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途絶えることのない雨音は、薄暗い街の隅々にまではびこり、まとわりつくような湿気と共に人々の不快指数をひたすら高めている。
ここ数日、ずっと雨だった。けっして雨脚が強まることはないが、かといって弱まる兆しもない。
宇佐美と横浜で会食をした日から今日でちょうど一週間が経った。
竜也はあの日の翌日から、歌舞伎町で水商売を営む知人オーナーたちと密会しては、ケツ持ちを乗り換えるよう、彼らに懇切丁寧に説得して回っていた。その甲斐あって、一人、また一人と、内藤組側から誠心会側へ、その立ち位置を変えていた。
これによって宇佐美はすこぶる上機嫌、一方、矢島は不機嫌だった。それも甚だしいまでに。
矢島とは数日前、別件で顔を合わせていた。そのときの彼はふだんの冷静さは影を潜め、怒り狂っていた。自分たちを切ったオーナー連中に対して、「そのうちケジメを取らせてやる」と目を剥いて息巻いていた。
ちなみに別件というのは、先月に消息を絶ったユタカの件である。これを依頼してきた愛には、誠心会との橋渡し役を務めてくれたという意味で、小さな恩がある。だとしたらそれに報いなくてはならない――というのは建前で、実際は竜也自身がユタカの失踪の真相を知りたいというのが本音だった。仮に彼が犯罪被害にあったとして、もしもそれが内藤組の仕業なのだとしたら、今の自分にとってこの上なく都合がいいことに思いが至ったのだ。
これによって矢島が塀の中にブチ込まれるようなことがあれば、それは望むべくもない。あの男さえシャバから消えてくれれば、我が身の安全は担保されるのだから。
だが結局、矢島からは何一つ情報を引き出せなかった。彼はユタカというホストの存在さえ認識していなかった。
ただし、別のところから一つ、耳寄りな情報を入手した。ユタカが初めて職場を無断欠勤した日の前夜、彼がゴールデン街に入っていくのを見たという者がいたのだ。それはユタカ担当の客の和美という女だった。
「何やらその和美って女、ユタカと口論をして『Dream Drop』を飛び出したあと、おもてでずっと張って、彼を待ってたんだとよ。で、深夜になって退勤してきたユタカに声を掛けようとしたところ、彼が誰かと電話をしながら歩き出したから、そのあとをつけて行ったんだってさ。そうしたら彼はゴールデン街に入って――」
竜也はフルーツパフェを頬張りながら、対面にいる愛に報告をした。場所は洋食喫茶『パリジェンヌ』だ。またここに通えるようになって本当によかった。
「どの店に入ったかまでわかってるの?」
愛が真剣な眼差しで訊いてきた。彼女は注文したコーヒーを一口も飲まずに竜也の話に耳を傾けている。
「いや、それがわからないらしい。というのも途中で姿を見失っちまったんだと。ほら、ゴールデン街は迷路みたいに入り組んでるだろう。和美は一軒、一軒店を覗いてユタカを探し回ったらしいが、一向に発見できなかったから、しばらくして帰ったそうだ」
「そう」と、愛は吐息を漏らし、ここでようやくコーヒーを一口啜った。「今の話はその女、本人から?」
「いや、うちの従業員で『Dream Drop』の店長をやらせてる中西って男からだ。愛ちゃんも知ってるだろう」
「ああ、あの髪の薄いおじさんね」
「あれでも、一昔前は歌舞伎町で名の知れた人気ホストだったんだぞ」
「へえ。そうなんだ」
「で、その中西が和美から相談を受けたんだよ。どうやら彼女もまた、ユタカのことを必死に探し回ってるそうだ」
「なるほどね。よくわかったわ」
「あ、中西から和美の連絡先を聞いたから、愛ちゃんに教えるよ」
そう告げると、愛はあっさりと「遠慮しておくわ」と断ってきた。
「どうして? 同じ目的を持つ者同士、情報交換をすればいいだろう」
「和美からすればわたしは敵だろうし、それはわたしだって同じ。同担拒否ってやつ」
「そんなこと言ってる場合か? 有益な情報を取りこぼすことになるかもしれんぞ」
「だとしても構わない。キャットファイトなんてご免だもの」
なんだ、その程度のものか。竜也は鼻白んだ。
ヤクザに接近してまで“推し”の消息を調べるくらいだから、草の根を分けても情報を欲しているものと思ったら、意外とそうでもないらしい。
この女の考えていることはよくわからない。
「ところであなた、矢島ってヤクザに会ったんでしょう。平気だったの?」
「ああ、とりあえずは大丈夫そうだった」
矢島は竜也が裏切ったことにまったく感づいていないようだった。ここで呑気にフルーツパフェを食べていられることが何よりの証左だ。
「もし、あなたが謀反を働いたことがバレたら、どうなっちゃうのかしら?」
「謀反って、おれは矢島の臣下じゃないぞ」
「でも、主従関係にあったんでしょう」
「ないさ。あくまで対等の立場だ」竜也は語気を強めて言った。「けどまあ、バレたらシャレにならんな」
万が一、この裏切り行為が矢島の知るところとなってしまったら終わりだ。最悪、命を落とすことになりかねない。だから誠心会に引き込んだオーナー連中には、竜也が手引きをしたことは絶対に他言無用だと、きつく緘口令を敷いてある。
「そんなもの守られるわけ? その人たちに売られちゃうんじゃない?」
「まずないね。おれが声を掛けたのは、長年持ちつ持たれつの関係でやってきた信頼の置ける仲間だけだし、そもそもみんな反社とは極力付き合いたくないっていう、堅気連中なんだ。彼らがおれを売るメリットなんか何一つないさ」
竜也は己に言い聞かせるようにしゃべった。
実のところ、とてつもなく不安だった。人という生き物は、いつどこで裏切るかわかったものではないのだから。
「じゃあ、あなたの心配はわたしだけね」
竜也は眉をひそめ、瞬きを繰り返した。
「わたしが矢島に密告するかもしれないじゃない。あなたが誠心会と結託したことを」
背筋が凍った。
「ふふふ。冗談よ。それこそ、そんなことをするメリットがないもの」
愛が白い歯を見せて笑う。竜也も合わせて笑ったが、口元が引き攣っているのが自分でもわかった。
「じゃあ、また何かわかったら教えて」
愛がサッと席を立ち、竜也を残して、一人出入り口へと向かった。リズミカルに上下する尻を目で追う。
これまで思いが至っていなかったが、よくよく考えてみればたしかにあの女は危険だ。もしかしたら、今一番敵に回してはならないのは愛なのかもしれない。
その翌日の夜、早めに仕事を終えた竜也が自宅でくつろいでいたところ、広瀬という名の知人オーナーから電話があり、物凄い剣幕でクレームをつけられた。
聞けばつい先ほど、彼が手掛けるキャバクラ店に内藤組の若い衆がやってきて、店の中を荒らして帰ったそうだ。
〈浜口さん、全然話がちがうじゃない。あなたが内藤組から嫌がらせを受けることはないって言うから、それを信用して誠心会に乗り換えたのに、さっそくこれってどういうことよ〉
「いや、わたしはないだなんて言ったつもりはないですよ」
嘘ではなかった。その可能性は限りなく低いとは言ったが、ないだなんて絶対に口にしていない。
〈けどあなた、こうは言ったよね? 誠心会は内藤組よりよっぽど頼りになるって。これを言ってないとは言わせないよ〉
「……」
〈ねえ、言ったよね?〉
「……ええ、まあ。誠心会は助けに来てくれなかったんですか?」
〈来てくれたよ。店が散々荒らされて、内藤組の連中が去って十五分も経ってからね。おれの方がよっぽど到着が早かったくらいさ。これで用心棒の役割を果たしてるって言える? 言えないだろう〉
「まあ、そうですけど。ただ、わたしに文句を言われても……」
〈浜口さん以外に誰に言うんだよ〉
それは誠心会に決まってるだろう。自分が仲介を務めるのはここまでだから、今後は誠心会と直接やりとりしてくれと、はっきり伝えているのだ。
このことを竜也が冷静に述べると、
〈誠心会の現場の人にも伝えたさ。こんなんじゃ困るって。そうしたら、『きっちりやり返したるから黙って見ときィや』って言い返されたよ。そういうことじゃねえんだって。こっちはやり返してほしいんじゃなくて、守ってほしいの。平穏に営業させてもらいたいの〉
ごもっともな訴えに、竜也は返す言葉がなかった。
〈ちなみに、おれは内藤組のヤツからこんな捨て台詞を吐かれたよ。『うちを切るだなんてナメた真似をするからこういう目に遭うんですよ』ってね。でもって最後の最後に、『戻ってきてもいいんですよ。今なら水に流しましょう』とも耳元でささやかれた。おれはよっぽど彼らに詫びようかと思ったね。『自分がまちがってました。やっぱり内藤組のみなさんにお世話になります。今回は浜口さんに唆されてしまっただけなんです』ってね〉
「ちょ、ちょっと広瀬さん、それは――」
〈わかってるよ。約束は守るさ。ただ、あなただって、声を掛けた以上、最低限のことはしてよ。じゃないと困る〉
「……はい」
〈大きなお世話かもしれないけど、こういうことがあると、浜口さんの評判も落ちちゃうよ。みんなあなたを信用して、今回の決断をしたんだから〉
竜也は電話を切ったあと、「ああもう」と嘆いて、乱暴に髪を掻きむしった。
その勢いで宇佐美に電話を掛け、今し方の件を説明し、今後の改善を求めた。すると、宇佐美は〈すぐに折り返しますわ〉と言い、電話を切った。
その数分後、宇佐美から掛かってきた。
〈どうやら同じ時間帯に別のところからも、内藤組の連中から助けてくれいう要請があったみたいでしてな。若い衆がそっちに人数を取られとったもんで、広瀬さんのとこが後回しになってしもうたそうですわ。このあと、自分から広瀬さんに詫びを入れときます〉
「そうしてもらえると助かります」
〈それはそうと浜口さん〉
「はい」
〈あなたに関することで、ちいとよからぬ噂を小耳に挟んだんやけども、その真偽をたしかめさせてもろうてもええですか〉
「はあ。わたしに関するよからぬ噂、ですか」
〈ええ。噂の中身はこんな具合ですわ――〉
話を聞き、竜也は耳を疑った。竜也が誠心会の内部事情を内藤組に垂れ流しているというのである。
〈要するに、あなたは内藤組が送り込んだスパイやっちゅうんですわ。あっちを裏切り、こっちについたように見せかけといて――〉
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」竜也はたまらず声を上げた。「わたしがそんなことをするはずがないじゃないですか。そもそも、おたくさんの内部事情なんてわたしは何も知りませんよ」
〈まあ、そう怒らんといてください。わしかて、そんなしょーもない噂を信じとるわけやないですから〉
だとしたらこの確認になんの意味があるのか。
「だいいち、もしわたしが内藤組のスパイなんだとしたら、周囲のオーナーを宇佐美さんに紹介しないでしょう。それも、わたしがあなた方を信用させるためにやったとでも言うんですか」
〈ええ、そういうことらしいんですわ。あくまで噂ではね〉
開いた口が塞がらなかった。いったい、どこからこんな馬鹿げた話が湧いて出てきたのか。
この質問を宇佐美にぶつけると、彼は〈まあまあ、みんな好き勝手なことを言うもんやからね。とくにこういう戦時中はくだらないデマが飛び交うもんなんですわ〉と煙に巻かれた。
〈ま、わかりました。浜口さんを信用しますわ。けど、もし裏切ったら、そんときは覚悟しといてください。きっちりカタにハメたりますから〉
竜也は唾を飲み込んだ――と同時に、耳に押し当てているスマホが震えた。キャッチフォンが入ったのだ。
耳から離して確認すると、相手は矢島だった。
訝った。このタイミングなので余計に不穏に感じられた。
〈浜口さん、どうされました?〉
「あ、いえ。とにかく、わたしは潔白ですから。おかしな噂を真に受けないでいただきたい。失礼します」
そう念を押し、電話を切った。