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 ドアを引いて開けると、すぐ向こうにスーツを着た男が立っていて、胸の辺りにぶつかりそうになった。
 顔を上げて驚いた。相手は刑事の小松崎だった。
「お、誰かと思えばあのときのお嬢ちゃんじゃないか」小松崎はニッと笑い、汚い歯茎を見せた。「いけんな、未成年がバーなんかに出入りしとったら」
「あたし、一滴も酒を飲んでませんから。ほら」七瀬が小松崎の顔にフーッと息を吹きかけると、彼は「ヤニ臭いぞ」と苦笑した。
「浜口、いるだろう」七瀬の後方を見て言う。
 この場で嘘をついても仕方ないので頷いた。
「お嬢ちゃん、ここで働いてんのか」
「いいえ」
「じゃあ浜口とはどういう関係だ」
「ただの知り合い――って、前もそう答えましたよね」
 小松崎はこれを無視し、「調べたところ浜口は矢島の子飼いのようだな。このバーも矢島が浜口にやらせてるらしいじゃないか」と、トンチンカンなことを言った。
 おそらくカマをかけて情報を得ようとしているのだろう。
「あたし、そういうことまったくわからないんで」首を傾げてみせた。「刑事さんはここに何しにきたんですか」
「いろいろと浜口に訊きたいことがあってな」
「なーんだ。てっきり袖の下っていうのをもらいにきたのかと思った」
 小松崎が大口を開けて豪快に笑った。やはり口の中が汚い。
「お嬢ちゃん、古い言葉を知ってるね。おれは汚職刑事に見えるか」
「ちょっとだけ」
「そうか。だが、そういう汚い真似はしないんだ。見た目とはちがって真面目なもんでな」
「へえ」
「お嬢ちゃん、人ってのは見かけによらないんだよ」
「勉強になりまーす。で、もう行っていいですか」
「ああ」
 ぺこりと頭を下げ、足を踏み出した。
 すれちがう瞬間、手首を掴まれた。
「悪いことは言わない」小松崎が真剣な顔つきで見下ろしてきた。「ああいうアウトローからは一刻も早く離れろ。じゃないといつか取り返しのつかない目に遭うぞ」
「大丈夫ですよ。日本ほど安全な国はありませんから」
 微笑んで言い、手を解いて、再び足を踏み出した。
 階段を下り、路上に出たところで建物を見上げる。小松崎がここに来た本当の目的は知る由もないが、浜口も気の毒に。刑事がいる中ではさすがにぼったくり行為はできないだろう。
 というより、Ranunculusは終わりかもなと思った。以前浜口は警察に摘発される心配はないと豪語していたが、こうして目をつけられたらこの先商売もしにくくなるだろう。
 だがそれも自分にはどうでもいいことだ。  

「そもそもどうしてそのヤーさんの下につくことにしたんだい」
 カウンター越しにいる老女が頬杖をついて言った。コカインを摂取したばかりなので顔が上気している。 
 待ち人を待っている間、七瀬は最近身の回りで起きている出来事を詳細に語った。矢島との約束を反故にした形になるが、七瀬の中でサチは“誰にも”の枠外だ。
「どうせ金でもやるって言われたんだろう」
「まあ言われたけど」
 ――成功したらもちろん報酬をやる。金額はおまえの掴んだ情報次第だ。
「あんた、そんなのを信じたのかい。バカだねえ」
「くれないかな」
「くれんでしょうよ」
「そっかなあ」七瀬は頬杖をついてボヤいた。「でも、そこまでお金が欲しいわけでもないんだよね」
「じゃあ何さ」
「なんか気に食わないの」
「そのピーピーって奴らのことがかい」
「PYPね。そ。なんか嫌いなんだ、あいつら。だから潰してやろうかなって」
 と、それらしい理由を口にしてみたものの、正直そんなに強い思いでもなかった。
 実のところ、なぜ矢島の誘いに乗ったのか、自分でも今ひとつその動機がわからなかった。強いて挙げるならば歌舞伎町という街の裏側を覗いてみたいという好奇心だろうか。とはいえ、それだって後づけで、取ってつけた感はある。
 結局、サチのお遣い然り、浜口のガールキャッチ然り、自分という人間は誘われるがままになんでもやるのだろう。
「風任せ」
 指で摘んだ塩をトマトジュースにさらさらと振り掛け、七瀬はボソッとつぶやいた。
 ポンと頭をもたげたワードだったが、言葉にしてみて、これかなと思った。歌舞伎町の風に身を任せた――こういうことなのかもしれない。たぶんそうだ。
「なんだって?」
「ううん。なんでもない」
 サチが鼻から息を吐く。 
「それにしたって、どうして七瀬みたいな小娘を使うかねえ。いよいよ極道も落ちぶれたもんだ。ああ、やっぱり石原慎太郎のせい。あの男が歌舞伎町浄化作戦なんてバカな真似をするから――」
 サチは自分を棚に上げて憤り、嘆いた。この老女は石原慎太郎という人物によほど恨みがあるらしい。
「弱きを助け強きをくじく。昔はね、任侠道を行く男伊達がいっぱいいたの。それに比べ、今のヤクザは極道の片隅にも置けないね」
「じゃあもっかい浄化作戦ってやつをしたらいいんじゃない」
「誰がやんだい。今の都知事なんてダメだよ。ありゃあ口先だけのペテン師だ」
「そうなの?」
「ああそうさ。でこっぱちに偽物ってフダが貼り付いてる」
「ふうん」
「その点、石原慎太郎は気骨があったねえ。あの人ほど日本を愛した男はいないよ」
 口に含んだトマトジュースを噴き出しそうになった。好きなのか嫌いなのかまったくわからない。
「じゃあさっちゃんがやれば?」口を拭って言った。
「何をさ」
「浄化作戦」
 サチが大口を開けてカッカッカと笑う。入れ歯がパカパカしていた。
「さっちゃんがやんないならあたしがやろうか」 
「ああ、やっとくれ。半端者を一掃して歌舞伎町を元に戻しておくれよ」
 そんな与太話をしていると、『きらり』のドアがノックされた。サチがその場から「山」と言うと、ドアの向こうから男の野太い声で「海」と返ってきた。
「息子だ。開けてやってくれ」 
 サチから顎をしゃくられ、七瀬はスツールを離れてドアの施錠を解いて開けた。
 その先に好々爺のような笑みを浮かべた男が立っていた。この男がサチの息子のようだ。上質そうなジャケットを羽織り、頭は坊さんのように丸刈りだった。年齢不詳だが還暦を過ぎていると聞かされている。
 サチの息子はまだ年端もいかない少女を相手に、「母がいつもお世話になっております」と深く頭を下げ、「山村仙一と申します」と丁寧に自己紹介をした。
「こちらが七瀬さんのお求めの品になります」
 スツールに座った山村が七瀬に差し出したのは国民健康保険被保険者証のカードだった。サチが事前に頼んでおいてくれたのだ。
「これって本物ですか」
 七瀬がカードに目を落として訊いた。カードに書かれている名前は田崎恵美、生年月日は一九九九年十月二日、住所は東京都町田市になっている。
「いいえ、偽造されたものです。この田崎恵美という人間は世の中に存在しません。ですので使用は必要最低限に留めてください。居酒屋などの年齢確認程度であれば問題ないかと思いますが、まちがっても警察もしくは病院、はたまたコピーを取られるような公的機関に提示しないようにご留意を」
 大人相手のような話し方をするなと思いつつ、相槌を打った。
「七瀬、よかったね」サチが横から言う。
「うん。よかった」
 これがあれば今後は愛莉衣に身分証を借りずに済む。たとえ二十歳には見えなくても、証明書を出されてしまえば相手は黙るだろう。
「それと紛失にはくれぐれもお気をつけて」
 七瀬は頷いて、鞄から財布を取り出した。それはカードをしまうためだったのだが、「あ、お代は結構ですよ」と山村が先回りして言った。
 その理由は母が世話になっているからだそうだ。
 七瀬は礼を告げ、「こういうのってどうやって作るんですか」と興味本位で訊ねてみた。
「すみません。製造方法はちょっと」山村が微笑んでかわす。
「戸籍とかも扱ってるんですよね。そういうのも偽物を作るんですか」
 構わず質問を重ねると、山村は一瞬、サチを咎めるような目で見た。サチが舌をペロッと出す。
「まあ、戸籍謄本なども偽造することは可能ですが、滅多にやりません。本物は頻繁にご用意いたしますが」
「へえ。そんなことできちゃうんだ」
「ええ。しかしながら、若い女性はもっともハードルが高く、入手が困難です。逆に中高年の男性ならどうとでもなります」
 その理由はなんとなく想像がついた。きっと人生を棄てた男たちが自らの戸籍を売るのだろう。
「でも、それさえ手に入れば他人になれるのか」
 七瀬が頬杖をつき、虚空を見つめてつぶやくと、「けっして簡単ではありませんよ」と山村が釘を刺すように言った。
「しかしながら、条件の合う戸籍を入手した上で、新たに運転免許証とパスポートを取得してしまえば完全に別の人間になることも可能でしょう」
「そうなった人、知ってますか」
「ええ。たくさん」
 ということは、この世の中にはダミーが存在しているということか。それはそれでロマンがあるなと思った。
 その後、山村は焼酎の水割りを一杯だけ飲み、カウンターに分厚い封筒を置いて――おそらく中身は金だろう――帰って行った。その際に気づいたのだが、彼は片足を引き摺っていた。
「さっちゃんの息子って変な人」山村を見送ったあと、七瀬は言った。「あたしの周りにあんなふうにしゃべる大人いないよ」
「あれでも若い頃は手の付けられないワルだったんだけどね」
「マジ?」
「そりゃあもう。ひどいもんだったよ」
「へえ。なのにヤクザにならなかったんだ」
「組織は性に合わんとか本人は言ってたけど、本当は危なっかし過ぎてどこの組も受け入れてくれなかったんでしょ」
「ふうん」
 お嬢ちゃん、人ってのは見かけによらないんだよ――小松崎の言葉を思い出した。
「さっちゃんとあんま顔が似てないよね」
「血が繋がってないもんでね」
「あ、そうなんだ」
「あれは橋の下で拾ったんだ」
 七瀬は笑い、トマトジュースを飲み干した。
「おかわりするかい」
「うん」
 サチが七瀬のグラスにとくとくとトマトジュースを注ぐ。
「あんた、最近明るくなってきたね――あいどうぞ」
「そう? ありがと」
「前に比べてよく笑うし、よくしゃべるようになった」
「まあ、そうかも」塩を振りかける。
「きっと歌舞伎町の力だね」
「そうなのかな」
「ああ、この街は人を変えるのさ」
 きっとそうなのだろう。歌舞伎町は人を変えてしまう。良い方にも、悪い方にも。
 その後、夜が明けるまで『きらり』にいた。客は一人も来なかった。コカインの効能で覚醒しているのか、サチは夜通ししゃべりっぱなしで、七瀬はうつらうつらとしながら耳を傾けていた。

 

(つづく)