたらたまったもんじゃないし、結局は個人の良心に任せるしか――」
「辻。ぶつぶつ不満を垂れない」
 そう叱責したのは藤原悦子だった。彼は近くに代表がいると思っていなかったのだろう、泡を食っていた。
「来た子には平等に与える。余計なことは考えない――ごめんね、七瀬ちゃん。みっともない大人の愚痴を聞かせちゃって。この人、ちょっと疲れてるのよ」
「あ、いえ、あたしは全然。でも、こうして人が増えちゃうと食料品を買うお金も大変ですよね」
「そうなの。だからわたしたちの活動をもっと多くの人に知ってもらって、協力をしてもらわないとね。一人でも多くの恵まれない子を救うために。一緒にがんばろうね」
 藤原は慈しむような眼差しで言い、その場を離れて行った。その後ろ姿を目で追う。矢島の台詞じゃないが、たしかに彼女にはキナ臭いにおいが漂っていた。それは七瀬のもっとも嫌悪する悪臭だ。
 ふと辻を見る。彼は叱られたことでバツが悪かったのか、引き攣った笑みを浮かべていた。
 その後、後片付けを終えた七瀬は制服であるジャンパーを脱ぎ、それを辻に返却した。その際に「あのう、辻さんって彼女さんいるんですか」と女の目で質問をした。彼は虚を衝かれたような反応を示したあと、「ええと、一応、妻がいるけれど」と答え、それに対し、七瀬は落胆した素振りを見せておいた。
 PYPのメンバーが去り、七瀬が一服していると、「あーん。うちも豚汁食べたかったー」と眉を八の字にした愛莉衣が現れた。
「一足遅かったね」
「最悪。死ぬほどお腹空いてるのにィ」
「コンビニでなんか買えば?」
「イヤ。お金使いたくないもん」
 現在、愛莉衣は必死になって金を貯めていた。推しのホストの誕生日プレゼントを買うというくだらない目的のためだ。
「ところでさ、みんなからお金は返してもらえたの」
「まだ全然。十分の一も返ってこない」
 愛莉衣は仲間に貸した借金の取り立てにも躍起になっていた。少しでもプレゼント代の足しにしたいのだろう。
「みんなひどいんだよ。借りるときだけ『ねえねえ愛莉衣ちゃん』って擦り寄ってきてさ、返してくれないって迫ったらうざったそうな顔をして離れていくの」
「そんなもんでしょ。ふつーだよ」
「ユタカくんなんて、しつけーなとか言ってガチギレしてきたんだよ。マジでありえないでしょう」
 愛莉衣が鼻の穴を広げて憤った。
「でもうち、絶対にあきらめないから。今月末までに全員から全額きっちり返してもらう。返してくれるまで毎日でもみんなのとこ顔出して、返してってしつこくお願いする。これでウザがられて縁が切れてもいい」
「へえ。ずいぶんな変わりようじゃん」
「うん。だってマジで今、お金が必要なんだもん。それにうち――」
 愛莉衣が上目遣いで見てきた。
「なあちゃんに認められたいもん。うち、バカだし、だらしない女だけど、なあちゃんに友達だって思ってもらいたいんだ」
 少し照れ臭そうに言った愛莉衣の顔を七瀬はまじまじと見た。
 改めて不可解な女だと思った。あんなに罵倒をされたのに、どうして自分のもとから離れないのか。いったい、こんな自分の何が好きなのだろう。
 思えばいつだって彼女はそうだった。七瀬がどんなに汚い言葉で罵ろうとも、翌日にはケロッとして、なあちゃん、なあちゃんと腕を絡めてくる。
「うちね、めっちゃうれしいんだ」
「何が?」
「なあちゃんがこういう仕事してくれて」
「これは仕事じゃなくてボランティア」
「うん。だからよけいにうれしい」
 愛莉衣は七瀬が邪な気持ちもなく、善意からこんなことをやっていると心から思っているのだろうか。だとしたら、やはり相当にイタい女だ。
 七瀬は矢島とのことは誰にも話していなかった。彼からそのように指示をされているからだ。
「うちも彼の誕生日が終わってさ、時間ができたらPYPのお手伝いするよ。別にいいでしょう?」
「好きにすれば」
「もう。一緒にやろうよとか言ってよ」
「一緒にやろうよ」
「まったく。ほんとなあちゃんはなあちゃんなんだから――あ、やば。うちそろそろ仕事に行かないと」
 愛莉衣がスマホに目を落として言った。
「さっきSNSで客が捉まったから、大久保公園のとこで待ち合わせしてんだよね」
「ふうん。今日何本目?」
 訊くと愛莉衣は三本指を立てた。
「最近、ウリする子めっちゃ増えたから、客を取るのも大変なの。なあちゃん、またね」
 愛莉衣は七瀬をサッと抱きしめたあと、慌ただしく去って行った。

 

(つづく)