怪しいネオンがぎらつく二丁目のエリアに足を踏み入れる。そこで空気が一変した。一丁目と二丁目では滞留している空気の種類が異なるのだ。これは歌舞伎町にいる人間全員がわかってくれることだろう。
「あんまこっちの方には来ねえなあ」ケンが周囲を見回して言う。「ミキちゃんはよく来るの?」
「うん。たまに」
「どういうときに?」
「こうやって男の人に奢ってもらうとき。こっちなら泊まるところもすぐだし、都合がいいじゃん」
さりげなく男たちが期待するような台詞を吐いた。彼らのゴールは七瀬との3Pなのだ。
この仕事を始めて、七瀬はすぐに要領を掴んだ。セックスが目的の男共を手玉に取るのは路上で昼寝をするよりも容易かった。
もっとも以前の自分には到底できない芸当だっただろう。おそらく成長したというより、変わったのだ。この街に来てから自分は明らかに変わった。
腕を組んだ男女とすれ違ったとき、「あれってさ、絶対パパ活だよな」とタケルが蔑む口調で言った。
男女の年齢は親子ほど離れていたのだ。もっとも歌舞伎町ではめずらしい光景ではないので、誰も気にも留めない。
「うちらも腕組んじゃう?」七瀬は二人の顔を交互に見て訊いた。
「いいね。組んじゃおうぜ」
七瀬が二人の間に入り、腕を絡ませ、三人横並びで歩いた。身体が密着したことで二人が香水をつけているのに気づいた。どちらも七瀬の気に食わない、爽やかな匂いだった。
七瀬は自分の五感の中では嗅覚がもっとも鋭敏だと思っている。
だから初めて歌舞伎町に立った日、まず驚いたのはその匂いだった。街全体から発せられている、饐えたような、濁った匂い。それは大自然に囲まれた群馬では嗅いだことのない、心地よい都会の香りだった。
ほどなくして、「ここの三階」と七瀬は雑居ビルの真ん中辺りを指差した。
縦に並んだ看板の下から三番目には《Bar Ranunculus》の文字がライトアップされて浮かび上がっている。
「ラナンキュラス?」ケンが看板に目を細めてつぶやいた。「どういう意味なんだ?」
「さあ、知らね」タケルが肩をすくめる。
「花の名前なんだって」七瀬が口を挟んだ。
「へえ。古くからやってんの?」
「ううん。まだ新しいみたい」
「そうなんだ。ちなみになんだけどさ、高級店とかじゃないよね?」
「ふつーだよ。あたし一人でも来れるくらいだし」
「ああ、そう」
三人で雑居ビルの中に入り、薄暗く、狭い階段を上がっていく。
先週、一緒にこの店を訪れた男はここから転げ落ちて怪我をした。逃走しようとして慌てて階段を駆け下り、足を滑らせたのだ。
三階に上がり、七瀬がドアを引き込んだ。BGMのジャズが飛び込んでくる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中の若いバーテンダーが低い声で言い、軽く頭を下げた。
「ほら、いい感じでしょ」
「うん。でも、あんまり新しい感じはしないな」
それはここが前も、その前もバーで、調度品も含め、当時のものを完全に居抜きで使っているからだ。
前のオーナーは、前の前のオーナーから借金のカタとして店を奪い取り、今のオーナーは同じ理由で前のオーナーから店を奪い取ったらしい。きっとこれが二丁目の正しい循環なのだろう。
「でもおれらしか客はいないんだな」
「二軒目にはまだ早い時間だからだろ」
そんな会話をしている男たちを促してカウンターに向かう。七瀬を真ん中にして三人並んで座り、飲み物を注文した。二人はビール、七瀬はギムレットを頼んだ。
「ミキちゃん、すごいね」ケンが目を丸くして言った。
「何が?」
「若いのに、そんな洒落たお酒を飲むんだなって」
「一回飲んだらハマっちゃったんだ。美味しいんだよ」
本当は別の理由があった。ギムレットは量が少ないので、杯を重ねられるのだ。味自体は美味しいとも不味いとも思わない。
「どうぞ」
バーテンダーが慣れた手つきで酒を作り、三人の前に差し出した。
出会いに乾杯し、酒を舐めた。気を遣ってくれたのだろう、ライムジュースの割合が多めで、アルコールはほんの気持ち程度しか入っていなかった。
もっとも七瀬は酒に強い体質で、いくら飲んでも酔わなかった。だからこれまで酩酊したことは一度もない。
グラスを傾けながら男たちの話を聞いた。酒が入った彼らは実に饒舌だった。くだらない話をうんざりするほど披露してくれた。
七瀬は頻繁に身体の向きを変え、彼らの目を見つめて、機械的に相槌を打った。これをするだけで男はだいたい気持ち良くなってくれる。
彼らはこちらから勧めるまでもなく、ハイペースでおかわりをしてくれた。それに合わせて、七瀬も杯を重ねた。
一時間ほど経っただろうか、「よし、そろそろ次行こうか」とケンが切り出してきた。
「次って?」
「ゆっくり休めるところ」これはタケルが言った。
「オッケー」
七瀬が目を潤ませて了承すると、二人の目が光った。
「お会計下さい」
バーテンダーが無機質な顔でスッと会計票をカウンターに滑らす。
ケンがそれを手に取り、目を落とす――そこで表情が固まった。それから彼は何度か目を瞬かせ、「なんだよ、これ」とつぶやいた。
「どうした?」と横から会計票を覗き込んだタケルも目を丸くさせる。
そこには二十七万六千円の記載があった。
「なんなんスか、これ」とケンがバーテンダーに会計票を突きつけた。
「いかがなされましたか」バーテンダーが薄い笑みを浮かべて小首を傾げる。
「これ、まちがってますよね」
「いいえ。まちがってなどおりませんが。明細をしっかりとご確認いただけますか」
「ビールが一杯七千円って……だいたいこのチャージ料の十五万ってなんですか」
「当店ではチャージ料としてお一人様、五万円をちょうだいしております。お客様は三名様でいらっしゃってますから十五万円でございます」
「ふざけんなよ」タケルが鼻息荒く言った。「そんなのありえないだろ」
「なぜでしょうか」
「なぜって……こんなの払えるわけねえだろ」
「それは困ってしまいますねえ。お客様はサービスを受け、お酒を飲まれたのですから」
そう告げたあと、バーテンダーはスッと笑みを消し、カウンターに両手をついて身を乗り出した。
「お支払いしていただきますよ。きっちりね」
二人は表情を強張らせて生唾を飲んでいる。
そんな男たちをよそに七瀬は煙草を咥え、火を点けた。
「む、無理です」ケンが唇を震わせて言った。「自分ら、そんなお金持ってません」
「カード決済で結構ですが」
「だから無理です」
「では、お連れの女性にお支払いしていただきましょうか」
バーテンダーが七瀬に水を向けた。
「あたしも無理。お二人さんよろしく」
七瀬は前を見たまま言い、ふーっと紫煙を吹き出した。
そんな七瀬の横顔を二人は呆然と見つめている。
「……おまえ、おれらをハメたのか」
七瀬は無視した。するとタケルが肩を鷲掴みにしてきた。
「ちょっとお客さん。女性に乱暴なことはよしましょうよ」
「おい、なんとか言えよ」
「あたし、帰ろっかな」
「ふざけんなっ」
「だからお客さん。相手は女性ですよ」バーテンダーがカウンターから出てきて、タケルの肩に手を回した。「さあ、お支払いを。男らしく、潔く」
バーテンダーがさりげなく七瀬に目配せを飛ばしてきた。
七瀬は灰皿に煙草を押し付けて消し、スツールから腰を上げて、出入り口に向かった。そして振り返ることなく店を出た。
ビルの階段を降りて行くと、「あいあい、ご苦労さん」と下から声が上がった。
オーナーの浜口竜也と連れの男二人が階段を上がってきていた。ゴネる客を脅すために、彼らは毎度このタイミングで店にやってくる。バーテンダーがこっそりスマホを使って呼び出しているのだ。
「今回は二十七万も売り上げたんだってね。さすがだなあ。こんな十五歳は日本中、いや世界中を探しても七瀬ちゃんだけ」
浜口がセラミックで真っ白になった歯を光らせて言った。相変わらずノリが軽い男だ。腹が中年のように弛んでいるが、まだ二十代後半だという。
「二十七万じゃなくて、二十七万六千円」
「ああ、失礼。となるとだ……七瀬ちゃんの取り分はいくらになるんだろうな」
「八万二千八百円です」売上の三十%が七瀬の取り分だ。
「わお。計算も早い」浜口が大げさに言う。「じゃあ、週末に報酬を取りにおいで」
「それなんですけど、今もらえませんか。ちょっと金欠で」
「ああ、そう。いいよ、いいよ」浜口がセカンドバッグを広げ、札束を取り出し、指で素早く弾いた。「はい。ちょっとおまけ。ほかの女の子には内緒ね」
九万円くれた。
「七瀬ちゃん、この前も言ったけどさ、もっと気合いを入れてやってみない? この仕事はやればやったぶんだけ稼げるんだしさ。毎晩スケベな客を捕まえてきてちょうだいよ」
七瀬は基本的に金が底をついたときにしか稼働しないのだ。
「ね、七瀬ちゃん。一緒にがんばっちゃおうぜ」
七瀬は涼しげな笑みを浮かべて受け流し、階段を降りて行った。
路上まで出て、数メートルほど歩いたところで七瀬はふと立ち止まり、後方を振り返った。ライトアップされた『Bar Ranunculus』の看板に目を向ける。
今頃、ケンとタケルは浜口たちに取り囲まれ、脅されていることだろう。彼らは金を払うまで絶対に外には出られない。だから警察にも駆け込めない。
――なあちゃんにああいう仕事は合ってない気がする。
ふいに愛莉衣から言われた台詞が脳内で再生された。
七瀬は鼻をすすり、身を翻して足を踏み出した。