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「ちょっとユタカ、いくらなんでもあっち見過ぎ」
 ヒナノが不貞腐れて言った。裕隆は愛のテーブルが気になってチラチラと視線を送っていたのだ。
「わるい、わるい。あいつらがご新規さんに粗相してないか気になっちゃってさ」
 愛のテーブルについたホストたちはふだんにも増して張り切っていた。とびっきりの美女を前にして興奮しているのではなく、無理してでもテンションを上げないと目の前の女に太刀打ちできないのだろう。
「今わたしの時間だって、わかってる? この瞬間も料金発生してるんだけど」
「ああ、もちろんわかってるよ」
 愛は口元に手を添えて、控え目に笑みを溢している。だが、その微笑が余裕にも見てとれた。
 もしかしたら愛は初回荒らしなのかもしれない。どこのホストクラブも大抵、最初の一回は格安料金で遊べるシステムになっており、それだけを目当てにさまざまなホストクラブを渡り歩く女たちがいるのだ。彼女たちはけっしてリピートをしない。こういう女たちのことを初回荒らしと言う。
「わたし、帰る」
 ヒナノがスッと立ち上がった。
「なんだよ、急に」
「ユタカ、ご新規さんのところに早く行きたいんでしょ」
「誰がそんなこと言ったよ」
「言ってなくても、顔に書いてあるもん。目もハートの形になってるし」
「意味わかんねえこと――」
「たしかにあの子、美人で可愛いもんね。ま、どうせ整形しまくりのサイボーグだと思うけど」
 そんな捨て台詞を残して、ヒナノは去って行った。見送るために背中について行ったら、「来ないで。キモい」とキレられた。ふだんならキレ返すところだが、「あっそ」と告げて別れた。
 こうして裕隆は自動的にレミの接客をすることになり、だが、その間もずっと心ここに在らずだった。どうしても愛が気になって仕方ない。
 今現在、愛の接客には蓮がついている。二人は楽しそうに話し込んでいるようだった。愛は白い歯を見せて、手を叩いていた。
 蓮なんかに唆されるなよ――胸の内で願った。新規は全部自分が取り込みたい。とくに愛のことは自分の虜にしてしまいたい。
 レミのくだらない話に相槌を打つこと三十分、ようやく裕隆のもとにスタッフが声掛けにやってきた。
 いよいよ裕隆の出番が回ってきたのだ。レミの相手は別のホストに任せて、スタッフと共に愛のテーブルに向かった。
 足を進めるたびに胸が高鳴り、気持ちが昂揚していく。なるほど、近づけば近づくほど、愛の美しさが一層際立って見えた。
 まずは目の前で赤いカーペットの上に片膝をつき、身を低くして、「お初にお目にかかります。ユタカと申します。以後お見知り置きを」と、丁寧かつ堂々と名刺を差し出した。
 だが、愛は名刺を受け取らなかった。そればかりか、「チェンジで」とスタッフにすげなく告げた。
 意味がわからず、裕隆はきょとんとしてしまった。
「悪いけど、顔がタイプじゃない。だからチェンジ」
 裕隆はまだ身動きを取れずにいる。
 やがて、ふつふつと怒りが込み上げてきた。また、拳も震え始めた。
 こんな屈辱、ホストになって以来、一度たりとて経験がない。
「またまた、ご冗談を」
 裕隆は迫り上がる憤怒を抑えつけ、なんとか笑顔をこしらえた。
「これが冗談を言っている顔に見える?」
 愛が前のめりになって、裕隆の顔を覗き込んできた。至近距離でジッと見つめ合う。彼女の黒々とした瞳は、か弱い小動物のような、それでいてどこか勝ち気で、強靭さをも感じさせた。
 次の瞬間、裕隆の中で奇妙な既視感が湧き上がった。
 この瞳、どこかで見たことがあるような――。
 やがて、愛はフッと口元を緩め、「やっぱりね」と謎の一言を溢した。
「何がやっぱり?」
「わたしね、相手の目を見れば、その人がどういう人かなんとなくわかっちゃうんだ」
「じゃあ、おれはどういう人?」
「小心者。根暗」
「……」
「そういう自分を必死に隠して、一生懸命大きく見せようとしてる、ちょっとイタい男の子、ってところかな」
 カチカチと歯が鳴る。怒りに打ち震えた裕隆の歯がぶつかり合っているのだ。
「だから、ごめんね、ぼく。チェンジ」
 裕隆の視界がグニャリと歪んだ。
「おまえ。どうせ初回荒らしだろ」立ち上がって言った。「たいして金も持ってねえくせに偉そうにしてんじゃねえよ」
「ユタカさん。マズいです」スタッフが慌てて耳元で囁いてきた。「ここは我慢してください」
 裕隆はそのスタッフを手で押し退け、「おまえごときにおれはもったいねえ。こっちから願い下げだ」と、なおも凄んだ。
「そう。それなら都合がいいじゃない。バイバイ」
 愛は顔に余裕の笑みを張りつけたまま、胸の前で手の平を振った。
 裕隆は歯軋りをして身を翻し、大股でレミのいるテーブルに戻った。愛に背を向ける形で、ソファーに乱暴に座る。
「あれ、どうしたの?」とレミ。
「っせーなブス。おまえ、溜まってるカケ、今日払ってくれるんだろうな。飛んだら容赦しねえからな」
「いきなりなに? どうしちゃったのユタカ」
「っせーって言ってんだろ。話しかけるなアバズレが」
 怒りに任せて暴言を連発した。いくらオラオラキャラでやっているとはいえ、こんなひどい言葉を客に浴びせたことはない。
 裕隆は激しい暴力衝動に駆られていた。人の目がなかったら、きっとレミをぶん殴っていたことだろう。
「愛お嬢様から初めてのご指名が入りましたーっ」
 スタッフが叫び、裕隆はバッと背後を振り返った。
 どうせ蓮かと思いきや、指名をもらったホストはまさかの真凰だった。
 真凰自身、なぜ自分に声が掛かったのか不思議でならないのだろう、彼は緊張と困惑の面持ちで、愛のテーブルにてくてくと向かっている。
 その姿を見つめる裕隆の口はだらしなく開いていた。
 信じられない光景を前に、唖然とするほかなかった。



 また睡眠薬に手を出す日が訪れようとは思わなかった。
 もっとも、オーバードーズが目的だった昔とはちがい、純粋に脳と体の休息を求めて服用しているのだが。 
 ここ最近、裕隆は深い眠りに浸ることができていなかった。意識の縁で常にあの女のことを考えているからだ。だから目覚めの気分はいつだって最悪だ。
「ユタカくん、目の下にクマができてるよ」
『Dream Drop』のオーナーから指摘され、裕隆はぎこちなく笑った。
 オーナーの名前は浜口竜也と言う。彼を前にすると、裕隆はいつも体が強張ってしまう。
 浜口は恵比寿天のような柔和な顔と体形をしていて、言葉遣いも穏やかなのだが、その昔は名の通った半グレだったという。そんな中途半端な不良をしていた男が、今では歌舞伎町でホストクラブやキャバクラ、飲食店を多数手掛ける成功者になっているのだから、この街は実力次第でいくらでも成り上がれるのだろう。
 何はともあれ、そんな浜口から昼過ぎに電話があり、〈営業前にちょっとご飯でもどうかな〉と、急に呼び出しが掛かった。浜口と二人きりで食事をするのは初めてのことだ。
「眠れないほどの悩みごとでもあるのかい?」
 浜口がトングで網の上の肉を裏返しながら言った。
 電話で何が食べたいと訊かれたので、なんとなく焼肉と答えてしまったのだ。本当は胃に脂を入れたくないのだが。
「いえ、そんなのはまったく」
「そう――さ、どうぞ」
 浜口が裕隆の小皿の上に肉を置く。裕隆は「いただきます」と断ってから口に運んだ。上質な脂が舌の上に溢れ、口いっぱいに広がった。美味いのだが、やはり今はキツい。
「最近、がんばってるみたいじゃない。店長がすごく褒めてたよ。ユタカくんと真凰くんは『Dream Drop』の未来だって」
 舌打ちが出てしまいそうになった。
 ここ最近の真凰はやたら調子づいていた。なぜなら彼の売上が右肩上がり、いや、爆上がりしているからだ。
 愛が新規客としてこの店を訪れたのは今から半月ほど前だろうか。以来、あの女は頻繁に店にやってきては真凰を指名し、彼に金を使っていた。それも湯水のごとくジャブジャブと――。
 一体全体、真凰のどこを気に入ったのか知らないが、何はともあれ、あのクソガキは絶対に許さない。
 昨日の営業ミーティング中、真凰はずっと裕隆に薄ら笑いを向けていた。真凰の売上は、今にも裕隆を追い越さんとしているのだ。
「真凰は太客が一人いるだけですから」
 ついそんな言葉が口をついて出た。
「あ、そうなの」
「そうですよ。だからその客が消えたら真凰は終わりですよ」
「ふうん。それにしてもそのお客さん、何者よ。どこかのマダム?」
「いいえ、若い女です」
「へえ。じゃあきっとどこぞの令嬢か金持ちの愛人だろうね」
 おそらくそうだろう。そうじゃなければ若い女がホストクラブであれほどの豪遊はできないはずだ。
「まあ、どんな客であれ、ありがたいことだ」
 あんたからすりゃそうだろう。裕隆にとっては殺してやりたいほど、愛が憎い。
「ほんと、世知辛い世の中だよなあ。このままじゃホスト業界はどんどん衰退していくよ」 
 浜口が肉を網の上に載せながら吐露した。そのボヤキは狭い個室に切実に響いた。
 ここ数年、ホスト業界に対する世間と行政の風当たりが強かった。彼らの言葉を借りれば、いたいけな少女たちが安易に売春に走り、身を滅ぼしてしまうのはホストクラブのせいだというのである。とりわけ新宿区は、日本一の歓楽街の歌舞伎町があるだけに、行政の指導はめっぽう厳しかった。聞いた話によれば、売掛のシステムを規制しろだなんてことまで要求してきているらしい。
 これらのことを裕隆が語ると、「まったく、ひどい話だよね」と、浜口は肩をすくめた。
「先月ね、この件でホストクラブのオーナーたちが厚生労働省に呼び出されて、話し合いが行われたのよ。そこでお役人さん方が我々に向かってこう言うわけ。『ホストクラブにハマって身を滅ぼしている女性がいるのは事実でしょう。単純にかわいそうじゃありませんか。みなさんはそうは思いませんか』って。だからおれは返す刀でこう言ってやったね。『キャバ嬢にハマって散財した結果、破産したおっさんたちはかわいそうじゃないんですか。彼らと彼女らで、いったい何がちがうのでしょうか』ってさ。そうしたら役人たちはみーんな黙ったね」
「それこそ男女平等の概念はどこ行ったって話ですよね」
「まさしく。だいたい、おれに言わせればホストクラブの文化を作ったのは、この国だろうって話なのよ。長らく男尊女卑でやってきて、女性を虐げてきた結果だろうって。要するにそうした文化の反動としてホストクラブは誕生して繁栄したわけ。ちなみに、ユタカくんはホストクラブがこれまで日本にしかなかったことを知ってる?」
「え、そうなんですか」
「そうなんだよ。海外だと、メンズのストリップクラブみたいなもんは結構あるんだけど、日本のように男性が女性をもてなして、サービス代を頂戴する商売はなかったんだよね」
「へえ。勉強になります」
「ところが近年、アメリカや韓国、上海やマニラなんかにも日本のホストクラブと似たようなクラブが出来始めてるわけ。この事実をきみはどう捉える?」
「ええと――」裕隆は頭を掻いた。「世界的に満たされない女性が増えてるってことですかね」
「うん。きっとそれだろうね。これはおれの持論なんだけど、男女平等を叫べば叫ぶほど、逆に女性が生きづらい世の中になっていくと思うんだよね。ま、この辺りは男女平等に限らずだけど。SOGIESC理解増進法なんて、あんなもん作ったばかりにどんどんおかしな世の中になってるだろう」
 SOGIESC理解増進法――レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなど、セクシャルマイノリティの人たちが生きやすい社会を作るために定めれた法律だった。ただ、新宿二丁目の住人たちはちっともありがたがっていないようだ。
 ちなみにこの法案を声高に叫び、強く推し進めていたのは現在の東京都知事の藤原悦子である。
 その藤原悦子と、裕隆は小さな接点があった。彼女がPYPの代表を務めていた頃、裕隆はトー横キッズとして、食事などの面で恩恵に与っていたからだ。
 ただし、今は憎き相手である。藤原悦子こそがホストクラブは悪であると訴えている張本人なのだ。
 裕隆がその話をすると、「たしかに藤原は邪魔な存在だな」と浜口は鼻にシワを寄せた。
「ただ、あの女と真っ向から揉めると危険だからなあ。ユタカくん、言っとくがあの女はえげつないぞ」
「はあ。オーナーは藤原都知事とお知り合いなんですか」
「知り合いというか、なんというか。まあ、過去にある一件で関わりを持ったことがあってね。それこそトー横キッズ――まあ、この話はよそう」
 よくわからない話に裕隆はあいまいに相槌を打った。そもそも、こんな世間話をするために浜口は自分を呼び出したのだろうか。
 それからしばらく、裕隆はひたすら肉を食いつづけた。浜口が焼いてくれた肉を食べないわけにはいかない。その間も、浜口はどうでもいい世間話を延々としていた。

 

(つづく)