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 浜口は仏頂面だが素直に受け答えをしていた。その間にエレベーターがやってきて、中から出てきたサンダル履きの男は小松崎に気づくなり、顔を引き攣らせて会釈をしていた。
「ほお。おまえ一丁前に歌舞伎町で商売やってんのか」小松崎が口元に半笑いを浮かべて言った。「名刺を寄越せ。今度飲みに行ってやるよ」
 浜口は唇を尖らせて、渋々名刺を差し出した。
 つづいて七瀬もいくつかの質問を受けた。隠すこともないので、訊かれるがまま答える。
「十五歳のお嬢ちゃんがこんなゴミ溜めにいたらよくないな。さっさと帰りなさい」
「いや、ですから、自分らちょっと用事があって」浜口が苦笑いを浮かべて言った。
「何号室だ」
「……404号室ですけど」
「404ってえと……矢島のところか。どんな用件だ?」
「ええと、それは、その……ちょっとプライベートな相談に」
 小松崎が目を糸のように細める。「まあいい。悪巧みするんじゃねえぞと矢島に言っておけ」
 そう言い捨てて小松崎はエントランスを出て行った。
「なんだあの野郎」浜口が目を剥いて言った。「いつか闇討ちしてやる」
 改めてエレベーターに乗り込み、四階で降りた。外廊下を進み、404号室の前に立つ。
 だが浜口は中々インターフォンを押さなかった。彼は顔を強張らせ、生唾を飲み込んでいる。
「押しましょうか」七瀬が横から言った。
 すると浜口は「いや」とかぶりを振り、「よし」と自らを奮い立たせるようにつぶやいてからボタンを押し込んだ。
〈どちらさんで〉
 応答の声は七瀬の知っているものだった。
 浜口が名乗った数秒後、ドアが開き、その向こうに立っていたのはやはり颯太だった。
 先ほど小松崎の口から矢島の名前が出てきたとき、それが颯太の兄貴分のヤクザであると察していた。となれば組の若い衆である颯太が現場にいることも十分想定できた。
 一方、颯太は七瀬がやって来ることなど考えもしていなかったのだろう。目を丸くさせ、口を半開きにしたまま、固まっている。
「おい。早く通せ」部屋の中から声が上がった。
 困惑から抜け出せない颯太が「どうぞ」と七瀬たちを中に招き入れる。短い内廊下を進み、部屋に足を踏み入れた。十二畳ほどの室内にオフィスデスクが並んでおり、いくつかのパソコンと電話が置かれていた。オフィスとして使われている場所なのだ。
 そこに男が三人いた。二人は私服姿で隅に並んで立っており、残る一人はスーツにネクタイを締めていて、この男だけが椅子に座っていた。おそらくこいつが矢島だろう。年齢は四十歳くらいだろうか。
 矢島はインテリ風の縁なし眼鏡をかけていて、やや冷たい印象を受けるがヤクザっぽくはなかった。先ほどの小松崎の方がよっぽど凶悪な顔をしている。
「ご足労いただき、どうも」矢島が顎をさすりながら口を開いた。
「このたびは誠に申し訳ございませんでした」浜口が深く腰を折り、頭を垂れた。「今回の一件につきましては――」
「黙れ」矢島が静かに言い、床を指さした。「とりあえずそこ座れ」
 浜口がその場で膝をつき、正座をした。
「ほら、七瀬ちゃんも」と浜口が顔を見上げて促してくる。
 だが、七瀬は座らなかった。もちろん素直に従った方が得策なのだろうし、この場に来るまでそうするつもりだったが、いざこの段になると身体が、いや、心が服従を拒否していた。
 なぜ自分がこのヤクザの指示に従わなければならないのか。そもそもなぜこんなところに自分がいなくてはならないのか。
 今さらながらムカっ腹が立ってきた。
「ちょっと七瀬ちゃん。何やってんだよ。頼むよ」
 浜口が手を掴んできた。その手を七瀬は振り払った。
 そんな様子を見て、矢島がおかしそうに肩を揺する。
「お嬢ちゃん、いい度胸してるな。聞くところによりゃあ、お嬢ちゃんは今話題のトー横キッズで、歳はまだ十五なんだってな」
 七瀬は浜口を一瞥した。彼があらかじめ七瀬の素性を伝えていたのだろう。
「お嬢ちゃんが昨夜引っ掛けた男たちはさ、お偉い先生の息子さんと、そのご友人なんだよ」
「あたしが引っ掛けたんじゃない。あっちから声を掛けてきた」
「そういう屁理屈は大人の世界じゃ通用しないのさ。結果的に法外な金をぶんどって、ボコボコにしちまったんだから」
「それだってあたしは関係ない。あたしは酒を一緒に飲んだだけ」
「けれども、彼らがどういう被害に遭うか、ハナから理解していたわけだろう。つまり、お嬢ちゃんは彼らを騙したわけだ」
「騙される方が悪い」
 そう告げると、矢島はゆっくり二回頷き、「まあそうだな」と言った。
「お嬢ちゃんの言い分はよおくわかったよ。おれだって個人的にはこんな揉め事に十五歳の子どもを巻き込みたくはないし、どうかと思ってるさ――なんだけれども、先生の息子さんが怒り心頭なもんでな。どうしてもきみに仕返しをしないと気が済まないみたいなんだ」
「そんなのあたしの知ったことじゃない」
「だから知らないじゃ済まねえことも世の中にはあんだよ、小娘」
 矢島の表情が一変し、ドスの利いた声を発した。場が一気に緊迫感に包まれる。
 七瀬は瞳だけで左右を確認した。隅にいる子分の二人は般若のような顔で七瀬を睨みつけていた。一方、逆側の壁の前に立つ颯太は手を後ろで組み、微動だにしないものの、おろおろとした視線を床に這わせていた。
 いくじのない男だと思った。ふだん威勢の良いことばかり言っているくせに、こういうときにだんまりを決め込むのだから。
 助けろとまでは言わないが、知り合いだということくらい伝えてくれたらいいのに。
「まあいい。お嬢ちゃんの件は後回しにしよう――まずはおまえの方からだな」
 矢島が浜口を冷たい目で見下ろした。
「てめえはただじゃ済まさねえぞ。だいたいてめえ、歌舞伎町でケツモチもつけねえでぼったくりバーとは上等じゃねえか。今どきの半グレは地回りに挨拶もねえのか。極道もナメられたもんだ」
「いえ、そんなことはけっして……」浜口が胸の前で両手を振る。
「てめえ知ってるか? 先生の息子さんは前歯だけじゃねえ。眼窩底もいかれちまってるそうだ。相手はカタギなんだぞ。加減ってものを知らねえのか」
「本当に申し訳ございません」浜口が額を床に擦り付けた。「誠心誠意、ケジメをつけさせていただきます」 
 矢島が眼鏡を中指で押し上げた。
「ケジメの相場をまちがえるとどえらいことになるぞ」
「はい。慰謝料として百万円をお支払いさせていただきます」
 矢島が一瞬挙動を止め、それから立ち上がった。
「おい。ふざけてるのか」
「いや、その、相場よりは多少なりとも……」
 矢島がデスク上にあったペン立てを掴んで浜中に投げつけた。床にペンが散乱する。
「そんなはした金じゃインプラント代で消えちまうだろうが」
「で、では二百――」
「五百だな」
「……」
「それでなんとか手を打ってやる」
「さすがにそんな金は――」
「あるだろう、たんまりと。どうせ商売はぼったくりバーだけじゃねえんだろう」
 浜口はこれを否定し、その後、必死に減額の交渉をしたものの、矢島は取りつく島もなく、一方的に話し合いを打ち切った。 
 それから浜口は身分証のコピーを取られ、示談書にサインをさせられたのちに部屋を追い出された。
 一方、七瀬は退出を許されなかった。浜口の背中について行こうとしたのだが、矢島から指示を受けた颯太が立ちはだかったのだ。この際も颯太は七瀬と目を合わせようとしなかった。「あくまで他人のフリをすんだね」と囁いた言葉にも彼は返答しなかった。
「さて、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんのことはどうしてくれようか」矢島が顎をさすりながら、改めて言った。「先生の息子さんにはガラを捕らえて差し出せって言われてるんだが、さすがにそいつは現実的じゃない。となると結局は金を積む以外に矛を収めてもらう手段がないわけだ」
「金は浜口さんからもらうんでしょ。だったらそれで終わりじゃん」
「そいつは浜口のケジメであって、お嬢ちゃんのケジメじゃないだろう」
「あたしは金なんて持ってないから」
「だったら旅にでも出て作れや」
「旅?」
「ああ。十五歳なら三倍の単価がつく。国内、海外、好きな方を選ばせてやるよ」
 なるほど。出稼ぎに行かされるのか。要するに売春ツアーだ。
「冗談だよ、冗談。おれだって鬼じゃないさ」
 たとえ本気だろうとこちらだって引き受けるつもりなんてない。そんなものに出されるなら舌を噛みちぎって死んでやる。
 七瀬はカバンから煙草を取り出し、口に咥えた。
「おい。この部屋は禁煙だ」
 構わず百円ライターで火を点けた。深く吸い込み、矢島に向けてふーっと紫煙を吐いた。
 すると子分の二人が「おいコラ」と目を剥き、七瀬に向かって来ようとした。そんな子分たちを矢島が手の平を突きつけて制した。
 それから矢島は七瀬を観察するように見つめた。
 七瀬もまた矢島を見据えた。射貫くように、まっすぐと。
 視線がぶつかったまま十秒、二十秒が経った。
 やがて七瀬が煙草の灰を床に落としたとき、「おい」と矢島が子分たちに向けてあごをしゃくった。「おまえら、少し外せ」
 子分たちが顔を見合わせる。
「出て行けって言ってんだよ」
 矢島が凄むと、子分たちはそそくさと部屋を出て行った。
 だが、颯太だけは困惑の顔で突っ立っていた。
「颯太、何してんだ。聞こえなかったのか」
 颯太と七瀬の視線が重なる。彼は唇を震わせていた。
 そんな二人を矢島は交互に見て、「なんだおまえら。知り合いか」と訊いた。
「いえ、その……」颯太が口ごもる。
「おい、はっきり言え」
「ちょっと街で見かけたことあるなって」
「その程度か」
「……はい」
 煙草を投げつけてやろうかと思った。 
 颯太が矢島に一礼してから部屋を出て行く。ほどなくして玄関のドアが閉まる音が聞こえた。

 

(つづく)