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「都知事、都知事」
 第一秘書の声で悦子は我に返り、周りを見回した。みな、怪訝そうな目でこちらを見つめている。
「あ、なに? もう終わったの?」
「ええ。大丈夫ですか。もしかして気分でも優れませんか」
「ううん。そんなことない。ちょっと考えごと」
「そうですか。では、このあとは下のラウンジにてディナーとなりますので、移動の準備をお願いします」
「了解」
 と応えたものの、悦子は少し間を置いて、「やっぱりわたし、食事は遠慮しておくわ」と断った。
 第一秘書が眉を顰める。
「都知事、やはり体調がよろしくないのでは?」
「そういうことじゃないの。今日はちょっと疲れたから休みたいだけよ。だからディナーはあなたたちだけで楽しんで」
 おそらく超高級ディナーが用意されているのだろうが、もったいないとは思わなかった。イイ物などこれまで散々食べてきているのだ。
「それでは、お部屋に軽食をお持ち致しましょうか?」
 これは秘書の後方にいるホテリエが言った。
「そうね。そうしていただけると助かるわ。ということで、みなさんまた明日」
 悦子がそう告げると、全員が一礼して、部屋を出て行こうとした。
「あ、ちょっと待って」と呼び止める。「この部屋に外にSPはいるのよね?」
 振り返った秘書たちの顔は曇っていた。
「まさかいないの? 都知事が外泊するっていうのに?」
「いや、あの、もちろん明日は終日つくのですが、今夜はこういった格式高いホテルの中ですから……」
「格式なんて関係ない。今から手配してちょうだい。そして朝まで部屋の外に立たせておいて」
 悦子が鼻息荒くそう言い渡すと、「藤原都知事。ご心配には及びません」と、支配人が口を開いた。
「当ホテルの宿泊者様であっても、このペントハウスのある階には足を踏み入れられません。なぜならエレベーターが止まらないのです。つまり、この階を行き来できるのは従業員のみ。ですから、どうぞご安心を」
 悦子は胸をなで下ろし、「そう。ならいい」と、力なく告げた。
 わかっているのだ、自分でも過敏になっていることを。だが、どうしても不安が拭えない。
 やがて全員が部屋から去り、悦子はがらんとした空間に一人きりとなった。
 ソファーに腰掛け、改めて室内を見回す。あまりに広かった。メゾネットタイプなので、天井など十メートル以上も高いところにあるのだ。
 解放感というより、むしろ空虚を覚えた。そして無人島に一人取り残されたような孤独に襲われた。
 それから悦子は長い間、微動だにせず、呆けたように虚空を眺めていた。
「大丈夫よ」
 ふいに唇が動き、掠れた声が漏れた。
「ええ、絶対に大丈夫」
 今度は意識して、己に言い聞かせるようにしゃべった。 
「いい、悦子。いったい何を恐れることがあるというの。あの三人が死んだのは偶然でしかないのよ。長年の悩みの種が消え去ってくれたのだから、あなたにとって歓迎すべきことじゃないの。これでもう、あなたを脅かす存在はいなくなったのよ」
 己を鼓舞する言葉を吐き出すたびに、悦子の一人芝居に熱が帯びてくる。
「いい加減、臆病な自分とは決別なさい。起こりもしない事を想像して、不安に駆られるなんて愚か者のすることよ。ねえ、そうじゃなくて?」
 悦子はソファーから腰を上げ、部屋の中を舞うように動き回った。
「ほら、ご覧なさい。この贅を尽くした部屋、そしてこの壮観な眺めを。すべてあなたが勝ち取ったものよ。あなたはこの街の支配者、この世界の女王なの」
 両手を広げ、部屋中に声を響かせた。
 だが、その体勢のまま動きを止めた数秒後、再び不安の波が押し寄せた。それも、とてつもない大波だった。
 やっぱり、あの事件を知る者が存在するのだわ――。  
 その者が復讐をしているのだわ――。
 そして最後に、このわたしの命を狙っているのだわ――。 
 一転して、正反対の考えに囚われた。
 指先がかじかんだように震えた。その震えは瞬く間に全身に伝染し、視界までも波打つように揺らした。やがて悦子は支柱を失ったかのごとく、その場に膝をついてへたり込んだ。
 そのとき、軽やかなベルの音が鳴り響いた。おそらく軽食が持ち運ばれてきたのだろう。
 悦子は数回、深呼吸をしてから立ち上がり、ドアへ向かった。
 ドアを開けた先には、先ほどと同じホテリエの女がサービスワゴンを伴って立っていた。
「失礼いたします」
 中に通したホテリエがサービスワゴンを押して食卓へ向かう。ワゴンの上には丸い銀色のクローシュと一本の赤ワインのボトルが置かれていた。クローシュの中身はおそらくサンドウィッチなどだろうが、ワインなど頼んでいない。
「どうしてワインを?」
 悦子は食卓の椅子を引きながら訊ねた。
「よろしければいかがかなと。必要でなければお下げいたします」
「あらまあ、気が利くのね。それもわたしが一番好きなやつじゃないの」
 ワインの銘柄はシャトー・ラフィット・ロートシルト'04だった。濃密な果実味がありながら、口当たりは実に滑らかな、フランスはボルドー産の高級ワインである。
「先ほど、都知事のお付きの方からお好みを伺っておいたんです」
「なるほど。せっかくだからいただこうかしら」
「かしこまりました。わたくしが開栓してもよろしいでしょうか」
「ええ、よろしく」
 今夜は酔ってさっさと寝てしまおう。もっとも酒に頼ってしまうと、翌日の顔のむくみが心配なのだが。
 ホテリエがワインのコルクシールをナイフで切り取っている。その手つきは、まるでソムリエのように堂に入っていた。
「あなた、ここは長いの?」悦子が訊ねた。
「いえ、まだ入ったばかりです」
「それにしてはずいぶん慣れてるのね」
「研修で習いましたので――」コルクがポンと気持ちのいい音を立てて抜かれた。「では、お注ぎさせていただきます」
 とくとくと音を立てて、ワイングラスに真っ赤な液体が注がれていく。
 悦子はワイングラスを手に取り、視線の高さまで上げた。そしてためつすがめつ眺め、「美しい色。惚れ惚れしちゃう」と、そんな感想を口にした。
「ええ、とても鮮かなガーネット色をしてますね」
「あなたもワインがお好きなの?」
「いいえ、実はワインはあまり。恥ずかしい話なんですが、味や香りのちがいも今一つわからなくて」
「あら、そう」
「ええ。わたしにとって赤い液体の飲み物はトマトジュースだけなんです」
 何をつまらぬことを――悦子は一笑に付した。もっとも、小娘の分際でワインの良し悪しを語られても鼻につくだけだが。
 それにしても、あの支配人はなぜこんな新人をわたしの世話係にあてがったのか。見てくれがいいから要人のもてなしにおあつらえむきと考えたのかもしれないが、だとしたら大きな間違いである。悦子は若く美しい女がこの世で一番嫌いなのだ。
「何かございましたら、そちらにある電話で御用命ください。では、ごゆるりとお過ごしくださいませ」 
 ホテリエが一礼し、部屋から出ていった。
 再び一人になった悦子はワイングラスを片手に立ち上がり、窓辺に寄った。
 大小あるビル群が無数の光の粒を放っていた。その中でもひときわ高く聳えるスカイツリーと東京タワーが夜空を纏って雄々しく浮かび上がっている。高速道路を走る車のライトは川面をたゆたう落ち葉のように絶え間なく流れ、都市の夜に生命の脈動を描いていた。
 人生とはわからないものだなと思った。あれほど惨めな少女時代を過ごした自分が、今では天上人のようにして、この摩天楼を見下ろしているのだから。
 こうして大都会を眺めていると、はからずも遠い過去が想起された。
 悦子の少女時代は孤独との戦いだった。けっして虐められていたわけではないが、友達は一人もいなかった。おそらくは人見知りで口下手だったこと、勉強や運動ができなかったこと、なによりブスだったからだろう。
 シングルマザーであった母親はそんな娘をひどく恥じていた。人一倍プライドが高く、世間体を誰よりも重んじていた女に、隣近所に自慢できない娘を愛することは困難なようだった。「あんたを産んだのは失敗。後悔している」はっきりとそう言われたこともある。
 そんな母がこの世を去ったのは悦子が中学二年生の冬だった。そしてこの出来事こそが悦子の人生の転機となった。
 ある日、母が突然自宅で倒れ、痙攣を起こしたのだ。だが、悦子は救急車を呼ばなかった。逆に、クッションを手に取り、母の顔に押しつけ、その呼吸を奪った。そしてそのまま人形となった女と一晩を過ごした。
 どうして母の生を終わらせたのか。その理由は今もって判然としない。あの瞬間の悦子は理屈ではなく、本能で行動していたのだ。もしかしたら、母が死ねば自分の人生が変わるかもしれないと、子どもながらに考えたのだろうか。
 はたして警察は微塵も悦子を疑わなかった。目覚めたらお母さんが冷たくなって床に倒れていた、自分は部屋でぐっすり寝ていたと証言したら、そのまま信じてもらえた。周囲の者も誰一人として、悦子に疑いの目を向けなかった。
 世間というものはこうも簡単に欺けるのだということを悦子は身を以て知った。そして、自分の生きていく道はこれだと悟った――。
 グラスの中のワインを揺らし、鼻先を近づけた。相変わらず芳醇な香りだった。
 次に唇を添え、グラスを傾けた。舌に馴染ませるように液体を転がす。
 そのとき、小さな違和感を覚えた。雑味というほどでもないが、ふだんよりもやや酸味が強い気がしたのだ。
 グラスに目を落とし、首を傾げた。疲れているからだろうか。きっとそうだろう。ワインは飲む側のコンディションによって、味が変化するものだ。
 悦子は視線を夜景に戻し、再び遠い思い出に沈んだ。
 母の死後、親戚宅に身を寄せ、高校へと進学した悦子は、これまでと別人のように振る舞った。
 けっして快活になったわけではないが、自ら進んで他者へ接近するようになったのだ。
 もちろん相手の人間性は慎重に見定めた。その基準はただ一つ、その者を操れるか、否か。
 ターゲットを見誤ることは、ほとんどなかったように思う。人間の中にはその知能レベルに拘わらず、先天的に操られやすい者が存在していて、悦子はそうした弱者を見出す能力に長けていた。そしてこれこそが悦子の一番の才能であった。
 高校三年間で悦子が支配した者の数は両手に収まらない。同時に複数人もの人間を支配下に置き、意のままに操った。それは生徒だけに留まらず、教師を奴隷のように従わせたこともあった。
 社会に出てからはその行為がさらにエスカレートした。本格的に弱者を囲い、徹底的にオルグし、悦子を神のように崇めさせる。宗教法人として登記していたわけではないが、実態は怪しげな宗教団体そのものであった。
 このようにして世間を渡り歩いていた悦子に、K党の連中が接触してきたのは六年前だ。彼らは党の政治策略のために、悦子の持つ類い稀な能力を利用したがっていた。
 悦子は彼らと手を組むことを決め、そして一般社団法人PYPを立ち上げた。そして歌舞伎町に棲息し出した新人類、トー横キッズと呼ばれる少年少女に手を差し伸べるボランティア活動を始めた。K党の後押しもあり、PYPの活動は世間の注目を集め、代表である藤原悦子の名は一躍有名となった。
 そんな中、一人の少女と出会った。彼女は自分もPYPでボランティアをしたいと希望してきた。
 悦子は少女に一抹の不安を覚えた。彼女の瞳の中に得体の知れない色が潜んでいることに気がついたのだ。だがしかし、自身がトー横キッズである少女に利用価値があるだろうと考え、その申し出を受け入れてしまった。
 これが悦子が唯一の他者への見誤りであり、人生最大の過ちであった。
 少女は敵陣営から送り込まれた刺客だったのだ。結果、彼女の巧妙な罠に嵌まり、PYP及びK党は弱みを握られてしまうこととなった。
 悦子は迅速な対処を迫られた。裏でK党と繋がり、多額の援助を受けていた当時の東京都知事、池村大蔵からは少女を物理的に消すように示唆された。それは、「トー横キッズが一人いなくなろうと世間は関心を示さないと思うがね」という台詞に表れていた。
 少女に奪われた情報が明るみに出たら、彼は失脚を避けられなかったのだ。
 損得勘定の結果、悦子は動いた。敵陣営から引き抜いた矢島國彦に対し、少女を消すように命令を下した。彼は配下に置いていた浜口竜也の手を借り、少女を捕らえ、そして何処ぞの山に生き埋めにして殺害した。
 悦子の中に罪悪感は湧かなかった。むしろ少女の死を直接見届けられなかったことが残念だった。それほど少女に対し、悦子は憎しみを覚えていたのだ。
 ――今のうちに笑っておけ。いつかあんたの息の根を止めてやる。
 ふいに少女に吐かれた台詞が耳の奥で再生された。そして脳裡のスクリーンにその顔が浮かび上がった。
 悦子は少女が向けてくる、不屈の眼差しが嫌いだった。
 おそらくは彼女も暗い過去を持っていたであろう。恵まれぬ生い立ちであったことだろう。であるのにその瞳には、何事にも屈しない、何者にも平伏しない、そんな強固な意志が宿っていた。
 その少女の名は――。
 ふう、と細いため息をついたとき、ふいに焦点がぼけた。
 それで却って、地上に敷かれた無数の光が満天の星のように見え、悦子は美を感じた。
 だが、うっとりしたのも束の間、すぐに焦りの感情へと変わった。
 意識しても焦点を戻せなかったからだ。
 指で両の瞼を揉み込む。その指先に痺れを感じた。上手く動かせない。
 それは指だけではなかった。腕も、肩も、すべての四肢の感覚がうっすらと麻痺している。
 そのとき、背中に人の気配を感じた。
 悦子は目の前の窓ガラスを見た。そこに反射して映る自分の姿、その真後ろに人のシルエットが滲んでいた。
 驚きのあまり、石化されたように全身が硬直を起こした。悲鳴を上げることすら叶わなかった。
 誰――?
 何者――?
 ボヤけた視界の中でわかるのは、背後に立つ者が女であるということだけだ。
「お待たせ。藤原悦子さん」
 ふいに耳元で囁かれた。
 この声はさっきのホテリエ――?
 いや、ちがう。この声は――。

 

(つづく)