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 さて、これからどこへ行こうか。飯はもういい。颯太のせいで食欲が失せてしまった。
 とりあえず落ち着いてスマホを眺められる場所がいい。辻から奪ったデータを自分なりに吟味するのだ。
 となるとネットカフェくらいしかないか。
 そうして七瀬が花道通りを歩いていると、「あ、七瀬」と、前方から知った女が二人、駆け寄ってきた。トー横キッズのレミとモカだった。
「今ヤクザみたいな奴らがうちらのとこきて、七瀬のことを見かけなかったかって訊いてきたけど、なにかあったの」
「別に」
 七瀬はそれだけ言って、踵を返し、進路を変更した。ネットカフェはやめた。きっと七瀬が行きそうな場所には矢島の配下がやってくることだろう。たとえ奴らに見つかったとて、その場で攫われはしないだろうが面倒にはちがいない。
 そうなってくると、自分が歌舞伎町の中で身を落ち着けられる場所は『きらり』しかない。あそこならまず見つかる心配はないだろう。
 だが、昨夜の一件があるのでサチを頼りづらかった。七瀬はサチを邪険にして、別れの挨拶もせずに店を出てしまったのだ。
 仕方ない。自腹で手土産を持っていくか。
 七瀬は東通りに向かった。
 二日連続でやってきたからか、コディはぎょろっとした目で七瀬を見据え、「ヤリスギダメデスネ」と、注意してきた。麻薬の売人が客の身体を気遣うのだからおかしな話だ。
「何べん言えばわかるの。あたしは一回もやってないって」
「アヤシイデスネ」
「ほんとだって。いいから早く売ってよ。こっちは急いでんの」
 七瀬はそう言って周囲に目を配った。見渡すかぎり、追っ手はいなそうだ。
「ナゼイソイデルデスカ」
「あたし、今ヤクザに狙われてんの」
 そう答えると、コディはスッと目を細めて、見下ろしてきた。五十センチ近く身長がちがうので、七瀬は空を見上げるような格好になる。
「ソレハマジデスカ」
「うん。大マジ。命の危険ってやつだね」
 コディの頬が波打っている。口の中で舌を動かしているのだ。
「デハヤッツケマショウ」
「は?」
「ワタシガコラシメテアゲマスネ」
「だから相手はヤクザだって。コディ、殺されちゃうよ」 
 そう言うと、コディはにんまりと笑った。相変わらず歯が真っ白だ。
「ジャパニーズマフィアゼンゼンコワクナイデスネ。ワタシタチコワイナカマイッパイデスネ」
 七瀬はコディの顔をまじまじと見た。すると彼はウインクをしてきた。
「この前は頼んでも断ってきたくせに」
「コノマエハネラワレテルトイッテマセンデシタ」
「へえ。あたしのピンチなら助けてくれるんだ」
「モチロンデスネ。ワタシ、ナナセノコトイジメルヒトユルシマセンネ」
 コディはそう言って、でかい両手で七瀬の顔を包み込んできた。
「モウムスメヲウシナイタクナイデスネ」
 勝手に娘にしてくれるなと思った。でも悪い気はしなかった。
「じゃあそのときが来たら頼らせてもらうね。とりあえずブツをちょうだい」
 七瀬が手の平を差し出すと、「サキニオカネクダサイ」と言われた。
 娘でもきっちり金は取るらしい。
 別れ際、コディは七瀬の頬にキスをしてきた。甘い香水と独特の体臭とが入り混じった匂いがした。
 つづいてゴールデン街に向かった。晴れの日の昼間でもこの路地裏はジメッとしていて薄暗い。巨大なネズミが二匹、七瀬の前を横切った。
『きらり』のドアを二回ノックし、「海」「山」の符号を交わした。サチはドアを開けるなり、七瀬を抱きしめてきた。こっちは老人臭が香った。
 手土産を渡すと、サチは代金を渡してこようとしたので断った。
「そのかわり焼きうどんかなんか作ってよ。あたし腹減ってんの」
 七瀬はカウンターに座って言った。やっぱり何か食べたい。
「あんた、年寄りをコキ使うとバチが当たるよ」
 サチはそう言いながらもどこかうれしそうだった。   
 ほどなくして出された焼きうどんを食べながら、スマホを操作した。改めてデータファイルを開いてみる。数字の表とむずかしい言葉の羅列にげんなりした。
 そうしてスマホとしばらく睨めっこをしていると、
「さっきからむずかしい顔して何を見てんだい」
「たぶん説明しても、さっちゃんにはわからないよ」
 もっとも自分にもやっぱりわからない。補助金やら助成金やら本当にさっぱりだ。ファイル名に裏帳簿とでも書いといてくれたらいいのに。
 それでも根気強く一つ一つのファイルを開き、隅々まで目を通していると、いくつかわかったことがあった。
 それはPYPがN財団というところから多額の資金提供を受けていること、またそこに東京都知事の池村大蔵も関わっていること。
 もしかしたらこれらが、矢島が漏らした「おいおいマジかよ」なのかもしれない。
「そういえばさっちゃんの言ってた通りだったよ」
「何がさ」
「都知事の池村っておっさん、あれはたしかにペテン師だね」
「どっかで見たのかい」
「会って話した」
「七瀬が? これまたどうして」
「あっちがあたしと話したかったんだって」
 サチが肩をすくめる。七瀬が冗談を言ったと思ったのかもしれない。 
「あんなのが総理大臣になっちまったら日本はいよいよ終わりだよ」
「総理大臣?」
「目指してるんだとさ。公言はしてないらしいけどね」
 池村の強欲そうなツラが頭に思い浮かんだ。仮にこの手元にあるデータによってPYPが落ちぶれたら、共に池村も失墜するのだろうか。
「さっちゃん、命狙われたことってある?」
 七瀬はふいにそんな問いかけをしてみた。
「命?」
「そう」
 サチは首をぽりぽりと掻き、「警察に追われたことはあるけどね」と答えた。
「あんた、誰かにタマ狙われてんのかい」
「タマって。ヤクザみたいな言い方やめてよ」
「いいから。いったいどこのどいつだ?」
 サチは真剣な眼差しで、怒ったように言った。
「別に誰にも狙われてないよ。聞いてみただけ」
 なんとなく話すのはやめた。昨夜みたいに説教を食らってはかなわないし、あまりこの老婆を面倒ごとに巻き込みたくない。
「ごちそうさま。あたし、ちょっと上で寝てくる」
 七瀬はそう言ってスツールを離れ、カウンターの中に入った。
 腹を満たしたら眠気がやってきたのだ。やっぱり睡眠が足りていないようだ。
 身を縮めて狭い階段を上がっていると、下から「湯たんぽいるか」と訊かれたので、「いらない」と答えた。
 二階はサチの居住部屋となっていて、たまに七瀬も昼寝に使わせてもらっている。広さは四畳半で、天井がやたら低い。コディなら腰を屈めないと移動できないだろう。
 中央に畳まれた布団を広げ、コートを脱いで横になった。毛布と掛け布団を被るとサチの匂いに包まれた。
 今後、どのように動くかはまた起きてから考えよう。今はただ眠りたい。

 目覚めたらまさかの夜になっていた。窓がないのでおもての様子はわからないのだが、枕元に置かれたスマホの時刻は二十二時だった。
 昨夜あれだけ惰眠を貪ったのに、まだこれほど眠れるのだから、この二週間、自分は相当に寝不足だったのだろう。
 上半身を起こし、重い頭を振った。寝ぼけまなこを擦る。
「さっちゃーん。いるー?」
 あくび混じりに声を上げた。待ったが返事はなかった。
 七瀬は布団を出て、階段を下りて行った。するとカウンターの内側に置かれた椅子に背中を丸くして座るサチを見つけた。置き物のようにまったく動かない。
 ただし、死んでいるわけではなさそうだった。いびきを掻いているからだ。
 悪いことをしたなと思った。自分がサチの寝床を奪ってしまったせいだ。
 勝手に冷蔵庫を開け、トマトジュースを取り出し、コップに注いだ。そこに少量の塩を振り掛ける。
 ごくごくと喉を鳴らし、一気に飲み干した。寝起きのトマトジュースは格別だった。いつのまにかこの飲み物が好物になってしまったようだ。
 ふーっと一息ついたとき、ポケットの中のスマホが振動した。取り出してみると、相手は浜口だった。どうせまた、今夜働けないかといった相談だろう。
 面倒なので無視しようかと思ったが、少し考え、七瀬は出ることに決めた。
「もしもし」
 と、応答すると、〈ああ、よかった。繋がった〉と、浜口のため息混じりの声が聞こえた。
〈今さっきおれんところに矢島から連絡があって、今すぐ七瀬ちゃんを見つけて連れて来いって――〉
 やっぱりそうか。そうではないかと思ったのだ。
〈七瀬ちゃん、いったい何をしたのよ〉
「別に何も」
〈何もしてなかったらこんなことになってるはずがないじゃない。あいつものすごい剣幕でキレてたよ〉
「でしょうね」
〈でしょうねって……一応訊くけど、相手が誰だかわかってるよね? あの男、内藤組の若頭だよ〉
「別に浜口さんに迷惑掛けませんから。それじゃあ」
〈ああ、待って待って〉浜口が慌てて制止する。〈七瀬ちゃん、今どこにいるの?〉
「言えるわけないじゃないですか」
〈どうして? まさかおれが七瀬ちゃんを矢島に売るとでも思ってるわけ?〉
「さあ、わかりません」
〈……心外だなあ。おれ、そんなこと死んでもしないぜ〉
 どの口が言うと思った。七瀬をヤクザ事務所へ連れて行き、置いて先に帰った前科があるというのに。
〈だいいち、おれだって矢島に恨みがあんだから。そんな野郎の肩を持つわけないでしょう。おれね、いつか必ずあいつに仕返ししてやろうって心に誓ってんだ〉
 浜口は鼻息荒く言った。
〈だからもし、おれが力になれることがあったら言ってよ。矢島を闇討ちしてくれなんて頼みだったらさすがに困っちゃうけど、それ以外ならなんでも協力するからさ〉
 七瀬はカウンターの外に出て、端のスツールに腰を下ろした。
「浜口さんって、マスコミとかに知り合いいますか?」
〈マスコミ? まあ、いるっちゃいるけど、どうして?〉
「どういう人ですか? その人」
〈どういう人……うーん、雑誌の編集者だけど。芸能人の不倫とか、そういうスキャンダルをすっぱ抜くので有名な週刊誌のね〉
「その雑誌、政治家とかも扱いますか」
〈もちろん扱うよ。ついこの間だって、J党の女性代議士の無免許運転事故を報じて、離党に追い込んだんだから〉
「K党と繋がってたりしませんか」
〈K党? まずないね。どの業界、派閥にも忖度しないことで有名だから。っていうか七瀬ちゃん、まさか政治家のスキャンダルを抱えてるわけ? いったいどういう状況よ〉
「正確にはこれがスキャンダルなのかどうか、あたしにはよくわからないんです。でもおそらくそうじゃないかと思うんです」
 そう告げると、浜口は〈はあ〉と曖昧な反応を示した。
〈ちなみにそれがスキャンダルだった場合、矢島にも累が及ぶってこと?〉
「たぶんダメージはあると思います。だから必死であたしを止めようとしてるんです」
〈なるほど。だったらやらない手はないね。その人を七瀬ちゃんに紹介するよ〉
「できますか」
〈もちろん。ちょっと待ってて。すぐ折り返すから。日々ネタ探しに夜の街を歩き回ってる人だから、すぐ捉まると思うし、事情を話せばすっ飛んで駆けつけてくれると思うよ〉
 電話が切れた。急な展開にやや困惑した。だが、これはチャンスだろう。
 カウンター越しにいるサチを見た。一向に起きる気配はなく、ぐうぐうと寝息を立てている。

 

(つづく)