しばらくして、誰かがこの場にやってきた気配がした。
「バンの用意ができました。裏手の通用口につけてあります」
若い男の声が発せられる。はじめて聞く声だ。
「ナンバープレートは?」矢島が訊いた。
「偽装済みです。ガラスもスモークを全面に貼りました。Nシステムも透過しないものです」
「マンションの防犯カメラは?」
「動線にあるものはすべてレンズを塞ぎました」
マンション? ここはRanunculusじゃないのか。
「住民ともすれ違うんじゃねえぞ」
「はい。今エレベーターの前に見張りを立たせてます」
なるほど、自分は気を失っている間に移動させられたのだろう。そしてここはおそらく、以前七瀬も足を踏み入れたことのある、ヤクザマンションの404号室だ。
「先の手筈はわかってるな」
「はい」
「ぬかりなく、だぞ」
「はい」
「よし。運び出せ」
命令が下り、数秒後、七瀬の身体がぐんと浮き上がった。正確には七瀬が収められている箱が持ち上げられたのだ。
だがすぐにどこかに着地し、そのあとは微妙な振動を伴って移動していった。
たぶん荷物を運搬する台車に乗せられたのだ。シュルシュルシュルシュルという音は車輪と床とが擦れ合っているのだろう。
途中、ガタン、と大きな振動があった。台車が段差を通ったのだ。その直後、室内からおもてに出た気配を感じ取った。
そこからは台車の進むスピードが増した。カーブすることなく直進しているので、きっと外廊下を渡っているのだ。
ここで行動に出るべきか。いや、まだ部屋をたいして離れていない。騒ぎ立てたらすぐに連れ戻されてしまうだろう。
だが、マンションを出てしまったら車に乗せられてしまうはずだ。そうなってしまったらアウト、完全に詰んでしまう。
七瀬が逡巡していると、台車が止まった。エレベーター前に到着したのだろう。
やはり、ここしかない。
七瀬は全身に力を込めた。ありったけの大声を上げ、身を捩って暴れ、この状況を誰かに気づいてもらうのだ。
七瀬が鼻から息を吸い込み、思いきり声を上げようとしたそのとき、
「おつかれっス」
と、新たな声が発せられた。
この声は――。
「おまえ、先に下に降りて人が来ないか見張ってろ」
「うっス」
颯太だ。まちがいない。
そうか、気が動転していたせいで、ここに颯太がいるかもしれないという考えが抜け落ちていた。
「あ、でも、人が来ちゃった場合どうすればいいっスか」
「下からおれに電話を掛けりゃいいだろう。じゃないと安全かどうかもわからねえじゃねえか」
「あ、それもそうっスね」
「相変わらず頭悪りィ野郎だな。行け」
「うっス」
チン、とエレベーターが到着する音が鳴り、「ではお先に」と颯太が去った。
彼の登場により、七瀬は運命の選択を迫られることとなった。
ここで声を上げ、見ず知らずの第三者に助けを求めるべきか。
もしくは、知人のチンピラに望みを託すべきか。
間隙をつき、颯太の人情に訴えかけ、こっそり自分を逃してもらう。つまりは彼に命乞いをするのだ。
だがそれをするチャンスは訪れるだろうか。
そもそも、それを行ったところで、あいつが翻意してくれるかどうかはわからない。
先ほどの男との会話を聞く限り、現時点で颯太は敵側に立っている。そんな彼に味方になってもらわなくてはならないのだ。
過去に、颯太に見捨てられた記憶が脳裡にチラついた。浜口然り、人は裏切る生き物だ。
だいいち、人の情けに期待するなど、もっとも自分らしくない行動だ。
「どうだ」
男が言った。颯太から電話が掛かってきたのだろう。
「わかった。そのまま見張ってろよ」
ほどなくしてエレベーターがやってきた。
台車が動き、扉が閉まった。緩やかに下降していく。
エレベーターが止まった。一階に到着したのだ。
再び台車が動き出した。
この段になっても七瀬はまだ決断できずにいた。
悠長に悩んでいる余裕などないのだが、どうしても颯太を信じきれない。
そうこうしているうちに車のアイドリング音が聞こえてきた。これが自分が乗せられるバンだろう。
ドアがスライドする音がして、七瀬が収まっている箱が持ち上がった。車に乗せられたのだ。
この瞬間、第三者に助けを求める選択肢は消滅し、颯太に望みを託すほかなくなった。
「出せ」
車が発進した。
出発から三十分ほど経過したろうか。いや、まだ十分程度しか経っていないかもしれない。
極限状態にあるせいか、体内時計がデタラメに狂っていた。
その間、七瀬は車に揺られながら、男たちの会話に聞き耳を立てていた。
この場には三人の男たちがいた。まず七瀬を台車で運んだ男、次に運転席でハンドルを握る男、そして最後に颯太。
「颯太、火」
と、言ったのは助手席に座っているであろう台車の男で、これまでの会話から名前をシゲというようだ。
シュボ、とジッポーが点火する音が聞こえた。
七瀬の脳裡にクロムハーツのジッポーが思い浮かんだ。これは颯太が唯一持っている高級品で、彼はいつも七瀬の前で、このジッポーで得意気に煙草に火を点けるのだ。
「ところでおまえ、いつ車の免許取るんだ?」
そう訊いたのはユキナリと呼ばれているドライバーを務める男だ。
おそらくこのユキナリとシゲは、以前ヤクザマンションの部屋の隅で、颯太と並んで立っていた二人だろう。
「……自分も早く取りたいとは思ってるんスけど」
「思ってるだけじゃ、教習所なんて永遠に通わせてもらえねえぞ。矢島のカシラにきっちり頼み込まねえと」
「うっス」
「おまえが免許持ってねえせいで、毎回おれらがドライバーやらされてんだぞ」
「……すんません」
颯太の声が一番近くで聞き取れるので、彼は自分と同じく後部座席にいるのだろう。
車内には車が風を切る音がうっすら響いている。結構な速度が出ている感じがした。信号で止まる様子がないので、きっと高速を走っているのだ。
「にしても、むちゃくちゃだよな」
ふいにユキナリがため息混じりに言い、「まあな」とシゲが静かに応じた。
「さすがに十代の女を埋めてこいはなくねえか」
「ああ」
「しかも生き埋めにしろって、マジで鬼畜じゃねえか、そんなの」
「言うな。よけいに気が重たくなる」
「あのう」と、颯太が口を挟んだ。「この女、生き埋めにするんですか」
「ああ。カシラがそうしろってよ」とユキナリが答える。
「どうしてっスか」
「万が一死体が見つかっちまったときのためだ」
「少しでも手掛かりを減らしておきたいってことっスか」
「ああ。下手に顔を潰したりする方が痕跡が残るんだ」
「なるほど」
「だから着てる服も全部取っ払って、素っ裸で土葬するんだよ」
「へえ。そういうもんなんスねえ」颯太が感心したように言った。「けど、死体が見つかるなんて、万が一もないっスよね」
「だといいけどな。ただ、もし仮に死体が発見されて、おれらみんなパクられちまったとするだろう。そうしたら最悪、極刑もありうるぞ」
「極刑って……マジっスか」
「行方不明者届は出されねえんだ。捜査自体、始まらねえさ」
「けどそれって、浜口が言ってるだけだろう。あんなヘラヘラした野郎、信用できんのかよ」
「さあな」
ユキナリが「あー」と低い声で嘆いた。
「消す理由も詳しく教えてくれねえしよォ。カシラはいつもそうだ。そのくせ、こういう後始末だけはきっちりおれらに回ってくるもんな」
「もうよせって。気持ちはわかるし、おれだってやりたかねえけど、仕方ねえだろう。いくら不満を垂れたところで、どの道やるしかねえんだ」
だが、このあともユキナリのボヤきは一向に止まらなかった。
もう咎めても無駄と思ったのか、シゲは黙り込み、相方と口を利かない。
そんな兄貴分の代わりに颯太が再び口を開いた。
「兄貴たちはこういうの、初めてじゃないんスか」
「おれらはこれで三回目だ。ただし、これまでは相手もスジ者で、しかもやることは遺体の処理のみだった。生きてる人間を、それも女を消したことはさすがにねえ」
「ってことは兄貴たちも初体験ってことっスね」
「何が初体験だ、馬鹿野郎」ユキナリが力なく言う。「そういえばおまえ、この女と知り合いだったんじゃねえのか」
「そうっス。つっても顔見知り程度っスけどね」
「平気なのか」
「全然平気っスよ。余裕っス」
沈黙が流れた。
「おまえ、実はヤベえヤツだったんだな」
「どうしてっスか」
「ふつうはそんなふうに割り切れねえよ」
「そうっスか。だって、別に友達でもなんでもない女っスよ。それに自分、ここらで男を上げたいんで」
失笑が起きた。
「やっぱり、おまえはとことん頭が悪りィんだな」
ユキナリが呆れたように言い、シゲも「ああ、きっとこいつの末路は鉄砲玉だ」とつづいた。
これらの会話を聞きながら、七瀬は深い絶望を味わっていた。
颯太なんかに望みを託したのはまちがいだった。
「それにしてもこの女、起きねえな」
「睡眠薬飲んでるからだろ」
「にしたって、こんなに起きないもんか」
「案外もう死んでたりしてな」
「だとしたら、そっちの方が助かるわ」
「ああ、だな」
ここからは誰もしゃべらず、不穏な静寂が車内を支配した。エンジンの低い轟音と、風を切り裂く音だけが響いている。それはまるで七瀬を地獄へ誘う旋律のようであった。
そうした旋律の渦の中、七瀬は一筋の光を探し求めていた。
それは生への道を照らす希望の光だ。
かつての七瀬ならば、すでにあきらめていたことだろう。そもそも抗うことすら、していなかったかもしれない。
しかし、今はちがう。
なぜなら自分はまだ死ねないのだ。
自分にはやり遂げねばならない使命がある。
それを果たすまでは、けっして――。