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後編5 2024年9月2日


 残暑というにはまだ早く、夏は未だ盛りのさなかにあった。道行く人々は、うちわや扇子でせめてもの涼を取りながら、ネオンが点々と灯り始めた歌舞伎町を行き交っていた。
 二丁目の路地裏にあるラーメン屋『たぬまる』の店主、平岡颯太は客のいないカウンター席に座り、隅に置かれた小さなテレビをぼんやり眺めていた。
 今週の日曜日に歌舞伎町で納涼祭が開催されるので、ニュースでその特集が組まれているのだ。当日は飲食店をはじめ、キャバクラ、ホスト、風俗といった水商売の店もここぞとばかりに商魂を発揮するため、歌舞伎町はいつも以上の賑わいを見せる。
 この行事は毎年八月下旬に行われていたのだが、去年、一昨年と立てつづけに熱中症で倒れる者が出たことから、今年は例年より日程を後ろに倒した――というのは建前で、本当の理由はまったくちがうことを歌舞伎町の住人たちはよく知っていた。
 本当の理由、それはここ数ヶ月、街がひどく物騒だったからだ。具体的には、地回りのヤクザと関西から進出してきた団体が抗争中だったのである。これに一般客が巻き込まれる危険があるということで、行政から商店街振興組合へ指導が入ったというのが実情であった。
 ただ、その心配はすでになくなった。
 春先から長らく覇権争いを繰り広げていた内藤組と誠心会の抗争に終止符が打たれたのは先月の中頃のことだった。負け戦と睨んだのであろう内藤組組長・矢島國彦の失踪に加え、東京都知事である藤原悦子の指揮のもと、警察による大規模な浄化作戦が行われたことで、残りのヤクザも一掃され、歌舞伎町は安寧の日々を取り戻したのである。
 もっとも、これも表向きだけかもしれない。いくら駆除しようとも街からネズミが去らないように、ヤクザもまた完全には排除できないものだ。
 颯太が大口を開けて欠伸をしたとき、背中の方でドアがガラガラと音を立てた。暖簾をくぐってきた客は顔見知りの女だった。
「お、愛ちゃん。いらっしゃい」颯太がサッと立ち上がる。
「相変わらずこの時間帯はお客さんがいないのね」
 愛が相好を崩して中に入ってきた。そしていつもの角の席に座り、「ビールちょうだい」と慣れた口調で注文をした。
 彼女はすでに店の一番の常連客だった。春に初めてやってきて、それから週に二、三回は必ず顔を出してくれている。
 颯太は冷蔵庫から冷えた瓶ビールを取り出し、蓋を外して、彼女の持つグラスに中身を注いでやった。
「颯太も飲めば?」
「じゃあ一杯もらおっかな」
 颯太は空いているグラスに手を伸ばし、手酌で注いだ。こちらは「愛ちゃん」なのに、あっちは呼び捨てにしてくる。年下のくせに生意気この上ないが、どういうわけか不快ではない。
「乾杯」
 グラスをこつんとぶつけ、互いに口をつけた。
「うんまい。最高」愛が目を細めて言った。
「おもてはまだまだ暑いもんな。ラーメンはいつものでいい?」
「うん」
「餃子は?」
「どうしよ。今日はいいかな」
「オーケー」
「あ、やっぱもらう」
「優柔不断だねえ」
「微妙なお腹の空き具合なの。あるでしょ、そういうこと」
「まあな」 
 餃子を焼く鉄板に火を点けた。同時にラーメン作りも始める。  
「ねえ、この店では納涼祭の日に何か特別なことやるの?」
「もちろん」
 納涼祭の日は毎年、臨時のアルバイトを売り子として雇い、パックに詰めた炒飯や餃子を店先で販売している。これが飛ぶように売れるので、颯太にとって納涼祭はある意味ボーナス日なのであった。
「ふうん。その売り子はもう決まってるの?」
「まだ」
「のんびりしてるのね。もう一週間切ってるっていうのに」
「街中にいる若い連中に声を掛ければすぐに捉まるさ。それこそトー横界隈を彷徨うろついてるキッズたちとかさ」
 颯太が手を動かしながら応えると、ビールをくいっと飲み干した愛が、「あたし、やろうか。売り子」と言った。
「冗談だろ」颯太は肩を揺すって笑った。
「ううん。ほんとにやってもいいよ」
「言っとくけど、日給一万円しか出せないぜ」
「お金はいいよ。颯太にはいつもお世話になってるし」
「お世話って。愛ちゃんはお客さんじゃんか。それに、自分の仕事はどうするんだよ。その日は絶対に店からも出勤を求められるぜ」
「あ、言ってなかったっけ? あたし、ちょっと前に夜やめたんだよね」
「え、そうなの? じゃあ今は何してんの? ニート?」
「失礼ね。ちゃんと働いてるわよ」
「へえ。どこで?」
「すぐそこの――」
 そんなやりとりを交わしていたところに新たな客がやってきた。白髪頭の男性客だったが颯太はその顔を見てギョッとし、菜箸を持つ手を止めた。
「おー小坊主、久しぶりだなあ。繁盛しとるか」
 新宿署の刑事の小松崎が乱杭歯を覗かせ、大声で言った。
「見ての通りですよ。それといい加減、小坊主はやめてください」
 小松崎はガハハと品なく笑い、愛のとなりの椅子に腰掛けた。ふつう離れて座るだろうと思ったが、注意するのも変なのでやめておいた。
「さあ、ご自慢のラーメンを作ってくれ。おれが忖度ない批評してやる」
「前にも一度、食べたことあるでしょう」
 何年か前、それこそ颯太がここを引き継いで間もなく、小松崎はふらっと店にやってきてきたのだ。その帰り際、「第二の人生、がんばれよ。負けんじゃねえぞ」と背中を痛いくらいに叩かれた覚えがある。
「にしても、よくまあ矢島が許したもんだよな。いくら子分が足を洗ってカタギになったからって、ふつうは歌舞伎町に置いとかねえもんだけどなあ」
 小松崎が唐突にそんなことを口にし、颯太はチラッと愛を一瞥した。
「昔の話は勘弁してください」
「独り言だよ」
「声デカすぎっスよ」
 自分が街を追い出されずに済んだ理由を颯太も聞かされていない。一度、小松崎同様、矢島も店に顔を出したことがあり、颯太は凍りついたのだが、その際に彼は一言もしゃべらず、注文したラーメンに二、三口つけて帰っていった。ほとんど中身が残された器の横には茶封筒が添えられていた。中には百万円もの札束が入っていた。
 これはきっと祝金ではなく、口止め料だろう――颯太はそう判断した。
 ちなみにその金は今も手をつけずに自宅アパートに眠らせてある。いつの日か、七瀬と再会したときに、彼女に手渡すためだ。
「おそらくは盃をかわしてない小僧だったから、放っておいてくれたんだろうな。もしくはその落とした小指に免じて――」
「小松崎さん、本当に頼みます。ほかのお客さんもいるんで」
「いいじゃねえか。それこそ昔の話なんだからよ」
「迷惑になるでしょう」
「お嬢さん、おれがしゃべってたら迷惑かい?」
 小松崎が愛に身体を開いて訊ねた。
「いいえ。どうぞわたしにお構いなく」愛がにこやかな笑顔で答える。
「ほれ見ろ。しっかりお許しをいただいたぞ」
「それでも、おれは昔話に花を咲かせる気はないんで」
「じゃあ今の話をしよう。まさかあの矢島が抗争の真っ只中にケツをまくってトンズラこくとはなあ。おまえ、奴の元子分としてこれをどう見てる?」
 颯太は舌打ちをした。
「どうもこうもないっスよ。何とも思わないです」
「おれは信じられねえんだよ。というより、まったく信じてねえんだ。あの男が組と歌舞伎町を捨てるはずがねえ」
 颯太はそれに反応せず、出来上がったラーメンと餃子をまずは愛に差し出した。愛が割り箸をパチンと割る。
「となると、矢島はいったいどこへ消えちまったのか。誠心会の連中に消されたのか? いいや、ちがう。宇佐美をはじめ幹部連中を締め上げてみたが、奴らはいっさい知らないと言っていた。これは長年この仕事をしてきたロートルの勘だが、おそらく嘘じゃねえ。つまり奴らの仕業じゃねえんだ――あ、お嬢さん、おれはこう見えて刑事なのよ」
「あら、そうだったんですね」愛が箸を止めて応えた。
「ああ。といっても来年には定年を迎えるんだがな」
「それはそれは、ご苦労様でした」
 小松崎は満足そうに頷き、再び颯太の方を見る。
「ここだけの話なんだけどな、実はここ数ヶ月、この街で矢島以外にも不可解な失踪を遂げてる奴らが出てるんだ――おい、ちゃんと聞いてるのか、小坊主。おまえに話してるんだぞ」
 颯太はうんざりとした態度で、「ここは歌舞伎町っスよ。何もめずらしいことじゃないでしょう」と応じた。
「いいや、そこいらの失踪とはちょっと筋がちがうんだな。どいつも身辺整理を一つもせず、それも飛ぶ理由なくして、消えちまってんだ。まるで神隠しにあったかのようにな」
「そうですか。でも、自分には関係ないんで」
「おまえが関係してるなんて一言も言ってねえだろう。でだ、その謎の失踪をした奴らには一つ、共通点があることがわかったんだ」
 颯太は大きく息を吸い込んだ。
「女だ。失踪した連中のそばには必ず同じ女の影が――」
「小松崎さんっ」大声を張り上げた。「おれマジで興味ないっスから。いい加減、やめてください」
 小松崎が鼻から息を吐き、肩をすくめる。
「そうか。悪かった。ところでラーメンはまだか」
「今作ってるでしょうが」
 颯太は乱暴に湯切りをして、麺を器に落とした。
「ちぇ。機嫌を損ねちまったよ」と小松崎が頭の後ろで指を組んだ。「そんな怒らなくたっていいのに――なあ」
 水を向けられた愛が愛想笑いを浮かべて会釈する。
「お嬢ちゃんはどう思う?」
「何がですか」
「だから数々の奇妙な失踪事件、その女が関与してると思わないか」
「さあ、どうでしょう」
「おれは何かしら関係があると睨んでんだ――って、そんな話をされても困っちまうか」
「ええ。素人なもので」
「だよな。けど、もしその女の仕業だとしたら、目的は何だと思う?」
「さあ」
 愛の反応が薄いのが気に入らないのか、小松崎が鼻息を漏らし、コップに手を伸ばした。
 だが、「ちなみにおれは金じゃない気がしてんだ。これは利害目的の犯行じゃねえと思う」と、なおも話をつづけた。
「それも刑事の勘ってやつですか」
「ああ。そうだ」
「へえ、でも、だとしたら何なんでしょうね」
「個人的な復讐。おれはどうもそんな気がして――」
「おい小松崎っ」颯太は怒声を店中に響かせた。「いい加減にしろよ。うちの客に迷惑掛けるんじゃねえ」
「仲良く話してるだけじゃねえか」
「何が仲良くだこの野郎。愛ちゃんの箸がずっと止まってるだろう」
「この野郎だと。きさま、誰に向かってナメた口を利いてやがるんだ」
「お二人とも、喧嘩はよしましょ」
 愛が場を取りなすように笑顔で言った。
 颯太と小松崎は互いに鼻息を漏らし、矛を収めた。
 だが、今度は愛の方から、「刑事さん」と小松崎に声を掛け、「もしもその女の人の仕業なんだとしたら――」と話を再開させた。
 なんだよ、と颯太は鼻白んだ。せっかく助け船を出してやったのに、これでは本当におれが要らぬ気遣いをしたみたいじゃないか。
「わたしは復讐とはちょっとちがう気がするなあ」
「ほう。だとしたらなんだ」
「駆除」
 小松崎が首を傾げる。
「つまり、街を掃除してるんじゃないのかなって。悪者を一掃する、みたいな」
「なぜその女がそんなことをする」
 再び小松崎が訊ねると、愛は薄目で虚空を見つめ、乾いた口調でこう言った。
「たぶん、愛してるから。この街を」
 数秒ほど沈黙が流れた。
「要するに、これらの失踪事件は、その女の歌舞伎町浄化作戦、ってことか」
「そうそう。そんな感じ――ごちそうさま」
 愛が急に立ち上がった。
 颯太はカウンターから首を伸ばして愛の器に目をやった。まだかなり麺が残っていた。餃子も一つしか食べていない。
「ごめんな。食欲失せちゃったよな」
「ううん。ふつうにお腹いっぱいになっちゃったの。また来るね」
「あ、うん。また来て」
 愛が出入り口へ向かった。
 その背中を小松崎はじっと見送っている。
 愛が出て行ったあと、「絶対にあんたのせいだぞ」と、颯太は小松崎に向けて顎をしゃくった。
 どうせ悪びれもしないだろうと思ったが、小松崎は意外なことに、「ああ、そうだろうな。さっきはすまなかった。許してくれ」と素直に詫びてきた。 
 颯太が不思議な気分でいると、「愛ちゃんって言ったか。彼女、とびっきりの上玉だな。もしかして、おまえのこれか」と小指を立てて見せてきた。
「なわけないでしょう」
「でも、あの感じだと、親しいんだろ?」
「まあ、それなりに」
「素性は?」
「知らないっスよ。親しいって言っても、あくまで店と客の間柄なんで」
「常連なのか?」
「そうですね。よく来てくれます」
「昔からか」
「いえ、今年の春くらいからっスかね。なんスか、彼女のことばかり」
「そりゃあ、いい女だからだ」
 颯太は鼻を鳴らした。
「老いぼれの刑事なんか相手にされないっスよ」
「言ってくれるじゃねえか」
「さっきの仕返しです――さ、どうぞ」
 完成したラーメンを差し出した。
 小松崎が割り箸を指に挟んで合掌する。そしてそこからは打って変わり、黙々と麺を啜りつづけた。
 彼はものの数分でスープまで飲み干してラーメンを平らげ、コップの水を一気に呷った。 
 そして、そのコップをドンと卓に置き、「ごちそうさま」と礼を口にした。
「おまえ、腕を上げたな。素直に美味かったよ」
「そいつはどうも」
「正直、何年か前に食ったときはひどかったもんな」
「あのときも美味いって言ってくれたような気がするけど」
「お世辞だよ。人の門出に水を差すもんじゃないだろう」
 小松崎がカウンターにお代を置いて立ち上がった。 
「また来る」
「次も営業妨害をするつもりなら出禁にしますから。これ、マジっスよ」
「ああ、わかった。肝に銘じとく」
 小松崎は殊勝な言葉を残して店を出ていった。
 颯太はカウンターに置かれた器を流しに持っていき、スポンジを泡立てて洗い物を始めた。食洗機があったらなと常々思っているが、それを置くスペースがないので、考えるだけ無駄だった。
 小松崎の顔を見たからか、颯太は手を動かしながら昔のことを思い返していた。
 少年時代、地元でやんちゃを繰り返し、十八歳でこの大歓楽街にやってきた。それからは内藤組の行儀見習いとして、兄貴衆たちにドヤされながら、目まぐるしい毎日を過ごしていた。そんな中、一人の少女に恋をした。
 七瀬――。
 ふと手を止め、欠けた小指に目を落とした。

 

(つづく)