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 竜也は一つ深呼吸をして電話に応答した。
〈どこにいる?〉
「もう家ですけど」
〈ずいぶん早いな。すまないが歌舞伎町に戻ってきてくれないか〉
「今からですか」
〈ああ、そうだ〉
「どんなご用件で?」
〈おまえと相談したいことがあるんだ。内容は会ってから話す〉
 相談? 危険な香りしかしない。
「あの、今日じゃないとまずいですか」
〈ああ、急を要するんだ。なんだったら、こちらから出向いてもいいぞ〉
「いえ、それなら自分が」
〈そうか。事務所で待ってる〉
 電話が切れた。
 竜也は手の中のスマホに目を落とし、小首を傾げた。
 いったい、なんだというのか。矢島とは長い付き合いになるが、こんなことは記憶にない。
 とりあえず出かける支度をして、自宅マンションを出た。
 おもては相変わらずの雨だった。竜也は四谷の三栄通りに立ち、頭上に傘を掲げ、流しのタクシーを止めた。
 傘を折り畳んで乗り込み、改めて想像を巡らせる。急を要する相談事――いくら考えようともまるで見当がつかなかった。いったい、矢島からどんな話が飛び出してくるのだろう。
 思案に暮れていると、また手の中のスマホが着信した。今度は愛だった。
 竜也は応答し、用件を訊く前に今の状況を愛に話した。すると彼女は、〈わたしもその件で連絡したの〉と言った。
「どういうことだ?」
〈矢島のもとへ行ったらダメよ。あなた、殺されるわ〉
「な、なんだよ、殺されるって」
〈どうやらバレちゃったそうよ。あなたが誠心会と結託したことがね〉
「バカな。どうして……」
〈おそらくウタわれたんでしょ。あなたが信頼してたお仲間の誰かにね〉
 一瞬、意識が遠のき、手からスマホが滑り落ちそうになった。
〈ねえ、聞いてる?〉 
 返答できなかった。頭の中がしっちゃかめっちゃかで、話を冷静に捉えられない。
 本当に自分は売られたのだろうか。だが、矢島のこの急な呼び出しはたしかに不自然だ。宇佐美のもとに届いた根も葉もない噂といい、竜也の与り知らぬところで、ただならぬ事態が起きている。
〈あなたがユダであると、矢島が確信しているかはわからないけど、疑っていることはまちがいないわ〉
 となれば、この呼び出しはその真偽をたしかめるためだろう。
 だったらダメだ。絶対に行ってはならない。矢島に脅され、拷問に掛けられたら、自分には黙っていることなど不可能だ。
「きみはどこでその情報を掴んだんだ?」
〈だからそれをあなたに伝えようと思って。今からわたしと合流しましょ。ゴールデン街に来てちょうだい〉
「ゴールデン街?」
〈ええ。というのも、ユタカが最後に訪れた店がわかったのよ〉
「その件と、今の話が繋がってるということか?」
〈そういうこと。詳しいことはそこで話すわ。近くまで来たら電話をして。わかってると思うけど、このことはくれぐれも内密に〉
 電話が切れた。
 竜也はシートに背をもたせ、目を閉じ、両手で頭を抱えた。
 もうカオスだ。一体全体、自分の周辺で何が起きているのか。
 はからずも瞼の裏に破滅の文字が浮かんだ。その字は赤く染まっていた。 
「どの辺りで止めましょうか」
 運転手が声を掛けてきて、竜也は薄目を開けた。
「止めないでくれ。降りたくないんだ」
「はい?」
 このまま永遠に走りつづけてほしい。そしてどこか遠い、異邦まで連れ去ってもらいたい。
「冗談さ。ここらへんで降ろして。釣りはいい」
 竜也は運転手に五千円札を手渡し、区役所通りでタクシーを降りた。
 竜也は傘も差さずに、その場から濡れた街並みを拝んだ。歌舞伎町は相も変わらず、どぎついネオンに包まれている。
 この歓楽街も今日で見納め――なぜかそんな不吉なことを思い、竜也は慌てて首を左右に振った。 

「ユタカが最後に訪れたって店がここなのか?」
 竜也は改めて店内を見回し、となりに座る愛に訊ねた。
 こんなうら寂れた場所に、ユタカはどんな用があったというのだろう。この『きらり』というスナックは、間違っても若い人が寄りつくような店ではない。
「そうみたい。あのお婆ちゃんがたしかに彼を見たって」
 愛がカウンターの向こうを一瞥して答えた。
 そこには今にも心臓が止まりそうな、よぼよぼの老婆が腰をくの字に曲げて、竜也の注文した酒を作っている。
「あんな死に損ないのババアの記憶力をあてにしてどうすんだよ。きっと昨日のことだって覚えてねえぞ」
 竜也は声を潜めて言うと、「たしかにここ数年、物忘れが激しいからねえ」と老婆が口を開いた。 
 なんて地獄耳なのか。竜也は身を小さくせざるをえなかった。
 骨と皮だけの、骸骨のような手で、「はい。召し上がれ」と、竜也の前にハイボールが差し出される。
 竜也はグラスを手に取って持ち上げ、照明の光に当てて透かし見た。潔癖症なので、初めて訪れる店では毎回これをやってしまう。
 案の定、グラスが薄汚れていた。
 竜也が口をつけるのを逡巡していると、「どうしたの? 飲まないの?」と、愛が顔を覗き込んできた。
 竜也は一つ息を吐き、一気にグラスを呷った。もうヤケクソだ。
 氷だけになったグラスをドンと音を立ててカウンターに置き、「それで、おれを売ったのはどこのどいつだ」と、愛に訴えた。 
「あなたを売った相手はわからないわ。でも、矢島があなたを疑ってることだけはたしかよ」
「なぜそう言い切れる?」
「だって、わたしが頼まれたから」
「は?」
「だから、あなたのことを探るように、わたしが矢島から依頼を受けたの」
「ちょっと待て。それはどういうことだ」
 聞けば愛はすでに矢島と繋がっているのだという。具体的なことは明かしてくれなかったが、彼女は誠心会に近づいた手法と似たようなやり口で接近したそうだ。結果、宇佐美同様に、矢島は愛のことをお気に召したそうだ。
「矢島の女になったっていうのか」
「まさか。手駒として使えるかもと判断しただけでしょう。だいいちあの男、女相手じゃ勃たないわよ」
 竜也は驚き、愛に向けて身体を開いた。
「長い付き合いのくせに知らなかったの? 一目で同性愛者だってわかるじゃない」 
 まったく知らなかった。言われてみればたしかに、矢島が女を連れているところをこれまで一度も見たことがない。
「まあ、それはいい。矢島はどこでおれに疑いを抱いたんだ」
「さっきも言ったでしょ。あなたの周囲の人間が垂れ込んだか、もしくはどこかで噂を聞きつけた、そのどちらかでしょう。ま、わたしは前者だと思うけどね」
 竜也は下唇を噛んだ。もしも裏切り者の正体がわかったら八つ裂きにしてやる。 
「で、わたしにあなたの身辺を探って報告をしろ、っていうのがざっくりとした流れ」
 竜也は荒い鼻息を吐き、「おかわりをくれ」と老婆に告げた。カウンターに空のグラスを滑らせた。
「ところで今の話と、ユタカの件はどう繋がってるんだ?」
 竜也が訊ねると、愛は「そこはちょっと複雑なのよね」と言い、小皿の中の塩を指で摘んだ。そしてそれをグラスにさらさらと振り掛けた。彼女が飲んでいるのはトマトジュースなのだ。
「複雑って、何がどう複雑なんだ?」
「焦らないの。夜は長いんだから」
 舌打ちが出た。自分はこんなところに長居するつもりはない。場合によっては、明日からガラをかわさなければならないのだ。
「はい。召し上がれ」
 二杯目のドリンクが差し出された。グラスを持ち上げようとした瞬間、指が滑り、危うく倒してしまいそうになった。水滴で滑ったのではない。どういうわけか、指に力が入らなかったのだ。
 竜也は自身の手の平に目を落とした。揉み込むようにして、五本の指を動かす。若干、麻痺している感があった。
 そんな竜也の様子を愛は目を細めて見ていた。
 その愛が、「一つずつ、順を追って話すわね」と、静かな口調で言った。
「まず、ユタカはもうこの世にいないわ」
「いないって……本当に殺されたっていうのか」
「ええ。ただ、下手人は誠心会でも、内藤組でもない」
「じゃあ誰が?」
「女よ」
「女?」
「ええ。女」
「まさか、和美か」
「いいえ。別の女」
「そいつはおれも知ってる女か」
「ええ。知ってる女」
「誰だ?」
 だが、愛はこれに答えず、話を進めた。
「すべて、その女のせい。あなたが今、こうして窮地に追いやられているのも、すべてその女が仕組んだことよ」
「どういうことだ? わけがわからねえぞ。それに、さっきはおれの周囲にいる奴が矢島に垂れ込んらっれ言っれ……」
 あれ、なんだ――上手いこと呂律が回らない。いや、それどころか焦点も定まらない。目に映るすべてがゆらゆらと波打っているのだ。
 竜也は目を擦ろうとした。だが、それは叶わなかった。腕が持ち上がらなかったからだ。
「その女がユタカを消し、あなたをこうして破滅の道に追い込んだの」
 ついには姿勢を保つことすらままならず、竜也はカウンターに突っ伏した。冷たい卓に頬をぴったりとつけ、かろうじて愛の顔を見上げる。
「あなたも愚かよね。自分が使った作戦に、まんまと引っ掛かるんだもの」
 おれが使った作戦――?
「あなた、こんなふうに力になるフリをして、わたしを誘き出したでしょう? 薬を混入させて、自由を奪ったでしょう?」
 こいつは何をしゃべっている――?
 ここで愛が目をカッと見開き、その顔をゆっくりと近づけてきた。
「忘れちゃった? あたしのこと」
 ――?
 その衝撃は遅れてやってきた。
 漆黒の色をした大波が猛然と襲い掛かり、竜也のすべてを瞬時に飲み込んだ。そして絶望という名の深淵へと引き摺り込んでいく。その禍々しい力に、竜也はなす術がなかった。
 愛の――いや、七瀬の顔を直視できなかった。竜也は目の前の現実を遮断するかのごとく、瞼を下ろした。
 その数秒後、眼球に圧力が掛かった。そして瞼を強引に持ち上げられた。
 竜也の視界が捉えたのは愛ではなかった。
 先ほどの大波と同じ、闇に溶けそうな肌色をした、大男だった。

 

(つづく)