3(承前)
そこに入れ替わるようにユタカたちがやってきて、「ちょっといい?」と話しかけてきた。
めずらしい。彼らのグループは自分のことが苦手なんだろうと思っていたからだ。
「最近、あいつウザくね?」遠く離れて行く愛莉衣の背中を見つめて言う。「七瀬もぶっちゃけそう思ってるっしょ」
「いや別に」
だがユタカは七瀬の言葉を無視して、「みんなガチでウザがってんだよ」とつづける。
「たしかに金は借りたかもしれねーけど、いつまでとか決めてねーし、なのにいきなり今すぐ返せとかむちゃくちゃなこと言ってきてさ。ミリヤなんか、身体売ってでも金を作れなんて脅されてんだぜ――なあ」
水を向けられ、彼のとなりに立つ十七歳の少女が気色ばんで口を開く。
「っていうかあたし、お金を借りたつもりなんかないし。何度か一緒にご飯行ったときに、愛莉衣が勝手に支払いをしてくれてて、そのときは奢ってくれたんだと思ってたの。そうしたらあとになって『お金はあるときに返してくれればいいよ』とか言われて、こっちは、は? って感じで、けど仕方ないからその場ではわかったって答えて――」
「じゃあ借りたんじゃん」七瀬が遮る。
「でも、あるときにって愛莉衣は言ったんだよ」
「だったらそう言えば?」
「もちろん言ったよ。話ちがくないって。けど愛莉衣は――」
ミリヤがだらだらと不満を垂れる。
それこそ聞いているのがうざったくなり、「で、結局なんなの?」七瀬はユタカたちの顔を見回して訊ねた。
「まさかあたしになんとかしてくれって?」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあなに」
「あいつのこと、みんなでハブろうかって話になっててさ」
「ああ、好きにすればいいと思うよ」
七瀬はさらっと言い、煙草を踏み消してその場を離れた。
東通りを目指して歩いて行く。今夜は『きらり』に行く用事があるので、その前にコディに会ってサチへの手土産を入手しなければならない。
途中、煙草を欲し、コンビニに立ち寄った。年齢確認の画面タッチを求められ、人差し指で触れる。このシステムは大人には面倒だろうが、子どもにはありがたい。たぶん未成年が酒や煙草を堂々と買えるように設置されているのだと思う。
コンビニを出て、少し歩いたところで「おい」と後ろから肩を掴まれた。
誰かと思えば颯太だった。
手を振り払い、歩き出す。あの一件以来、こいつのことは街で会っても無視している。
「仕方ねえだろう。あの状況じゃ」
颯太が後ろをついてきた。
「おいって」今度は腕を取られた。
「クソダサかった」振り向き様に言った。「あんときのあんた」
「……」
「ま、うちらただの顔見知りだもんね」
腕を解き、七瀬は再び歩き出した。もう颯太はついてこなかった。
ちなみに颯太も、七瀬が矢島と手を組んだことを知らない。矢島自身もまた、このことは誰にも知らせず、秘密裏に動くと話していた。
街を歩いていると例のごとく何人かの男にナンパされた。シカトしてやり過ごし、東通りに入った。相変わらず肌の真っ黒な男たちがあちこちに立っている。その中からコディを探す。すぐに見つけた。
「ナナセ。キョウモカワイイデスネ。ゴキゲンイカガデスカ」
いつもの人懐っこそうな笑顔でコディは言った。七瀬は彼を見上げる形なので、いつも鼻の穴の奥の方まで見える。
「コディって毎回それだね」
「ナニガデスカ」
「言う台詞」
「ダメデスカ」
「別に」肩をすくめ、サチから預かった茶封筒を差し出す。
「はい」
コディは茶封筒を指で開いて確認したあと、金額分のコカインを寄越してくれた。
「イッパイヤッタラキケン。チョットズツ、チョットズツ、ツカッテクダサイ」
七瀬は笑った。「毎回同じことを言わなきゃいけないルールでもあるわけ」
コディも白い歯を見せて肩を揺する。
「客みんなに同じこと言ってるから癖になってんだね」
「ノー。ワタシシャベルノ、ナナセダケデス」
「どうして」
「カワイイカラ」
鼻を鳴らした。「なんだ、コディもロリコンか」
「チガイマス。ナナセ、ナディアニソックリ」
「ナディア?」
「ワタシノムスメデス。ナナセトナディア、カオソックリ。ナマエモチョットソックリ」
「へえ。コディって子どもいるんだ」
コディが頷き、両手をパーにして見せてきた。「ジュッサイデシタ」
七瀬はまずはその両手に、次にその指の隙間の向こうにある彼の顔に視線を移す。
「死んだの?」
「ユーカイサレマシタ。キットモウシンデマス」コディは淡々と言った。「ワタシノクニ、コドモデモスグコロサレマス。ニッポントハゼンゼンチガイマス」
「ふうん。日本は安全?」
「ニッポンハセカイイチアンゼンデス。コンナクニアリマセン」
七瀬はゆっくりと二回頷き、「またね」と告げ、去った。
東通りを離れ、ゴールデン街に向かった。時刻はまだ二十時を過ぎたばかりで、だいぶ早いが、店の中でトマトジュースでも飲んで待っていればいい。待ち人は零時過ぎに『きらり』にやって来ると聞かされている。
ゴールデン街の路地裏に足を踏み入れたところで首から下げているスマホが震え出した。手に取り、目を落とす。浜口だった。
応答すると、今からRanunculusに来てほしいと彼は言った。七瀬に訊きたいことがあるのだという。
「電話じゃダメですか」
移動するのがかったるい。
〈頼むよ。待ってるから〉
ため息をつき、電話を切った。
ゴールデン街を離れ、区役所通りを使って二丁目方面へ向かう。徐々にネオンの色が怪しげなものになっていき、それに比例するように人種も変化していった。すれ違う者みな夜の香ばしい匂いを振り撒いている。
目的地に到着した。めずらしく店内は混んでいて、騙す女と騙される男が三組もいた。そんな彼らとは別にカウンター席の隅に大きな背中があった。浜口が七瀬を認め、軽く手を挙げる。
「わざわざ悪いね。なんか飲む?」と浜口。
トマトジュース――と言おうとしてやめた。あれは『きらり』で飲むものだ。
「水をください」
七瀬は言い、煙草に火をつけた。カウンターの中にいるバーテンダーが灰皿をスッと滑らせてくる。
「改めてごめんね。この前は怖い目に遭わせちゃって」
「もういいですよ」
あの後、しつこいくらいに詫びられたのだ。
「でもほんとよかった、無事で。七瀬ちゃんの演技力は大したもんだ。ま、最初から七瀬ちゃんにはお灸を据えるだけのつもりだったんだろうけど」
嘘泣きして謝ったら解放された――このように浜口には伝えていた。一方、この男はすでに矢島へ慰謝料を払い始めているらしい。後日、分割を申し出たら利子をつけられたものの、矢島は受け入れてくれたそうだ。
何はともれ、七瀬の目にはそれをありがたそうに話す浜口は哀れを催すほど小物に映った。
「で、なんですか。あたしに訊きたいことって」
七瀬は水で唇を湿らせて訊ねた。
「最近、店にカモを連れてきてくれないじゃない。どうしたのかなって」
矢島は後方の客たちをチラッと見て言った。
「とくに理由はないですけど」
「忙しいの?」
「まあ」
「七瀬ちゃんがPYPで働き始めたって噂があるけど、本当?」
横目で浜口を見る。
「誰から聞いたんですか」
「うちの店の女の子。七瀬ちゃんがトー横広場でピンクのヤッケを着てたのを見かけたって」
「ああ」
「どういう風の吹き回し? まさかバイト代欲しさじゃないでしょう」
「お金もらってないですもん」
「じゃあ何よ」
「ただのお手伝い」
「ウソでしょう。ありえないじゃん」
七瀬は肩を揺すった。「ほんとですよ。暇なんでやろうかなって」
「トー横キッズがトー横キッズのために?」
その言い回しがおかしくて再び笑った。
浜口は自分と矢島が繋がったことを知ったらどう思うだろうか。茶々を入れてくることはないだろうが、きっと快くは思わない。それに自分が約束を破ったことを矢島に知られてしまったら面倒になりそうだ。
「それで、もううちでは働いてくれないのかな」
「やりますよ。お金がなくなったら」
「ああ、そうなの。ならよかった。それだけ聞けたら安心だ――おかわり」浜口がバーテンダーに向けて空のグラスを持ち上げてみせる。「グラスはこのままでいい」
バーテンダーはグラスに氷を足し、ジガーカップを使ってウイスキーを垂らす。銘柄は白州だ。ちなみにカモがこれを頼むと一杯一万二千円もする。
「訊きたいことって、まさかこれだけですか」
「うん。そうだけど」
舌打ちが出そうになった。
「七瀬ちゃんって、ほんと不思議な子だよなあ」
浜口が酒を舐め、しみじみと漏らした。
「おれもこの街でいろんな女の子見てきたけど、七瀬ちゃんみたいな子は――」
適当に話に相槌を打ちつつ、七瀬は思考を巡らせた。
浜口が自分をここに呼びつけた理由だ。なぜその必要があったのか。電話で事足りただろう。この男もまた、無駄を嫌うタイプなのはこれまでの付き合いでわかっているからなおさら引っ掛かった。
大前提として、彼にとって自分は大勢いるうちの一人に過ぎない。なのに浜口は妙に自分にこだわるところがある。ほかの女たちと扱いが異なる気がするのだ。
あれは二週間ほど前だったか、仕事終わりに浜口から食事に誘われた。彼がこの店の女たちと一線を引いていることは知っていたので、意外に思ったのだが、断る理由が見つからず、食事に行くことにした。
そこで様々な質問を受けた。それらにありのまま答えると、浜口は「うん。まさにうってつけだ」と満足そうに言った。
あのときはガールキャッチの人員として、という意味で捉えていたのだが――。
「七瀬ちゃん、なんかちがうこと考えてるでしょう」浜口が顔を覗き込んできた。
「このあと用事があって、そろそろ出ないとなって」
七瀬は言い、煙草を灰皿に押しつけた。
「あ、そうなんだ。ごめん、ごめん。いいよ、そうしたら」
七瀬は席を立ち、出入り口に向かった。