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 街なかで男の誘いに乗ったフリをして、ぼったくり店に連れて行く行為をガールキャッチという。
 七瀬がこのガールキャッチを始めたのは一ヶ月前。きっかけは愛莉衣と街中を歩いているときにスカウトを受けたことだ。愛莉衣は「そういうのは怖いから」という理由ですぐに断ったが、七瀬はその場で話に乗った。
 罪悪感など微塵も湧かなかった。これまで性処理の道具として散々男どもに弄ばれてきたのだ。むしろ自分には世の男を貶める権利があると思った。
 いざ始めてみると、仕事は拍子抜けするほど楽だった。口を開けて待つ魚群に釣り糸を垂らすのだからしくじるわけがない。
 事実、七瀬はこれまで一度も失敗したことがなかったし危険な目に遭ったこともなかった。
 もちろん疑い深い男がいたこともある。ただ、そうした男たちの警戒心を解くのも造作なかった。
 案外、自分は器用で機転が利く女なのだろう。
 いくつかの辻を曲がり、花道通りを使ってゴジラビルを目指した。時刻はそろそろ二十二時になる。
 自分たちのホームのトー横広場では、ふだんより多くの少年少女が集っていた。みな路上に座り込み、わいわいと談笑している。そんな彼らを道行く人々が奇異の目で眺めていた。
 いくつかの島に分かれていたので、七瀬は女二人、男一人のもっとも小さな島に加わり、車座になった。
 彼らはレミ、モカ、ショウといい、三人とも七瀬の一つ年上の十六歳だ。もっとも彼らはまだ歌舞伎町にやってきて日が浅いため、トー横キッズとしては七瀬の方が先輩だった。
「あれ、愛莉衣ちゃんは?」
 レミから訊かれた。
 埼玉の所沢出身の彼女は学校でのいじめが原因で不登校になり、自宅に半年ほど引きこもった末、二ヶ月前に歌舞伎町にやってきた。親が娘をなんとか社会復帰させようと、あれこれ手を焼いてくるのがうっとうしかったらしい。
「さあ」と七瀬が肩をすくめる。「またホストじゃない」
「うちらもさー、もう少し大人になったらホストクラブとか行くようになるのかなあ」
 これは神奈川の川崎からやってきたモカが言った。
 彼女は幼い頃に両親が離婚し、父親に引き取られ、長らく父子家庭で育ったのだが、その父親が再婚をしたことで家を飛び出したと聞いている。継母と反りが合わなかったそうだ。歌舞伎町にやってきたのは先月のことだった。
「どうだろうねー。ちょっと行ってみたいけどねー」
「ねー。一度くらいイケメンに囲まれてみたいよねー」
 そんな他愛ない話から始まったおしゃべりだったが、ショウが「実は今日、ママがぼくのことを探しにここに来たんだ」という告白をしてから空気が変わった。
「ぼくは慌てて隠れたし、そこにいた仲間たちはみんな状況を察して、ぼくのことは見かけたことがないってママに話してくれたから、あきらめて帰ったみたいなんだけど」
 ショウが歌舞伎町にやってきたのはわずか一週間前だ。彼は都立N高等学校に通う二年生だった。その高校は「都内で五本の指に入る賢いところ」と誰かが言っていた。
 勉強に疲れ果てた、というのがショウの家出の理由だった。彼の母親は典型的な教育ママで、息子の学業の成績が少しでも下がると激しいヒステリーを起こしたという。ショウは部活に入ることも許されず、学校から帰ってきたらすぐに机に向かうことを強制させられていたらしい。休日は朝から晩まで机を離れることを許されなかったとのことだ。
「どうしてここにいることがバレちゃったんだろ」ショウが肩を落としてボヤいた。
 GPSによって位置情報が親に知られてしまうため、彼は家を出て以来、一度もスマホの電源を立ち上げていなかったそうだ。
「親の勘だよ、きっと」とレミが言い、「うちもそうだと思う。母親ってそーゆーとこ妙に鋭いから」とモカがつづいた。
「でもママは、『息子は必ずここにいるはずなの』って仲間たちに訴えてたみたいなんだよね」
「じゃあ当てずっぽうとかじゃなくて、確信してたってこと?」
「うん。だからなんでなんだろって」
「キャッシュカードじゃない?」七瀬が口を挟んだ。「ショウ、昨日近くのコンビニから金下ろしてたでしょ。たぶんそこから足がついたんだよ」
「あ」と、ショウが口を半開きにする。「それか」
 七瀬はつい鼻を鳴らしてしまった。この少年は本当に賢いのだろうか。
「どうしよ。きっとママは明日もここに来ると思う」ショウが不安そうに吐露した。
「大丈夫だよ。うちらまたみんなで口裏合わして、知りませんって言ってあげるから」
「そうそう。うちら仲間じゃん――ね、七瀬」
 七瀬は煙草に火を点けてから口を開いた。「でも、いつかはそれもバレそうな気がするけど」
「……ぼくもそんな気がする」
「もう直接会って宣言しちゃったら? これ以上ぼくに関わらないでくれって」
「そんなので引き下がらないでしょ」とレミ。
「そうだよ。だって親だもん」とモカ。
「だから親子の縁を切っちゃえばいいじゃん。ぼくは学校を辞めて、二度と家にも帰りません。これからは自分一人で生きていきますって言ってさ」
 七瀬としては至って真面目に助言したつもりだったのだが、三人は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
 言わなきゃよかった、と七瀬は後悔した。
 基本的に彼らと自分とでは心構えがちがうのだろう。それは覚悟でも決意でもなく、あきらめだ。まっとうな人生に対するあきらめ。
 言うなれば彼らはちょっと家を離れてみたかっただけ。
 七瀬は家を捨て、家族を捨て、過去を葬った。
 この三人に限らず、ここにいる少年少女たちは口を揃えて、「先のことなんてどうでもいい。今が楽しければそれでいい」と言う。
 七瀬もここに来たばかりの頃、その意見に大いに共感し、彼らを同志だと思った。
 ただ、この街で暮らして一ヶ月が経ち、二ヶ月が経った頃、彼らと自分とではその言葉に対する思いの強さが微妙にちがうことに気がついた。半年が過ぎた今では決定的にちがう――というより、まったくの別物だと思っている。
 彼らは未来をどうでもいいというわりに、その胸に漠然とした不安を抱えていた。
 七瀬にはそれがこれっぽちもなかった。だから怖いものがなかった。怖いものがないからこそ、平常心で明日を迎えられるのだ。
 それからやや時間が流れ、時刻が零時に差し掛かった頃、「てかさ、親を選べないって、結構な悲劇じゃね?」とレミがそんなことを言い出し、モカとショウが「たしかに」と前のめりで同意を示した。
「ぼくらは完全に親ガチャにハズレたよね」
「うん。神様ってとことん不公平。スタートラインくらいみーんな同じに設定しろっての」
「マジでそれな。もしもうちらが――」
 七瀬はこの手の話にも乗れなかった。過去と決別した七瀬にはあれがこうだったら、これがああだったらの“if”がないのだ。
 その後も三人のつまらない話はだらだらとつづき、七瀬は相槌を打つのもやめ、ひたすら煙草を吹かした。
 そうして時刻が深夜一時を過ぎた頃、ホストクラブ帰りであろう、愛莉衣がやってきた。
 彼女は飲めない酒を飲んでいるようで、足元がフラついていて、話す言葉も呂律が怪しかった。
「飲まされたの?」
 七瀬が訊くと、愛莉衣は「ううん」と、かぶりを振った。
 愛莉衣はまだ未成年なので、店側は酒を絶対に勧めてこないし、こっそり飲もうとするとキャストからもボーイからも注意されるらしい。
「彼がほかのテーブルに行ってるすきに、うちが勝手に飲んだ」
「どうして?」
「だって、むしゃくしゃして、ムカついたんだもん」
「誰に?」
「彼に。ほかの女と楽しそうに話してさ、うちのこと放っておいてさ、ちょっと高いシャンパンを入れてもらったからって、鼻の下伸ばしちゃってさ」
「ふうん。そうなんだ」
「で、ようやくこっちに戻ってきたと思ったら、こっそりお酒を飲んだことをガチ説教してくるし」
「へえ。いい彼じゃん」七瀬は適当に返事をした。「で、もうネカフェ行って寝なよ」
 ネットカフェが愛莉衣の寝床だ。ちなみに七瀬は少し前からネットカフェを卒業し、最近は女性専用のカプセルホテルを利用している。あの棺桶みたいな空間が妙に居心地良くて気に入ってしまったのだ。ビジネスホテルなんかよりよっぽどいい。
「やだ。お腹空いてるもん」
「じゃあどっかでご飯食べておいで。一人で」
「やだ。なあちゃんと食べる」
「悪いけどあたし、腹減ってない」
「じゃあうちに付き合って」
「無理。だるい」
「ねー。お願い」
 こんな押し問答を一分ほど繰り広げ、最後は七瀬が折れた。夕方、彼女に冷たい態度を取ってしまった負い目があったからだ。
 その場を離れ、愛莉衣と連れ立って二丁目に向かった。
 深夜に歌舞伎町を歩いていると、かの有名な“眠らない街”というワードがいつも頭に思い浮かぶ。どの店も当たり前のように営業しているのだ。
 二人で何度か訪れたことのあるホルモン焼き屋の暖簾をくぐった。この店の店員は全員がアジア系の外国人で、こちらの年齢を問わないでくれるのだ。日本人の店員がいる居酒屋に入ってしまうと、七瀬はたまに身分証の提示を求められることがある。
 互いに烏龍茶で乾杯をして、七瀬が肉を焼いた。酔いの覚めていない愛莉衣の手がおぼつかないからだ。
「その時計ってのがさー百万くらいするんだよね。だから、これから仕事量を増やしてお金を貯めないと」
 来月末、推しのホストの誕生日なのだという。プレゼントは何がいいと訊ねたら腕時計をねだられたのだそうだ。
「へえ。そうなんだ」と七瀬は適当に相槌を打ち、トングで肉を裏返す。
 人の価値観というのは本当に様々だなと思う。それはつまり、世の中には様々な人がいるということだ。
 その後、七瀬が先ほどのショウから聞いた話をすると、愛莉衣は「へえ、ママがお迎えか」と、とろんとした目を伏せ、次に「うらやましいなあ」と、ぽつりと溢した。
 愛莉衣の母親は彼女が七歳のときに自宅で首を吊り、自殺したと聞かされている。発見者は愛莉衣で、彼女はそのときの画を「忘れたくても忘れられない」と涙目で話していた。
 ちなみに父親の方は存命らしいが、獄中にいるらしい。その父親については、「人を殺しちゃったんだって。だから一生刑務所から出てこれないんだって」と、あっけらかんと話していた。父親には一度も会ったことがないので、なんの感情も湧かないのだそうだ。
「うちね、養護施設にいたって言ったでしょ。そのときにね、いつかママがお迎えに来てくれると思ってたんだ」
 愛莉衣が網上のホルモンに箸を伸ばして言った。その手首にはいくつものリスカの傷跡がある。
「死んでるのに?」
「そう。なんでかわからないけど、いつか必ずママがお迎えに来てくれるはずだって。中学生くらいまで本気で信じてたんだよ。マジウケない?」
「別にウケないけど」
「ぶっちゃけ今でもたまに思うんだけどね。街角とかで、ばったりママと会わないかなあって」
「ふうん」
「どうにかして会える方法ないかなあ」
「死んだら会えるんじゃん」
 七瀬は何気なくそう言ったあと、自嘲するように笑った。
 死後の世界などあるわけがないのに。
 人は死んだら土に還るだけ。無になるだけ。天国や地獄を畏怖するのはもっとも愚かな行為だ。そういう意味では怪しい宗教に心酔した我が母は愚かな人間だったのだろう。

 

(つづく)