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 裕隆は帰り支度をして、千鳥足で店を出た。酒には強いと自負しているが、今夜はさすがに足元がおぼつかない。おそらくふだんの三倍は飲んでいるだろう。
 いつもならどこかで飯を食ってから自宅に帰るのだが、今夜は直帰することにした。きっと久しぶりにぐっすり眠れるはずだ。
 タクシーを捕まえようと通りに向かうと、セカンドバッグの中のスマホがメロディを奏でた。これは私用のものではなく、仕事用のものだ。
 レミかヒナノか、いや、おそらくは和美だろう。用件は文句か、もしくは謝罪か。
 あのように邪険に扱われてなお、客はホストに媚びてくる。ホストにハマる女に共通するのが、みな依存体質であるということだ。
 いずれにしても今対応するのは億劫なので、そのまま電源を落とそうとすると、着信相手がまさかの愛だったので、裕隆は慌てて応答した。
〈やっぱりアフターに行こうかな〉
 電話の向こうで愛が軽やかな第一声を発した。
 先ほど店で、裕隆が彼女をアフターに誘ったところ、「また今度ね」とすげなく断られていたのだ。
〈もう歌舞伎町を離れちゃったかしら?〉
「いや、まだいるけど」
〈よかった。じゃあこれから合流しましょ〉
 裕隆は鼻から息を漏らした。
「まったく、女王様ってのは気分屋だな。どうして急に行く気になったんだ?」
〈あたしって心が移ろいやすいの。風任せに生きてるから〉
 そんな小生意気な台詞を口にする。そしてそれがまたよく似合う。
 ほかの女なら絶対に取り合わないし、罵声の一つでも浴びせてやるところだが、愛ならば仕方ない。むしろ願ったり叶ったりだ。
「わかった。で、どこに行きたい? 焼肉か? 寿司か?」
 いずれにしても超高級店に連れて行ってやろう。費用はこっち持ちになるが、愛が落としてくれる金と比べれば小銭のようなものだ。
〈ううん。お腹空いてないもの〉
「だったらどこがいい?」
〈スナック〉
「スナック?」声が裏返った。
〈そ。ゴールデン街にある『きらり』って店に来てちょうだい〉
 聞いたこともない店だった。そもそもゴールデン街なんてしけたエリアに足を踏み入れたことなどない。あそこはしみったれた中高年の巣窟だ。
「どうしてまたそんなところに?」
〈わたしのお気に入りなの。お店の場所はね――〉
 通話をしながら、裕隆はすでに足を踏み出していた。ゴールデン街なら歩いて向かった方が早い。
〈じゃあ近くなったら電話して〉
 そう告げられ、勝手に通話を切られた。とことん、自分本位な女である。それなのに気分は悪くないのだから不思議だ。
 愛はこれまでどういう人生を歩んできたのだろうか。深夜の花道通りを歩きながら、裕隆は改めて思った。
 きっと数多の男を手玉に取ってきたのだろう。そうじゃなければあの歳であの貫禄は絶対に出ない。
 ほどなくして『新宿ゴールデン街』と表示された看板の下を通り、目的のエリアに足を踏み入れた。顔を赤くした飲んだくれがうろうろとしている。
 裕隆は指示通り、愛に電話を掛けた。彼女はワンコール目で応答した。愛の案内を受け、裕隆は入り組んだ細い通りを人とぶつかりながら進んだ。
 愛がお気に入りというのだから、少しは洒落た外観をしているのかと思いきや、『きらり』は周囲の店と比べてもボロく、もの悲しいほどに寂れていた。外壁には亀裂が伸びていて、入り口の木製の扉は塗装が剥がれ落ちている。
 その扉がギイィィと鈍い音を立てて開き、その向こうからにこやかな笑顔の愛が姿を現した。
「さ、入って入って」と手招きされる。まるで自宅へ招き入れるかのような仕草だった。
 外観から想像はついていたが、案の定、中もひどく廃れていた。猫の額ほどのスペースに細長いカウンターと六脚のスツールが所狭しと並んでいる。それらの調度品や床や壁、目に映るすべてが相当に年季が入っていて、裕隆は昭和の時代にタイムスリップしたかのような錯覚を抱いた。いったい、この店は何十年前からあるのか。
「いいところでしょう」
 とてもじゃないが頷けなかった。愛はこんな店のどこが気に入っているというのか。
「ほら、ユタカも座りなよ」
 先にスツールに腰掛けた愛が言った。彼女の前には飲みかけのトマトジュースが置かれている。
 裕隆は仕方なく、愛のとなりのスツールを引いて座った。
 そこではたと気がついた。
「そういえば店の人は?」
 そう訊ねた直後、裕隆は思わず「うわっ」と声を上げた。店内が薄暗いため、壁と同化してしまっていてわからなかったのだが、カウンターの向こうに急勾配な階段があり、そこから小柄な老婆が後ろ向きで、手をつきながら下りてきていたのだ。その動きがホラー映画のようで不気味だったのだ。
「おやおや、いらっしゃい」
 老婆が口を開いた。ひどくしゃがれた声だ。
「ママのさっちゃん」と、愛が紹介する。
 ママなんて年齢ではないだろう。おそらく九十歳近いはずだ。
「おにいさん、飲み物は?」と、老婆が黄ばんだ入れ歯を覗かせて言った。
 裕隆はそれに答えず、愛に顔を近づけ、「なあ、店を変えようぜ」と声を落として告げた。
「あら、どうして」
「だってさ……」
「いいじゃない。貸切なんだし」
「いや、けど……」
「こんな店じゃ飲めないかい?」老婆が口を挟んできた。
 どうやらババアのくせに耳がいいらしい。それにどういうわけか、妙に目がギラついている。
「わかったよ」裕隆は脱力して言った。「愛がいいならいいさ」
 焼酎の水割りを頼み、愛とおざなりの乾杯をした。
 ここからの愛は人が変わったように、自分自身のことをよくしゃべった。時折、トマトジュースに塩を振り掛け、喉を潤しながら、自らの過去を滔々と述べる姿は実に不可解だった。
 いったい『Dream Drop』での時間はなんだったのか。あのときはこちらがいくら訊ねても、いっさい答えようとしなかったくせに。
「本当によくわからねえ女だな、愛は」裕隆は苦笑して言った。「けど、愛が群馬の出身だったなんて意外だな」
「そうかしら」
「ああ。それにキャバ嬢をやってるってことにも驚きだ」
 愛は『Ranunculus』というキャバクラに一応在籍しているらしい。一応というのは、二ヶ月ほど前に面接を受けて採用されたものの、まだ片手で収まる程度しか勤務していないというからだ。
「社会勉強のつもりで入ったんだけど、学ぶものなんて何もないわね」
「じゃあやめちまえよ。愛には水商売なんて似合わねえぞ」
 裕隆はつまみに出されたナッツを口に放り込んで言った。愛には極力、ほかの男と接してほしくない。客にこんな感情を抱いたのは初めてだ。
「ところで知ってるか? 『Ranunculus』ってうちの店と同じ系列なんだぜ」
「オーナーが同じなんでしょう。浜口竜也」
 裕隆は愛の方に身体を開いた。彼女の口から浜口の名前が出てくるとは思わなかった。
「どうして浜口さんのことを知ってるんだ?」
「さあ。誰かから聞いたのかな」
 なんとなくごまかされた感もあったが、深く追及はしなかった。
 それからしばらくして、裕隆は大口を開けてあくびをした。急に猛烈な睡魔が襲ってきたのだ。左手首に巻いている腕時計に虚ろな目を落とす。すでに三時半を回っていた。
「なあ愛、そろそろこの辺で――」
 裕隆が退店を匂わすと、「実は愛って名前、本名じゃないの」と愛がぽつりと言った。
「なんだ。店での源氏名を名乗ってたのか」
「そういうわけでもないんだけど」
 裕隆は首を傾げた。
「大切な人の名前に、愛って字が入っていて、そこから拝借したの」
「ふうん。そう」
 つい空返事をしてしまう。眠くて眠くて仕方ないのだ。いったい、おれの身体はどうしたというのか。
「で、愛の本名はなんて言うんだよ」
 あくび混じりにそのように訊ねたものの、愛は裕隆の声が聞こえなかったかのように、「その子ね、五年前に死んじゃったんだ」と、勝手に話を進めた。
「ほんとバカな子でさ、身体を売って稼いだ金をホストなんかに貢いで――」
 愛の声が徐々に遠のいていく。
「周りの仲間にも金をせびられてばっかりで――」
 ダメだ。もう瞼が重力に逆らえない。
「最後はそいつらに見捨てられて、呆気なくあの世へ行っちゃった」
「愛、すまない。おれはもう限界だ」
 裕隆はそう言って、カウンターに突っ伏した。
 そのまま目を閉じようとしたところ、「愛莉衣――っていうんだ。その子」という声が鼓膜に触れた。
 愛莉衣――。
 裕隆の遠い記憶の扉がノックされ、そしてこじ開けられた。
「ねえ、あんた覚えてる? 愛莉衣のこと」
 愛は冷たい目でこちらを見下ろしていた。
 裕隆は唇を微かに動かした。だが、声を出すことは叶わなかった。
 背中の方でギィィィと扉が開く音がした。
 半開きの目を後方に向ける。
 巨大な黒い人影が立っていた。
「ナナセ。ゴキゲンイカガデスカ――」


後編3         2024年6月10日


 週始めの月曜日は、風林会館の洋食レストラン『パリジェンヌ』で豚テキ御膳を大盛りにして食べ、食後にフルーツパフェとガムシロップたっぷりのアイスコーヒーを合わせるのが、浜口竜也のルーティンだった。かれこれ十年以上つづけていて、おかげでこうしてぶくぶくと肥えてしまったわけだが、竜也にこのルーティンをやめる気はなかった。
 だがしかし、今日をもって、この愛すべき『パリジェンヌ』から、しばらく足が遠のくことになりそうだった。
 竜也はコーヒーカップを唇に当て、遠く窓際のテーブルに目を細めた。そこでは四人の男たちが卓を囲み、両足をおっ広げて談笑している。
 男たちの正体は誠心会の若い衆だ。誠心会は近年、関西圏で急速に勢力を拡大している指定暴力団で、そんな余所者の彼らが数ヶ月前から歌舞伎町を我が物顔で闊歩するようになっていた。
 竜也はコーヒーを半分残し、伝票を手にして立ち上がった。すると、竜也のあとを追うように、男たちもまた席を離れた。
 レジの前に立ったところで追いつかれ、「浜口さん、どうもこんにちは。奇遇ですね」と、一人の男が関西弁のイントネーションで言った。 
 竜也は鼻を鳴らし、「本当だね。ここのランチは美味しいでしょう」と話を合わせた。
「ええ。これから足繁く通わせてもらいますわ」男はニヤニヤしている。「にしても、お一人で呑気にランチとは、ずいぶん余裕の構えですね」
 竜也はこれには返答をせず、会計を済ませるべく、セカンドバッグから財布を取り出した。
「やっぱり、身の振り方を変える気はあらへんのですか」
 不穏な空気を感じ取っているのだろう、レジを打つ店員の指先は震えていた。
「浜口さんは義理堅い人なんやなあ。せやけど、浜口さんが仲ようしとる内藤組は沈みゆく船でっせ。早いところ脱出せんと、一緒に溺れて――」
「大きなお世話だね。余所者のおたくらにそんなことを言われる筋合いはない」
「そうですか。ほんなら、今後はもう少し警戒した方がええですよ」
 竜也は店員から釣り銭を受け取ったあと、彼らに笑顔を見せて「おおきに」と告げ、出入り口に向かった。

 

(つづく)