4(承前)
「どうして自分が指名されたのかって?」
微笑を浮かべた愛が口を開いた。
「そりゃそうだろ。なんせおれは小心者の、根暗の、ちょっとイタいぼくだからな」
「ふふふ。ずいぶんと根に持ってるのね」
「当たり前だろう。いったい、どういうつもりだ。新たな嫌がらせか」
「ちがうわよ。まあ、となり座って」
促され、裕隆はやや警戒しながら愛の横に腰を沈めた。女の甘い香りが鼻をくすぐる。
「とりあえず、お酒作って。ロックで」
裕隆は舌打ちをして、卓上のウイスキーの瓶に手を伸ばした。銘柄はスプリングバンクで、二十五年モノだ。これは店にも一本しかない貴重なウイスキーで、裕隆も飲んだことがない。
「あなたも飲めば?」
「よろしいんですか? 自分なんかがいただいて」
卑下して言うと、愛は真っ白な歯を覗かせて、「どうぞ」と勧めてきた。
裕隆は氷を入れずにウイスキーをグラスに注いだ。ふだんは酔わないために水割りかソーダ割りしか作らないが、滅多に飲めないものなので、どうせならストレートで味わうことにした。
「じゃあ、仲直りの乾杯」と、愛がグラスを近づけてきた。
「仲直り?」
「そ」
「すると思うか」
「あら、してくれないの?」と不敵な笑みで迫られる。
自分とそう変わらない年齢だろうに、この余裕と貫禄はなんなのか。
裕隆にそのつもりはなかったのだが、気がついたら愛のグラスに自らグラスを重ねていた。操られたようで悔しかった。
ウイスキーを一口舐めてみる。まずはバニラやハチミツなどの甘い香りが鼻腔を突き抜けた。そこに塩っぽさが加わり、最後に焚き火を思わせるウッディ感が一気に押し寄せ、その余韻はどこまでもつづいた。
なるほど、こりゃあ高いわけだ。であるにも拘らず、愛はそんな貴重な酒をあっさり飲み干した。
「おかわり」
指示通り、裕隆はもう一杯、ウイスキーロックを作り、愛に差し出した。
「ねえ。この半月、どういう気分だった?」
「最悪だよ。夜も眠れないほどあんたにムカついてた。店に来るたびにぶっ殺してやりたいっていつも思ってた」
裕隆が正直に吐露すると、愛は愉快そうに手を叩いた。
「あたしのことずっと睨みつけてたものね」
「ちなみに今もまだ思ってるぜ」
「あら、執念深いことで」
愛は肩をすくめ、またも一気に酒を呷る。
「なあ、教えてくれよ。これはなんのつもりなんだ」
「だから仲直りだって言ったじゃない。以後、お近づきになりましょ」
「ふざけるなよ。永久指名のルールを知らないわけじゃないだろう」
「そんなのどうだっていい。あたしがルールだから」
愛が女王様のような台詞をサラッと口にした。その顔をまじまじと見る。認めたくないが、クイーンが板についていた。
「真凰のことはどうするんだよ。捨てるのか」
「捨てるも何も、あんな坊ちゃん、最初から相手にしてないもの」
裕隆は眉をひそめた。
「意味がわかんねえな。だったら、これまではなんだったんだ」
「お遊び」
「は?」
「わたしね、気に入った男を嫉妬させたり、怒らせたりするのが趣味なの」
「ってことは、つまり……」
「そう。わたしの狙いは最初から――」愛の両手が伸び、裕隆の頬に添えられる。「あなた」
裕隆は石化したかのごとく硬直してしまった。瞬きすらできない。まるでメデューサに睨まれたかのようだった。
やがて、
「なんだよ。そうだったのか。そういうことだったのかよ」
と、裕隆は唇だけで独り言ちた。
「ふふふ。そういうこと」
だが、まだ半信半疑だった。
もっとも、愛の告白を真実だと受け入れている気持ちがやや勝っている。冷静に考えればこのおれが真凰のようなションベン臭いガキに負けるわけないからだ。
愛の瞳を突き刺すように凝視する――嘘偽りないと判断した。
直後、歓喜の雄叫びを上げたい衝動に駆られた。
その衝動を抑えるのは簡単ではなかった。裕隆はきつく腕を組み、自らの肉体を拘束したほどだ。
「ねえ、大丈夫?」
まったく大丈夫ではなかった。受験に落ちていたと思っていたのが、実際は受かっていた。言わばそういうことだ。平静を保つことなど誰ができよう。
「ごめんね。プライドを傷つけちゃって」
「まったくだ。いくらなんでも悪趣味過ぎるぜ」
「許していただけるかしら?」
「ああ。お嬢様の火遊びってことで、大目に見てやるよ」
「ありがとう。じゃあ、お詫びにお酒入れてあげる」
愛が黒辺を呼びつけ、新たなボトルを注文した。
耳を疑った。それがまさかのヘネシーリシャールだったからだ。店がつけている価格は三〇〇万を下らない。
「ヘネシーリシャール、で、お間違いないでしょうか」
困惑気味の黒辺が念を押すように確認をした。
「そう言ったつもりだけど」
「かしこまりました。すぐにご用意致します」
黒辺は愛に深々と腰を折ったあと、「ユタカさん、ちょっと」と、裕隆に耳打ちしてきた。
裕隆は愛に断って席を離れ、フロアの隅で黒辺と向かい合った。
「やべえなおい。ヘネシーリシャールだってよ。おれ、初めてだよこんなの。おまえもこんなオーダー受けたことがねえだろう」裕隆が鼻息荒く捲し立てる。「で、なんだよ」
「和美さんが早くユタカさんを呼び戻せと」
「ああ」
すっかり忘れていた。和美の方を見る。こちらを睨みつけていた。
「あの通り、ひどくご立腹です」
「そりゃそうだろうな。ちょっと待ってろ」
裕隆はそう言うや、和美のもとへ足早に向かった。
「和美。すまないが今日は帰ってくれ」
立ったままそのように言いつけると、和美は眉根を寄せた。
「どうやらあっちのお客さんに真凰が粗相をしちまったようでな、その埋め合わせをしなきゃならなくなっちまったんだ」
「どうしてそれをするのがユタカなのよ」
「おれしかいねえんだよ。こういうトラブルを上手いこと処理できんのは。つーわけで、すまないが今夜は――」
「やだ。納得いかない」
「そこをなんとか。埋め合わせはちゃんとするから」
「やだ」
「なあ、わがまま言わないでくれよ」
「これわがままなの? ちがうでしょう」
「そうか。おれがこんなに頼んでもダメか。じゃあおまえ、もういいや」
「もういいって、なによ」
「だからもういい。二度と店に来んな」
そう言い渡すと、和美が目の色を変え、顔を赤くした。
「おれを困らせるような女に用はねえんだよ」
「ひどい。これまであんたにいくら使ってきたと思ってるの」
「知らねえな。ほれ、会計払わないでいいからとっとと帰れ」
追い払うように手をひらひらと振って告げると、和美は顔を震わせて歯軋りをした。そして平手でテーブルを叩きつけ、大股で出入り口へ向かった。
裕隆はその背中に向けて鼻を鳴らした。
あんな女、もうどうだっていい。愛さえ手に入れてしまえば自分はこの店の、いや、歌舞伎町のトップホストになれる。
「よかったの? あの女の人、ユタカのお客さんでしょう」
愛のもとに戻ると、彼女は悪戯っ子のような表情でそう訊いてきた。
「平気さ。おれはおまえさえいればほかに何もいらない」
するりとキザな台詞が出た。本心だから恥じることもない。
「うれしい。でも、おまえはやめてね。ちゃんと名前で呼んで」
「おっと悪かった。愛さえいればほかに何もいらない」
ここからはヘネシーリシャールを味わいながら、互いの身体を寄せ合い、密度の濃いやりとりを交わした。
もっとも、裕隆は自身のことをしゃべらされてばかりいた。愛が執拗に質問を浴びせてくるからだ。一つ答えると、すぐにまた次の質問が降ってくる。
「でも、どうして学校に行かなくなっちゃったの?」
愛が顔を覗き込みながら訊いてきた。裕隆は中卒で、だがその中学校にもろくに通っていなかったと話したのだ。
「くだらねえと思ってたから。おれ、かなりませてたからさ、周りの奴らがどうしても幼く見えちゃって――」
本当はいじめが原因だった。クラスメイトの全員にハブられたことで教室で孤立し、その状況に耐えきれなくなって、以来裕隆は自宅に引きこもるようになったのだ。ハブられた原因は、今もってよくわからない。嘘つきであったことはたしかだが、それだけであんな仕打ちを受けなくてはならなかったのだろうか。
「こんな話はどうだっていいだろう。そんなことより、おれは愛のことをもっと知りたい」
今、愛についてわかっていることは、彼女の年齢が裕隆より二つ年下の二十一歳であること、そして先月、歌舞伎町にやってきたということだけだ。ほかの質問はすべて、「さあ」とか、「ふふふ」といった微笑ではぐらかされてしまっていた。
改めて問うてみたものの、やはり愛はのらりくらりとかわし、いっさい答えようとしてくれない。
「じゃあこれだけ教えてくれよ。愛はどうしてそんな金を持ってるんだ?」
裕隆は焦れったくなり、核心に触れた。彼女の財源については是が非でも知りたい。
「家がお金持ちなの。ただそれだけよ」
「親は何をしてる人?」
「さあ、知らない」
「知らないって」
「だって本当なんだもの。訊ねても教えてくれないの」
もし仮にそれが事実なのだとすれば、彼女の親は世間には公にできない要職についているか、もしくは反社のどちらかだろう。
おそらくは後者だろうなと見当をつけた。そうでなければ娘がこんな金の使い方はできない。
「親御さんはどこで暮らしてるんだ?」
「ドバイだけど」
「ドバイ?」
「そう。ちなみに、わたしも十代のときはそっちで暮らしてたの」
ますます親が反社の可能性が高まった。ワルい金持ち連中の集まる場所はドバイと相場は決まっている。そして愛の散財ぶりにも合点がいった。この女は豪遊が身に染み付いているのだ。
裕隆が想像を働かせていると、「何か考え事かしら?」と再び顔を覗き込まれた。
「いや、ドバイだなんて羨ましいなと思って」
「じゃあ、いつか一緒に行きましょうよ」
「ああ、是非」
心から言った。桁外れな金持ちの暮らしぶりを覗いてみたいし、叶うことなら自分もそっちの世界の住人になりたい。
少なからずその可能性が生じたことに裕隆は昂りを覚えた。新宿の片隅でドブネズミのように生息していた自分が、世界の富豪が集う場に立つ――想像しただけで笑みが溢れた。もしもそれが現実のものとなったら、永遠に笑いが止まらないだろう。
この夜、裕隆は身も心も酔いしれていた。高級な酒と、目の前の女がそうさせたのだ。
「やってないって、どういうことだ?」
裕隆は痺れた頭を傾げて訊ねた。
閉店後の深夜、締め作業に一人残っていた黒辺を捕まえ、バックヤードに連れて行き、真凰を貶めた一件を改めて褒めると、この男は「自分は何もしていません」と不可解なことを口にしたのだ。
「それはつまり、クスリを盛ってねえってことか」
「はい」
「嘘をつけよ。だったら、なんで真凰はあんなに苦しんでたんだよ」
「だから自分もわけがわからなくて。自分はユタカさんが自らやったんだって思ってたくらいです」
「おれがそんなことをできるはずがねえだろう」
自分は営業開始からずっと客の相手をしていたのだ。真凰のグラスに近づくことなどできやしない。
「たしかにキャストには物理的に不可能ですよね。となると、本当に真凰くんは食当たりだったんですかね」
「偶然ってことか? そんなことあるわけないだろう」
さすがに神様がそこまでお膳立てしてくれたとは考えられない。
「なあ、正直に言えよ。おまえなんだろ?」
キャストのドリンクを作り、テーブルに届けているのはスタッフなので、その行為が可能なのは黒辺を含む数名だけ。だが、指示をしていない黒辺以外の者がそんなことをする道理がない。
「ですから、本当に自分は――」
「いや、ちがうな」裕隆は手の平を黒辺に向けて突き出した。「おまえらの他にもそれができるヤツがいるな」
客だ。担当のキャストが席を外した際に、もしくは目を離した隙をついて、そのグラスにクスリを盛る――客ならば造作もないことだろう。
しかし、だとすると、下手人は愛ということになってしまうのだが。
愛がなぜそんなことを――そうか、なるほど。
裕隆は唇の片側を吊り上げた。
おそらく真凰をあの場から退けるためにやったのだろう。そしてそのことで店にクレームをつけ、ほかのキャストを寄越せといった無理難題を押し通す。あの女ならばやりかねない。
「ククク」
思わず笑い声が漏れ出てしまった。
愛はそうまでして、自分に近づきたかったのだ。ならば笑わずにはいられない。
裕隆の笑い声は徐々に増し、ついには「アーハハハーッ」と、高らかな声を店中に響かせた。
黒辺はそんな裕隆をしばし気味悪そうな目で見つめていたが、やがてそっと離れていった。