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 七瀬が目覚めたのは翌日の昼下がりだった。十二時間以上眠ったことになるが、まだ寝足りない感じがあった。
 思えば愛莉衣が死んで以来、ぐっすり眠れた日はなかった。
 シャワーを浴びてからホテルをあとにした。今日は空気が澄んでいて空が高かった。周囲のビルの窓が降り注ぐ陽光を跳ね返している。
 そんな光の中を歩きながら、七瀬はスマホを耳に当てた。 
 発信先は矢島だ。夜中に二回、彼から折り返しの着信が入っていたのだ。
 応答した矢島に対し、七瀬は単刀直入に質問をぶつけた。
 依頼主を裏切り、PYPに寝返ったのか、と。
〈まあ、そういうことだ〉 
 彼は二つ返事で認めた。
〈先を見据えた結果、その方が得が多いと踏んだもんでな〉
 悪びれる様子はちっともない。
「じゃあこの先PYPが潰れることはないわけ?」
〈そういうことになるな〉
「やなんだけど」
〈ん? どういう意味だ〉
「そのまま。あたしはPYPをぶっ壊したいの。なんとしてもね」
 矢島は一拍置いて〈わからんな〉と、つぶやいた。
〈おまえにとっちゃPYPなんざどうでもいい連中だったはずだろう。それがどうしてそうなった〉
「愛莉衣の死を利用したから」
〈利用した?〉
「藤原のババアは愛莉衣が死んでラッキーだと思ったんだってさ」
 そう答えると、矢島はクックックと低い声で笑った。
〈おい七瀬、らしくないじゃないか。おまえはいつからそんなおセンチなことを――〉
「いいからとっととあいつらを潰せよっ」
 七瀬は叫んだ。そばにいたサラリーマンが弾かれたように肩をビクつかせ、同時に「わっ」と声を出した。
〈結論から言う。不可能だ。なぜならおれにはそうするメリットがない〉
 冷静に告げられた。
「あっそ。わかった。あんたがやらないならあたしがやるからいい」
 そう言い返すと、矢島はしばらく黙り込んだ。
〈七瀬、おまえが誰に何を訴えたところで、証拠がなければ無意味だ。PYPは痛くも痒くもない〉
「あるよ。証拠。あんたが持ってるデータとまったく同じものをあたしも持ってる」
〈どういうことだ〉
「辻のスマホ、どこにあると思う?」
〈……まさか〉
「そう。あたしが持ってる。何かあったときのための保険としてあんたに渡さなかったわけ。まさかこんな形で役に立つとはね」
 矢島は再び黙り込んだ。
〈残念だが、今辻のスマホを開いてもすでにデータは消えてるぞ〉
「平気。全部、あたしのスマホに移し替えてあるから」
 長い沈黙が訪れた。どこかでプーっと車のクラクションが鳴り、それに対して「やかましい」と怒鳴り声が上がる。
〈どのデータがPYPにとって都合が悪いかなんて、おまえには判別がつかないだろう〉
「うん、つかない。だから判別がつく人を見つけて、世間に公表してもらう」
 電話の向こうで矢島が息を呑んだのがわかった。
「言っとくけどあたし、とことんやるから」
 今度は矢島の深いため息が聞こえた。
〈七瀬、悪いことは言わない。よせ〉
「いやだ」
〈シャレにならないことになるぞ。おれの手を煩わせるな。おれはおまえを気に入っているんだ〉
 七瀬は鼻を鳴らした。「あたしがそんな脅しに屈すると思うんだ。ナメられたもんだね」
 ヤクザがなんだというのか。もとより自分には怖いものなどない。
〈七瀬、本気でおれと決別するつもりか〉
「だからそうだって言ってんだろ」
〈そうか。覚悟しとけ〉
「上等だよ」
 七瀬は電話を切った。そのまま電源も落とした。
 光を失ったスマホに目を落とし、先の想像を巡らせた。
 今後、自分は狙われることになるだろう。おそらく矢島は配下を使って七瀬を探させるはずだ。となるとしばらく歌舞伎町から離れ、どこかに身を潜めた方がいいだろうか。
 いや、なぜ自分がそんなことをしなければならないのか。逃げる必要などない。大手を振って歌舞伎町を闊歩していればいいのだ。逆に人目がある場所の方が奴らだって手出しはできないはずだ。
 そう決めて、七瀬はいつものラーメン屋に向かった。喧嘩をすると決まったら急に空腹感に襲われたのだ。腹が減ってはなんたらとかいうやつだろうか。
 風林会館の前を通ると、種々雑多な構成の外国人観光客の団体と出くわした。全員がスマホを手にして、あちこち忙しなく写真を撮っている。極東の小さな島国の歓楽街は彼らの目にどう映っているのだろうか。
 店に到着し、暖簾をくぐると、「お、七瀬ちゃん。いらっしゃい」と大将の威勢のいい声が飛んだ。
 昼下がりの時間帯だからか、店内はめずらしく混んでいた。客は七瀬以外は全員が男で、現場仕事風の者が多い。きっとあの巨大な高層ビルを造っている作業員たちだ。
 七瀬はラーメンと餃子を頼み、カウンターに頬杖をついて隅に置かれているテレビを眺めた。ニュース番組が映されていて、真面目ぶった顔をした大人たちがああだこうだと議論を交わしている。
 それによると、何やら中国の武漢という場所で新種の病原菌が発見されたらしい。まったく興味がないので、すぐに別のことを考えた。
 自分の持っているPYPの裏データをこうしてテレビなんかに取り扱ってもらえたら最高だ。そうすれば奴らは一巻の終わりだろう。テレビが無理だったらネットでもなんでもいい。とにかく火を点けて炎上させてやるのだ。
 もっとも、着火係は慎重に選定しなければならない。
 トー横広場を訪れているマスコミたちにでも声を掛けてみようか。一瞬、そんなアイディアが思い浮かんだが、すぐにやめようと思い直した。
 あの連中はPYPの息が掛かっている可能性がある。そんな奴らに大切な情報を持ち込んで、握りつぶされてはたまらない。
 新聞社や雑誌なんかを頼ってもそのリスクはあるし、そもそも繋がりがないので、自分には連絡手段がない。だいいち十五歳の小娘のタレコミなど、まともに取り扱ってくれないだろう。
 だとすると、告発系ユーチューバーなんかがいいのかもしれない。案外その方が手っ取り早く、世間に情報が拡散される気がする。しかし、それはそれで告発に信憑性が伴うだろうか。
 鼻から息を吐きだした。人選が意外と厄介だ。どいつもこいつも信用できない。
 結局、信じられるのは己のみ――。
 七瀬はスマホを取り出し、電源を入れた。そして辻のスマホから転送したデータファイルの中から適当に一つを選び、開いてみた。
 今日の今日まで矢島が動いてくれるものと信じ、これらのデータと向き合ってこなかったが、まずは自分自身がPYPの弱みを正確に知ることの方が先決だ。いったいどのデータのどの部分が奴らにとって世間に知られたくないものなのか、これをなんとなくではなく、正しく認識する必要がある。
 それこそが今もっとも大切なことだ。
 そうして七瀬がスマホと睨めっこしていると、「このおっかねえウイルス、きっとそのうち日本にもくるぜ」と、となりのおっさんが発言をした。
 一瞬、自分が話しかけられたのかと思い、七瀬は横目を使った。するとおっさんは箸を止め、眉根を寄せてテレビに見入っていた。
「まさかこないっしょ」と、軽く言ったのはおっさんのツレの若い男だ。彼らは同じ社名が入った作業着をまとっている。
「わかんないぜ。だってほら、鳥インフルだって、アジアの国のどっかから始まって、あっというまに世界中に広がったべ」
「いや、知らないっスけど。ゆっても、ちょっと厄介な風邪みたいなもんでしょ」
「だといいけどな。おれ、なんか嫌な予感がすんだわ。とんでもなくやべえウイルスなんじゃねえかって」
「ふうん。もしそんなヤバいウイルスなら、むしろ広がってくれた方がおれ的にはいいっスけどね」
「なんでだよ」
「仕事が休みになるかもしれないじゃないっスか」
 そんな会話を交わす二人に、「お客さんたち、あのビル造ってるの」と、厨房にいる大将が話しかけた。
「そう。歌舞伎町タワーね」若い方が答えた。
「あ、ついに名前決まったんだ」
「いや、まだっスけど、自分たちはそう呼んでます。きっとそれしかねえだろうって」
「まあ、そうだよねえ。歌舞伎町の中にあんだから。で、あれはいつくらいにできんのよ」
「さあ。竣工の予定は二〇二三年らしいですけど、自分たちはよくわかんないっス。孫請けの末端なもんで」
「そう。おれなんかは首を長くして完成を楽しみにしてるんだけどね」
「どうしてですか」
「どうしてって、そりゃうれしいじゃない。誇らしいっていうかさ」 
「へえ」
 ここで店のドアがガラガラッと派手な音をたてて開かれた。
 そこに立っていたのは颯太だった。走ってきたのか、息を切らしている。
 颯太は七瀬を認め、「いた」と、つぶやいてから、ズカズカと一直線に向かってきた。
「おい、ちょっと付き合えよ」
 肩に置かれた手を七瀬は振り払った。
「おまえ、いったい何をやらかしたんだ」
 その発言で七瀬は颯太がやってきた目的を察した。さすがにあのヤクザは仕事が早いようだ。
「矢島にあたしを連れてこいって命令されたんだ?」
「兄貴を呼び捨てにすんじゃねえ」颯太が平手でカウンターテーブルを叩く。「ああ、そうだ。兄貴がおまえのガラを捕らえろって。いったいおまえと兄貴との間で何が――」
「ちょっと颯太くん。店の中で騒がしくされると困るよ」と、大将が厨房から苦言を呈した。
 周りの客たちはチンピラ風の男と揉めたくないのか、みな俯き、機械的に箸を動かしている。
「見てわからない? あたし、今から飯食うの。うざいから消えて」
「ふざけんなっ」
「矢島に伝えといて。尻尾を振る相手をまちがえたねって」
「このアマ。その辺にしとけよ」颯太が胸ぐらを掴んできた。「何があったか知らねえが、おれの尊敬する兄貴を愚弄するなら容赦しねえぞ」
「ねえ颯太くん。頼むよ。いい加減にしてくれよ」
「うるせえっ。すっこんでろっ」
「すっこんでろだと」
 大将の目つきと口調がガラッと変わった。
「こちとら二十年歌舞伎町で商売やってんだ。ヤクザだろうが警察だろうが、店ん中で勝手な真似はさせねえぞ」
「話に入ってくんじゃねえ。ぶっ殺されてえのか」
「ぶっ殺すだ? おお、おお、やれるもんならやってみろ。てめえみたいなひよっこに凄まれたところでまったく怖かねえぞ」
「誰がひよっこだこの野郎」
 大将が勢いよく厨房から出てきた。その手にはゴツい包丁が握られている。それを見て、カウンターに座っていた客たちが一斉に立ち上がり、距離を取った。
「おうチンピラ。ラーメン屋をナメるんじゃねえぞ――七瀬ちゃんも今日は帰ってくれ」
 大将が顎をしゃくって言った。彼の手の中の包丁の切先は颯太の鼻先に向けられている。
 さすがにビビったのか、颯太は顔面蒼白で、壁を背にして固まっていた。
 七瀬はそんな颯太に向けて、「あんたのせいで飯を食い損ねただろうが」と、文句を言い、店を出た。

 

(つづく)