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 歌舞伎町で五指に入る一流ホストクラブと比べても、『Dream Drop』は内装の豪華さで引けを取らない。
 天井から吊り下げられたバカでかいシャンデリアにはクリスタルがふんだんに鏤められていて、どこから見ても眩しい。このスペイン製のシャンデリアこそが『Dream Drop』が醸す高級感の核を担っていた。もちろんソファーやテーブル、カーテンやカーペットもすべて上質な素材で仕立てられており、壁にはモダンなアート作品が随所に飾られている。これらすべてが客を甘く優雅な世界へと誘うための舞台セットだ。
 この日は売上の出やすい金曜日ということもあり、開店前に行われた営業ミーティングでは、ふだんにも増して店長の怒声が響き渡っていた。唾を浴びているのは売上の立っていない雑魚ホスト共だった。
「ったく、テメェら情けなくねえのかよ。とくにおまえ、客を取れねえならせめて酒くらいガンガン飲んでくれよ。ええ?」
 矛先を向けられたのは最近入った新人の真鳳まおだ。こいつはアルコール耐性がなく、一杯飲んだだけでいつも顔を赤くしている。ホストの中には酒を飲めない者もいるが、そういうヤツは飛び抜けてルックスがいいか、話術に長けているものだが、真凰はそうした武器を何一つ持っていなかった。
 なぜこんなヤツがホストを目指したのかと、世間は不思議に思うだろう。だが、こういう勘違い野郎がホストクラブの門を叩いてくることは珍しくなかった。楽して大金を稼いで、女ともヤリたい放題――ホストにそんな浅はかなイメージがあるからだろう。だが実際はまったくちがう。だから大半はすぐに過酷な現実に打ちのめされてすごすごと去っていく。
「おれが現役だった頃は死ぬほど気合い入れて飲んでたもんだぞ。鼻から逆流しても飲み干して、シャンパンコールが終わるまで笑顔で我慢して、終わったら速攻でトイレに駆け込んで――」
 そんな話を傍で聞きながら、裕隆は苦笑した。この四十代の店長はちょくちょく時代遅れな武勇伝を語る。 
「そういう壁を一つ一つ乗り越えて、おれはホストとして成り上がっていったんだ。夜の世界で男を磨くってのはそういうことだぞ。要するにテメェらは根性が足りてねえんだ――なあ、そうは思わねえか、ユタカ」
 裕隆は水を向けられ、「そうっスねえ」と、もったいつけて顎をさすってから口を開いた。
「おまえら、一つ訊きたいんだけど、野心は持ってるか?」
 誰も答えなかった。みな下唇を噛んで俯いている。
「持ってねえなら、さっさと辞めた方がいいと思うぜ。ふつうに就職して、ふつうの、つまらねえ生活を送れよ」
 裕隆はみなにそう言い渡したあと、ゆっくりと一人の男に歩み寄った。先ほど槍玉に上がっていた真凰だ。
「ここはおまえみたいなクソ陰キャが居ていい場所じゃねえんだよ」耳元で囁いてやった。
 裕隆が学生時代によく揶揄されていたワードがこの「陰キャ」だった。これは裕隆にとってもっとも屈辱的な言葉で、だからこそあえて多用している。 
「はいはい」と、手を叩いたのは店のNo.1ホストのれんだった。「ユタカも店長も新人くんを詰め過ぎ。みんなで仲良くやろうよ。仲良くさ」
 場が一気に白けた。こいつはいつも後輩たちの前でいい格好をしようとするので気に食わない。使えない雑魚ホストが中々辞めないのも蓮がいるせいだ。だが、圧倒的な売上を誇っている彼には店長はおろか誰も何も言えない。
 たいしてイケメンでもなく、色恋営業もせず、ただ客の話をうんうんとうなずいて聞いているだけのこいつがなぜNo.1なのか。実に腹立たしく、摩訶不思議である。
 裕隆はこの蓮を忌み嫌っていた。彼に何かされたわけではなく、むしろ駆け出しの頃は私生活においても世話になったくらいだが、自分が頭角を現してからはうざったくなり、嫌悪するようになった。だから事故にでも遭って死ねばいいと思っている。
 やがて開店時間が迫り、みんながせっせと店内清掃をする中、裕隆は堂々とソファーに陣取り、テーブルに鏡を立てて化粧直しをした。メイクはホストを始めた二年前からやっている。
 ほどなくして営業時間となり、盛りのついた猫どもがぞくぞくと店に押し寄せてきた。 
 今夜は自分の客である二十七歳の風俗嬢のレミと、二十一歳のパパ活女子のヒナノがやってくる予定だ。二人は犬猿の仲なので、いい具合に競い合って、売上に貢献してもらいたい。
 まずやってきたのは風俗嬢のレミだった。こいつは典型的な病み系で、ちょっとしたことですぐに「死にたい」と言う。そんなとき裕隆は必ず、「じゃあさっさと死ねよ」と突き放すことにしている。それがまた、レミを感じさせるのだ。
「レミ、今日ね、ちょっと凹んでるんだ」
 乾杯したあと、レミが肩を落として吐露した。彼女が手に持っているのはコカレロのトニックウォーター割りで、裕隆も同じ物を飲んでいる。
「どうせまた客と喧嘩して、店にクレーム入ったんだろ」
 裕隆は肩を揺すって言うと、図星だったようで、彼女は唇を尖らせた。
「でもね、今回は喧嘩なんてしてないんだよ。プレイが終わったあとになって、客のオヤジが『いつまでもこんな仕事してたらダメだよ』とかほざいてきたから、『やることやってから言うのはカッコ悪いですよ』って言い返しただけなの。それも冗談っぽくね。なのに、あとで店にクレーム入れやがって、そしたら店長が謎にガチギレしてき――」
 レミの話はいつもこんな感じだ。もちろん裕隆はうんざりしていて、それを態度にも出している。この女にはその接客が正解で、このからくりが理解できないようなホストはすぐに辞めた方がいい。
 レミの延々とつづく愚痴にテキトーに相槌を打って付き合っていると、パパ活女子のヒナノが店にやってきた。彼女は案内されたテーブルにつくなり、さっそく裕隆を呼びつけた。
「またあとでな」
 レミの膝の上にぽんと手を置いて立ち上がり、ヒナノのもとへ向かった。
「ちょっとユタカ、今あのブスの膝に触ったでしょう。ちゃんと見てたからね」
「っせーな。じゃあおまえのも触ってやるよ。ほれほれ」
 ヒナノの膝をわしわしと揉み込んで、彼女を笑わせた。
 客にボディタッチをするホストと、しないホストがいて、裕隆は前者だった。もっとも手や足くらいのもので、それ以外の部分は触らないことにしている。
 ホストの中には客とキスをしたり、セックスをする者もいるが、そういうヤツはきまって二流だった。 
 裕隆は色恋営業の手法を取っているが、絶対に客と寝ないと決めていた。理由は二つあって、一つは前述したもので、もう一つは単純に嫌だからだ。底辺の女共相手に一発でも出したくない。
 例のごとく、ヒナノはキャハハハと店中に響く声で笑っていた。この女はレミとは真逆で、底抜けに明るい性格をしている。二人の共通点は頭が悪いということだ。
 ヒナノのグラスが空になったので、裕隆はおかわりを作ってやった。ヒナノはハイボール一本やりの女なのだ。ほかの酒が好みじゃないのは仕方ないが、ボトルキープの角だけで済まそうとするのはタチが悪い。そういう意味では、たまにシャンパンを入れてくれるレミの方がありがたい。
「おまえさあ、たまにはおれのためにザキヤマを入れてやろうとか思わないわけ?」
 裕隆がマドラーでウイスキーとソーダを混ぜながら言った。
「思わなーい。だって二十万くらいするじゃん」
「金持ってるくせによォ。パパたちに貢がせた金を」
 ヒナノは愛人契約しているパパが四人いて、それぞれから月に一度、固定給を受け取っている。金額は会う回数とデート内容によるらしい。海外旅行に行って金まで貰える職業は、おそらくパパ活女子だけだろう。
 このパパ活女子というのは妙なもので、本人たちにはウリをしている意識はなかった。「友達に風俗で働いてるとは言えないけど、パパ活は言えるよね」という、よくわからない線引きが彼女たちの中には存在しているようだ。
「お金なんて持ってたらカケなんてしないでしょ。あ、そういえばあたし、今いくらくらいカケ溜まってる?」
「今日の分を入れないで、七十くらいだっけかな」
「マジ? もうそんなになってんの?」
「そう、なってんの」
「えーむりー。払えなーい。飛んじゃいたーい」
「どうぞご自由に。地獄の果てまでも追い込みかけるけどな」
 もしも客が飛んだ場合、業界の掟として、未精算のカケはすべて担当ホストの負担となる。仮に売掛金まで店の責任となるのであれば、ホストは可能な限り客に売掛をさせた上で、回収に本腰を入れることなどまずないだろう。ゆえに事前に借用書などを作成しておき、法律に基づいて取り立てるホストもいれば、客の実家を押さえておき、親に直接アプローチするホスト、取り立てる労力を考慮して自腹を切るホストもいる。
 ちなみに裕隆も過去に客に飛ばれ、そいつのカケを自腹を切って店に払ったことがある。もしも今後、そいつを街で見かけようものなら、顔面をボコボコにしてやるつもりだ。
 その後、レミとヒナノの間で担当ホストの取り合い合戦が勃発し、裕隆は何度も彼女たちのテーブルを往復した。互いに「あの売女」と罵るのがおかしい。
「なんとなんと! 素敵な姫様からルイ・ロデレール・クリスタルのシャンパンタワーが入りましたーっ!」
 店長がマイクを片手に高らかとアナウンスした。
 誰かと思えば蓮の客が頼んだものだった。
 クソが――裕隆は舌打ちして腰を上げた。これで今夜の売上も蓮に勝てないことが確定してしまったのだ。
 ホスト全員がフロアの中央にぞろぞろと集まり、蓮とその客を取り囲んだ。シャンパンタワーが入るとホスト全員で、祝福のコールをし、乾杯をするのが店の習わしだ。
「今夜はサイコー!(今夜はサイコー!)ほんとにサイコー!(ほんとにサイコー!) 」
 みながコールを叫ぶ中、裕隆は口パクで声を出しているフリをした。
「祭りだワッショイ!(祭りだワッショイ!) ワッショイワッショイワッショイワッショイ!(ワッショイワッショイワッショイワッショイ!) そーっれそれそれ(シャンパンタイム! シャンパンタイム!)一年三百六十五日(シャンパンタイム! シャンパンタイム!) そしたら行くぜっ、せーの!(いただきまーーす! )」
 裕隆はシャンパンタワーに手を伸ばし、グラスを一つ手に取って、天井を見上げて一気に飲み干した。ああ、クソ不味い。
 おざなりの拍手をして、すぐに元いたレミのいるテーブルに戻り、「おれもあんなふうに気持ちよくなりてえもんだな、おい」と当てつけを言った。
「ごめんね。誕生日には頼んであげるから」
「まだ半年も先じゃねえか」
 半年後、自分は二十四歳になる。それまでに何がなんでも店のNo.1になっていたい。早いところ蓮を越えなければ歌舞伎町のトップオブトップになるなど、夢のままで終わってしまう。
 それから裕隆はヒナノのテーブルに移動し、いくらもしないうちに、スタッフが出入り口の扉の前で、「ご新規一名、初回のお客様いらっしゃいましたー」と、やや上擦った声で叫んだ。
 すると、場内の空気が一変した。一瞬、このフロアの中の時が止まったかのような、少なくとも裕隆はそういう感覚を抱いた。
 スタッフの背後に佇む、黒いワンピースに身を包んだ小柄な女が、客をも含め、フロア中の視線を惹きつけたからだった。
 歳は二十歳過ぎくらいだろうか、遠目にも美人だとわかった。だが、それ以上に、彼女は周囲を圧倒するオーラ――それは形容し難い、不可視のものだ――を放っていた。
「お名前は愛お嬢様です!」再びスタッフが叫び、「愛お嬢、ようこそおいでなすって!」と、裕隆たちホストが応える。
 こんなお決まりの掛け合いも、どこかぎこちなくフロアに響いた。
 愛は真凰の誘導のもと、悠然とフロアを歩いていく。その途中、裕隆と目が合い、彼女は足を止めた。
 そして愛がフッと口元を緩めた瞬間、裕隆は心臓を射貫かれた。
 一目惚れしたとか、そういう比喩ではなかった。文字通り、矢が心臓を貫いたような痛みが走ったのだ。
 愛が案内されたソファーに身を沈めると、現在フリーのホスト四人が彼女を中央に置く形で座った。新規客にはまずはこうして団体芸で盛り上げ、その後にNo.1から順に十五分ずつ接客をするルールになっていた。その十五分の持ち時間の間に、客のハートを掴めるかどうかが勝負となる。もちろんこのあと、裕隆にも打順が回ってくる予定だ。

 

(つづく)