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 ノートパソコンを慣れた手つきで操作する矢島の口元は終始緩みっぱなしだった。
 矢島に指定された場所は新大久保にある小汚い韓国料理屋だった。先に到着していた彼は赤黒い色をしたクッパを汗ばみながら食べていた。店内の薄汚れた壁には男性韓流アイドルのポスターが貼られている。
「七瀬、こいつは想像以上だぞ」矢島が指先を動かしたまま言った。
「へえ、そうなんだ」と、七瀬は咥え煙草のまま空返事をする。
 やはりPYPにとって見られたくないデータが入っていたようだ。となると、スマホの方にも同じものがあるだろうか。
「この辻ってのは相当脇の甘い野郎だな。ご丁寧に裏帳簿のデータファイルにsecretなんて名前を付けてやがる」
「本人は優秀なつもりだったけどね」
 矢島が鼻で笑い、辻の免許証を手に取って透かすように見た。「こいつは稀に見るポンコツさ」
 リュックの中には辻の財布も入っていて、その中に彼の身分証があったのだ。
「で、今後どうするの? PYPを強請ゆするの?」  
「さあな。ここから先はおれの仕事じゃないんだ」
「ふうん」
「いずれにせよ、PYPはこれで終わりだろうな。とりあえずこのパソコンを徹底的に解析――」
 矢島が突然、言葉を区切り、目を糸のように細めて画面を睨んだ。
 そして「おいおい。マジかよ」と、つぶやいた。
 その後、矢島はひたすらパソコンと睨めっこしたまましゃべらないので、「ちょっと電話してくる」と七瀬は席を立った。
 店先に出て、愛莉衣に電話を掛けた。すでに時刻は零時を過ぎているので、トー横広場で自分を待っているであろう彼女に、もう少し遅くなると伝えておこうと思ったのだ。
 だが、彼女は応答しなかった。ふだんはすぐに出るのに。
 七瀬は店内に戻り、矢島のいるテーブルへ向かった。
 椅子を引いて、一旦席に着く。
「それ、まだ掛かってるんだ」
 ノートパソコンと接続されている手の平サイズの四角い物体を指差して言った。これはHDDというもので、詳しいことはわからないが、こいつがノートパソコンの中のデータを吸い取っているらしい。
「ああ。パソコンが盗まれたことに気がついたら、今クラウド上に上がっているデータは必ず消されるはずだ。そのうちログインもできるなくなるだろう。つまり時間との勝負なのさ」
「ふうん。あいつ、しばらくは起きないと思うけどね」
 きっと辻はまだホテルのベッドで夢の中だろう。
「そういえば七瀬、睡眠薬にサイレースを使ったとかって言ってたよな」
「うん」
「そんなもの、どこで手に入れた」
 コディの顔が思い浮かんだが、「トー横の知り合いから」と嘘をついた。
 矢島が手を止め、目を細めて見てきた。「ガキが簡単に入手できるようなもんじゃないぞ」
「さあ。どうやって手に入れたのかまで知ら――」
「おまえ、歌舞伎町で商売している黒人に知り合いでもいるのか」
 さすがに鋭いなと思った。この男も伊達に裏稼業をやっているわけじゃなさそうだ。
「別にいないけど」
 そう答えると、矢島は一瞬目を細めた。
「まちがってもあの連中と関わり合うなよ。危さのレベルがちがうぞ」
「あんたらヤクザよりもヤバいの?」
「ああ、あいつら平気で人消しを請け負うからな」
「人消しって、殺しってこと?」
「ああ」
「人殺しなんてしたらさすがに捕まるでしょ」
「捕まらないさ。なぜなら日本に滞在している奴らが直接手を下すわけじゃないからだ。南米やアフリカ、そういった国から殺し屋を呼び寄せて、こっちで仕事をさせたら、すぐに帰国させちまうんだ。被害者とはいっさい因果関係がないから警察だって捜査のしようがない」
「へえ。殺し屋なんて、世の中に本当に存在するんだ」
「するさ。海外にはいくらでも。それこそ小遣い欲しさに、二束三文の端金で殺しを請け負う外人共がごまんといる」
「日本で言うところの闇バイトみたいなもん?」
「まあシステムはそんなところだろう。おれが聞いた話によれば、呼び寄せる殺し屋のランクは金次第で変わるようで――」
 スラム街にいる素人の非行少年から始まり、戦場で活躍するプロの傭兵まで様々な人間を来日させることができるという。中にはスナイパーライフルなんてシロモノすら扱えるエリートまでいるとのこと。
「スナイパーライフルって、こういうやつのこと?」
 七瀬が両手でジェスチャーをして訊いた。たぶんスコープがついていて、遠距離からターゲットを狙撃できる銃のことだろう。
「ああ、そいつのことだ。よく知ってるじゃないか」
 若者の間で流行っているバトル系のアプリゲームでそういったものを見たことがある。
「なんにせよ、そんなもんを持ち込まれて狙われちまったら要人すらアウトだ。でもって、そんな殺し屋を手配してるのが、歌舞伎町を彷徨うろついてる黒人共って噂だ」
 再びコディの顔が思い浮かぶ。たしかに彼なら人殺しを依頼しても、二つ返事で「OKデスネ」と請け負いそうだ。真っ白な歯をこぼして。
「ちなみにさ――」七瀬は煙草に火を点けた。「あんたはしたことある?」 
「なにを」
「人殺し」
「ないな」
「じゃあ、できる?」
「できるかできないかで言ったら、できる。だが、しない。リスクが高過ぎる」
「ふうん」
「おまえはどうだ? 人を殺せるか」
 七瀬は吐き出した煙を見つめ、「さあ、わかんない」と答えた。 
「ねえ。あたし、もう帰っていい? 用は済んだでしょ」
 煙草を灰皿に押し潰して言った。
「このあと何かあるのか」
「ちょっとね」
「ならいいぞ」
「じゃあ、金」
 手の平を差し出して言った。
 矢島がフッと口元を緩め、スーツの懐に手を突っ込んだ。そこから分厚い封筒が出てきた。
「ごくろうさん」
 封筒を差し出され、受け取った。指で封筒を開き、目を落とす。札束が入っていた。
「しっかり百万だ」
「どうも」封筒をサッと鞄に入れた。
「数えなくていいのか」
「いい」  
 七瀬がそう断って席を立つと、「待て」と矢島が制止してきた。
「こいつもくれてやる」
 そう言って、彼は辻の財布から札を抜き、差し出してきた。
 一万円札が一枚と千円札が三枚。七瀬はそれをクシャっと掴み、裸のまま上着のポケットの中に突っ込んだ。
「ついでにこいつも持ち帰って処分してくれないか」と、矢島は冗談めかして辻のリュックをひょいと持ち上げた。
 七瀬は鼻で笑い、店を出た。
 ひっそりした狭い路地裏を通り、歌舞伎町を目指す。ここからなら十分程度でトー横広場に着くだろう。歩くのはそんなに苦じゃない。
 七瀬は両手にスマホを持ち、指を動かしながら足を繰り出している。辻のスマホの中のデータを手当たり次第、自分のスマホに飛ばしているのだ。矢島の話だと、いつログインできなくなるかわからないし、中のデータが遠隔で消されるかもしれないとのことだった。だとしたら、今のうちにデータを移して自らもPYPの弱みを保持しておきたい。
 路地を抜けて職安通りに出た。左右の車の流れを見て、サッと道路を横切った。ここから先が歌舞伎町エリアだ。
 深夜なのに大久保公園の前にはたちんぼがぽつぽつと点在していた。ちなみにこの時間になると七瀬と同世代の少女より、もう少し年齢を重ねた女たちが多い。そしてその中には少年たちもいた。彼らもまた金のため、おっさん共にケツを差し出しているのだ。
 大久保病院の前に差し掛かると、先から若い男女の喧騒が聞こえてきた。どうせまたユタカたちがオーバードーズでトリップしているのだろう。
 広場に出ると、案の定、知った顔がたくさんいた。この極寒の中、路上で横になっている者もちらほらいる。
 七瀬は足を止め、辺りを見渡した。愛莉衣を探したが発見できなかった。
「ねえ、愛莉衣のこと見かけなかった?」
 近くを通ったモカに声を掛けた。
「……愛莉衣ちゃんなら、あそこだけど」
 モカが指さした先には路上に横たわる女がいた。目を凝らす。こちらに背を向けているがたしかに愛莉衣のようだった。
「あいつ、まさか酔い潰れて寝てんの?」
「さあ」モカは七瀬と目を合わさずに言い、逃げるようにそそくさと離れて行った。
 七瀬はそんな彼女の背中に向けて小首を傾げたあと、愛莉衣に近づいて行った。
 かがみ込んで、後ろから彼女の肩に手を掛ける。
「なにがあったのか知らないけど、こんなところで寝てると凍死しちゃ――」
 七瀬は言葉を切り、息を飲んだ。愛莉衣は口から大量の泡を吹いていた。
「愛莉衣、愛莉衣」
 身体を抱き抱え、頬を叩く。彼女の顔面は冷え切っていた。
「ねえってば。起きてよ」
 それでも愛莉衣はピクリとも反応を示さない。 
 冷たい手首に指の腹を当てた。脈を感じられなかった。
 七瀬は唾を飲み込み、愛莉衣の顔をまじまじと見つめた。
 数秒間に一度、二人の間には白い息が立ち上がる。七瀬の口から吐かれたものだ。だが、愛莉衣からはそれがまったくない。
 七瀬はゆっくりと愛莉衣の口元に顔を近づけていき、彼女の唇に耳を押し当ててみた。唇も、その周りを覆っている泡すら冷たい。
 やっぱり愛莉衣は息をしていなかった。

 


 今日は朝から冷たい雨が新宿の街にしとしとと降り注いでいた。新宿御苑にある斎場の天窓から見える空は胸クソが悪くなるグレー一色だ。
 蛍光灯の淡い光に包まれた空間には供花の香りが薄く漂っていた。この匂いが七瀬をことさら不快にさせた。もの哀しさを演出するBGMもひどく耳障りだった。
 先の祭壇には黒光りした平棺が据えられ、その周りに佇む人々は黒装束に身を包んでいる。喪服を纏っているのは主にPYPの連中で、どういうわけか彼らがこの葬儀を仕切っていた。一方、私服姿でいる者もちらほらいて、彼らは同世代の若者でトー横の奴らだった。
 どいつもこいつもぶん殴ってやりたかった。彼らは誰一人として愛莉衣の死を悲しんでなどいないだろう。なのにその表情は重苦しく、さも悲嘆に暮れているかのよう。中には仰々しく床に膝をついて涙する者すらいた。
 見るに耐えない、薄ら寒い光景だった。いや、七瀬の神経を逆撫でする光景だった。
 七瀬はダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、彼らの輪の中にズカズカと入っていった。そして「どいて」と、無機質な声で愚者共を追い払った。
 棺に目を落とす。中には死装束を纏い、腹の上で指を組んで、仰向けで横たわっている女がいる。
 眠っているようには見えなかったが、死んでいるようにも見えなかった。ただ瞼を閉じている。七瀬の目にはそんなふうに映った。とはいえ、ここにあるのはただの肉の塊であり、抜け殻だ。愛莉衣の魂はすでに消滅している。
 スッと手を伸ばし、そっと愛莉衣の頬を触れてみた。あのときと同じくらい、いや、あのときよりも冷たく感じた。
 愛莉衣の死因はオーバードーズだった。彼女は風邪薬を過剰摂取した結果、帰らぬ人となった。
 ふだん愛莉衣はそういうものに手を出さなかった。煙草すら身体に悪いからと、つまらないことを言って敬遠していたくらいだ。
 そんな彼女がオーバードーズをしてトリップを求めたのは、現実を受け入れられなかったからだろう。
 あの日、彼女が贔屓にしていたホストが歌舞伎町から消えていたことを、七瀬は後日知った。

 

(つづく)