1 2019年10月7日


 日本一の歓楽街、新宿歌舞伎町――。
 世間はこの街をおっかないところだというが、七瀬ななせはちっともそうは思わない。七瀬にとって歌舞伎町は安息の地だ。
 この街は生まれも、人種も、性別も、過去も問わないでいてくれる。どんな者でも分け隔てなく迎え入れてくれる。
 なによりこの猥雑さがありがたかった。雑念を掻き消してくれるからだ。生まれてきた意味などといったくだらない考えに囚われなくて済む。それはまちがって生まれてきてしまった者にとって幸せなことだ。
「あー最高。死にてえ」
 二つ年上、十七歳のユタカがビルの上からひょっこり顔を出すゴジラヘッドに向けて叫んだ。
 新宿駅を背にして歌舞伎町の中心からやや左、旧コマ劇場の跡地に建てられた新宿東宝ビル――通称ゴジラビルの横にある広場が七瀬たちのホームだ。
 ここ最近、七瀬たちはトー横キッズだとかネオホームレスなどと呼ばれている。もっともそんなふうに呼ぶのはダサい大人たちで、当人たちは自分らが何者であるかなど考えたことはない。
 ただ、たむろしているだけ。ほかに居場所がないだけ。
「うぃー」
 ユタカたちの集団が奇声を上げながら踊り出した。その目はギンギンに見開かれていて、口元からは涎が垂れている。彼らは今日も今日とてキマっているようだ。
 オーバードーズ――風邪薬などを過剰摂取し、意識を朦朧とさせ、多幸感を得る行為をそう呼ぶ。
 七瀬も人に勧められて試してみたが、ただ気分が悪くなっただけだった。どうやら体質によって陶酔を得られる者と得られない者がいるらしい。
「あー誰かぶっ殺してぇ」
 またユタカが天を仰いで叫んだ。彼はハイになると時折こうした物騒な発言をするが、本当は小心者なのではないかと七瀬は疑っている。
 先週、コワモテのお兄さんに「ガキども、さっきからやかましいぞ」と凄まれた際、彼は脱兎の如く駆け出し、仲間を置いて消え去った。本当の本当に死にたかったり、誰かを殺したいのなら、実行に移してみればいいのだ。
 その点に限っていえば、自分の方が肝が据わっていると七瀬は思う。
 もっとも七瀬に自殺願望はない。殺人衝動に駆られることもない。ただ、今日で人生が終わりを迎えても構わないと考えている。
 たとえば占い師から、近い未来に死が訪れると宣告されたとする。そうしたら自分は静かにそれを受け入れるだろう。むしろ長生きすると告げられた方が気が滅入ってしまいそうだ。
 七瀬はユタカたちから少し離れた地べたに座り込み、紙煙草を吹かしていた。煙草の方は体質に合っていたようで、最近吸い始めたばかりだが、すでに手放せないものになっている。少し気だるくなれるところがお気に入りだ。
「なあちゃんは今日も可愛い」
 そう言ってとなりに座り込んできたのはプリン頭の十九歳、愛莉衣らぶりいだった。あだ名ではなく、本名がこれなのだ。
 彼女は七瀬よりも四つも歳上で、来月で二十歳になるのだが、お姉さんという感じはまるでしない。むしろ手の焼ける妹といった存在だ。だから自然と敬語を使わなくなった。
「うちもなあちゃんみたいなお顔に生まれたかった」
 愛莉衣が七瀬の頬を両手で包み込んで言った。彼女は会うたびに必ずこの台詞を言う。
「あーはやくお金貯めて顔面改造したい」
 これもいつものセリフだ。
「みんなにお金返して貰ったら?」
 七瀬は紫煙を燻らせて言い、ユタカたちの方をチラッと見た。
 愛莉衣は仲間たち――とくにユタカのグループ――に、千円、二千円とちょくちょく金を貸しているのだ。もっとも本人は貸したくないらしい。彼女は基本的に断れない性格なので、それを見透かしたユタカたちからせびられてしまうのだ。
「今、合計でいくら貸してるの?」
「人によるけど」
「だから全部でいくら?」
「うーん……全部だと、二十万とか」
「とかって」
「だって覚えてないんだもん」
 七瀬は鼻から紫煙を吐き出した。
「ちゃんと記録をつけておいた方がいいと思うよ」
 七瀬は基本的に他人に構おうとしないが、なぜか愛莉衣にはこうしたおせっかいを焼きたくなる。
 それはきっと恩があるからだ。
 半年前、七瀬が生まれ育った群馬を離れ、初めて歌舞伎町を訪れた際、「どこから来たの?」と声を掛け、諸々の手引きをしてくれたのは愛莉衣だった。仲間の中に自然と溶け込めたのも彼女がいたからだ。
 また、彼女からはよく身分証も借りていた。じゃないと十五歳の七瀬はカプセルホテルはおろかネットカフェすら利用できない。
「愛莉衣さ、ユタカくんたちからATMなんて言われてムカつかないわけ」
「えー。別にムカつかないよー。だって愛のあるイジリじゃん」
 呆れてため息をついた。愛莉衣はこれまで七瀬が出会ったことのないタイプの人間だ。
 だらしなくて、おめでたくて、人懐っこくて、情深い。過去を振り返ってもこういう人間が身近にいたことはなかった。
「昨日彼からもね、どこの誰にいくら貸したか、いつまでに返済してもらうのか、しっかりとメモっとかなきゃダメだぞって叱られた。だからおまえはカケが溜まって月末に苦しむんだぞって」
 それ彼じゃないじゃん、と言おうとしてやめた。
 愛莉衣は若くして“ホス狂い”の女だった。彼女は稼いだ金の大半を推しのホストに貢いでしまう。そして残ったなけなしの小銭を仲間たちに吸い取られてしまう。金など貯まるはずがないのだ。
 もし愛莉衣がホスト通いをやめて、人に金を貸すのをやめたら、贅沢な生活ができることだろう。正確な金額は知らない――本人もわからないらしい――が、少なく見積もっても、彼女は月に七十万円は稼いでいるはずだ。
 ビルの隙間から差していた西日が翳りを見せ、街のあちこちにネオンが灯り出した頃、十人ほどだろうか、ピンクのウインドブレーカーを纏った大人たちがこちらのテリトリーに入ってきた。
「あ、PYPの人たちだ」と愛莉衣が顔を綻ばせる。
 恵まれない若者を救済し、悪い大人たちから守ることを目的として活動している一般社団法人Protect Young People――その頭文字を取ってPYPと呼ばれている。
 彼らが歌舞伎町に現れるようになったのは三ヶ月くらい前からで、以来、週に二回ほどのペースでやってきては少年少女に声を掛け、食べ物を提供したり、悩みごとの相談に乗ったりしていた。また、そうした活動を自分たちで撮影し、SNSなどに載せて協賛金を募ったりもしていた。 
「世の中にああいう優しい大人っているんだね」
 愛莉衣が同意を促してきたが、七瀬は頷けなかった。
 多くの少年少女は彼らのことを好意的に見ているようだが、七瀬はそうではなかった。これといって嫌う理由はないものの、なんとなく彼らの同情的な眼差しが苦手だった。だから七瀬が施しを受けたのは、PYPが初めて歌舞伎町に現れた日の一回きりで、以来、彼らが寄って来ると姿を隠すようにしている。
「あたし、ちょっとブラッとしてくる」七瀬は煙草を足で踏んで消し、腰を上げた。
 すると愛莉衣も七瀬に倣って立ち上がった。
「別にあたしに付き合わなくていいよ。ご飯もらってくればいいじゃん」
「ううん。今はお腹空いてないからいい。それにそろそろお仕事しないと」
 二人並んで大久保公園の方に向かって歩き出す。
「ねえ、愛莉衣」七瀬は前を見たまま言った。「気をつけなよ」
「何に?」
「妊娠」
 愛莉衣は堕胎の経験が二度ある。どちらも誰が相手かはわからないらしい。
「それと性病。またもらっちゃうよ」
 彼女は先々月、クラミジアに罹患し、苦しんでいたのだ。
 愛莉衣はNGなし、オールOKの女だった。要するに中出しにアナルファック、なんでもさせてしまうのだ。だからこそ単価が高く、稼ぎがいいのだが。
 ちなみに彼女が客の男とセックスをする場所はレンタルルームやネットカフェ、公衆トイレや野外なんてこともあるらしい。
「ゴムくらいしてもらった方がいいと思うよ」
「大丈夫。今はちゃんとピル飲んでるから」
「性病はピル意味ないじゃん」
「まあそうだね。じゃあわかった。なあちゃんの言う通り、ちゃんとする」
「ううん。その顔はまったくわかってないし、ちゃんとしない」七瀬はため息をつき、肩をすくめた。「ま、どうでもいいけど。最後に困るのは愛莉衣であたしじゃないし」
「ねー。やだー。見捨てないでー」愛莉衣が甘ったるい声を出して腕を絡めてくる。「なあちゃんに見捨てられたら、うち生きてけなーい」
「十五歳にすがらないでよ」
「年齢は関係ないもん。なあちゃんはうちの親友」
「はいはい」
 と受け流し、七瀬は今にも途絶えそうな西日に目を細めた。もうすぐ歌舞伎町が本番を迎える。
「ねえ、なあちゃんはもうパパ活しないの?」
 実のところ七瀬もついこの間まで同じことをしていた。もちろん愛莉衣のようななんでもアリの女ではなかったのだが。
「うん。もうしない」
「ほかに収入源を見つけたから?」
「そう」
「……そっか」と愛莉衣は意味深な目を向けてくる。
「なに? なんか言いたそうじゃん」
「別に」
「言いなよ。親友なんでしょ」
 そう迫ると、愛莉衣は逡巡した素振りを見せてから、「なあちゃんがやってる仕事だけど、あれ、あんまり、よくないと思う」と訥々と言った。
「なんで」
「なんでも」
「だからなんで?」
「だって……とにかく、なあちゃんにああいう仕事は合ってない気がする」
 カチンときた。無性に腹が立った。
「大きなお世話」七瀬は愛莉衣の顔を見据え、冷たく言い放った。「前々から言おうと思ってたけど、変なとこで真面目ぶるのなんなの? マジでキモいから」
 言い終えたあと、七瀬は足を止めて愛莉衣の腕を振り解いた。そのまま彼女を置いて歩き出すと、「なあちゃん」と背中に声が掛かったが、振り返らなかった。
 大久保病院を横切り、大久保公園の通りに出た。この通り沿いにはパパ活目的の立ちんぼの少女たちが数メートル間隔で立っていた。愛莉衣も今からあの中に加わるのだ。
 そんな少女らの周辺には多数の男たちが群がっていた。みな、品定めするような目つきで少女たちを眺めている。その多くは四、五十代のおっさんたちで、中には七十歳をゆうに過ぎていそうなジジィの姿もある。
 もう見慣れた光景だった。なにより七瀬自身、ついこの間まであの女たちのうちの一人だったのだ。
 あそこから抜け出せたのは幸運だった。ずっと平気なフリをしていたが、いや、平気だと自分に言い聞かせていたが、やはり気持ち悪いおっさん共に抱かれている時間は苦痛でしかなかった。遅漏だった客に我慢がならず、金を返すからここで終わりにしてほしいと告げたこともある。
 男に組み敷かれているとき、過去のおぞましい記憶が必ずフラッシュバックする。それは強く鮮明に脳裡に映し出されるときもあるし、曖昧模糊としたときもある。ただ、一度たりとて思い出さなかったことはない。
 七瀬が処女を失ったのは十歳のときで、相手は実の父親だった。以来、父は度々、娘を犯した。
 幼き七瀬はそれを父の娘に対する愛情であると信じていた。いや、無理やり自分に信じ込ませていた。
 母は父のそうした行為を知りながら見て見ぬふりをした。どうして娘を守ろうとしなかったのか、母に訊ねたことがないので本当のところはわからないが、単純に現実を認めたくなかったのだろうと七瀬は考えている。
 母は現実逃避をして、空想にすがる人だった。だから怪しげな宗教に入信し、執心していたのだろう。

 

(つづく)