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 廊下を渡り、玄関へ行くと、若い衆が慌てて近寄ってきて「お出掛けですか」と声を掛けてきた。
「ああ」
「ではすぐに車を回します」
「いい。一人で出掛ける」
「へ? お一人、ですか」
 そこに眉を八の字にしたシゲがやってきた。
「親父、どこへ行かれるおつもりで?」
「いいだろう。どこだって」 
「教えてもらわなきゃ困ります」
「サウナだ」
「こんな悪天候の中ですか」
「ああ、酔狂だろう。そういう気分なんだ」
 國彦はそう嘯いて長い付き合いの子分を見つめた。つい先ほど頼もしい台詞を吐いてくれた男と同じ人物には思えなかった。
 我が組の構成員の中に内通者がいるのだとしたら、それはいったい誰なのか。
 考えたくはないが、十中八九、目の前のこいつだろう。
 なぜなら國彦と藤原の関係を知る者はシゲしかいないのだから――。
「若いのを何人か連れて行ってください。表で待たせておいて構いませんから」
「いや、今夜は一人がいいんだ」國彦はそう言うなり、手の平をシゲに突き出した。「わかってるさ。危険だって言いたいんだろ。大丈夫だ。奴らだってこんな雨の中、出歩いちゃいないさ」
 シゲがため息をつき、呆れたようにかぶりを振る。
「どこのサウナへ?」
「これから考える。決めたらちゃんと知らせるさ」
 そう言い残し、玄関を出た。
 傘を広げ、周囲に目を配って文化センター通りを歩いた。尾行者などいないだろうが、警戒を怠ってはならない。
 わかっていたことだが、暴力的なまでに雨が降りしきっていた。風がないのがせめてもの救いか。だが足元はすでにぐっしょり濡れていた。歩くたびに靴の中でグシャグシャと水を含んだ音が立つ。
 不快な気分で足を繰り出しながらも、頭の中はシゲのことでいっぱいだった。あの男がおれを裏切るようなことがあるだろうか。シゲは浜口とはちがい、自分に忠実なしもべであったはずなのに。
 ただまあ、ありえなくもないかと、どこか乾いた気持ちで思った。人間、最後は我が身が一番可愛いのだ。共倒れはごめんとばかりに、國彦に見切りをつけ、敵に寝返った。おそらくその手土産として藤原悦子のおぞましい過去を暴露したのだろう。
 やがてゴールデン街へとつづく交差点まで来て、國彦はそこで足を止めた。傘の下から濡れそぼった街並みを眺める。人影がまるでなかった。営業している店も少ないのだろう、電光看板の多くは灯りが落ちている。この街に長くいるが、こんな寒々しい光景を目にしたことはない。まるで街全体が病に冒されたようだ。
 ほどなくしてゴールデン街『明るい花園8番街』に到着し、そこで愛に電話を掛けた。すぐに応答した彼女の案内で迷路のような道を進んだ。
 広げた傘がガッ、ガッと何度も壁につっかえた。満足に傘もさせないほど道が狭いのだ。そのせいで頭や肩口まで濡れてしまった。
〈そうそう。そこの角を左に曲がったら黄色い暖簾が出てる店が見えるでしょう。そこを今度は右に――〉
 國彦ですら勝手がわからないというのに、愛はずいぶんとこの街の地理に詳しいようだ。
「ゴールデン街にはよく来るのか」
〈うん。この昭和っぽさが好きなの。ノスタルジーに浸れるっていうかさ〉
「ふん。昭和なんか知らねえくせに」
〈知らなくたって感じるのよ――あ、いたいた〉
 傘の下から前方に目を凝らす。廃れた外観のスナックの扉から半身を出し、こちらに手招きをする愛の姿を捉えた。
 國彦はそこまで歩を進め、傘を閉じながら軒をくぐり、中に入った。
 すると、「あらあら。おにいさん、濡れ鼠じゃないの。これ使って」と、カウンターの向こうにいる老婆がしゃがれた声で言い、タオルを差し出してきた。
 國彦は伸ばした手を途中で止めた。老婆の見た目に気圧されたからだった。
 年齢はどれほどだろうか。彫刻のごとく顔全体に刻まれた深い皺、青白い肌は古びた紙のように乾燥してひび割れていた。今にも朽ち果てそうな枯れ木のようなのに、白内障に覆われた瞳だけが異様な光を放っていた。
「ほら、早く拭きなさい。風邪を引くわよ」
 それでも手が出せずにいた國彦の代わりに、愛がタオルを受け取り、寄越してきた。
 躊躇しながらもタオルで顔を拭う。そのとき、グルマン系のほんのりと甘い、それでいてどこか独特な香りが鼻腔をくすぐった。この老婆は変わった柔軟剤を使っているようだ。
 スツールを引いて座り、狭苦しい店内を改めて見回した。壁、床、調度品、目に映るすべて老朽化がひどかった。剥き出しになっている梁は完全に腐っている。
「おまえ、こんな店に通ってるのか」
 横にいる愛に声を落として訊ねた。
「ええ。そうだけど」
「物好きなんだな」
「まあね。飲み物は?」
「水を一杯」老婆に向けて言った。
「そんな、失礼じゃない。何か頼んでよ」
「飲む気分じゃないんだ――代わりにこいつを場代として納めてくれ」
 長財布から一万円札を抜き取り、スッとカウンターに置いた。「あら、お気遣いどうも」と、老婆が骨と皮だけになった手を伸ばす。 
「で、さっそく、電話のつづきを聞かせてくれ」
 愛の方に身体を開いて要求した。すると彼女は目の前に置かれた小皿の中の塩をひとつまみして、赤い液体の入ったグラスにさらさらと振りかけた。そして、ゆったりとした所作でトマトジュースを口に含んだ。
「電話でも伝えたけど、大前提としてすべて確証のある話じゃないの。宇佐美たちの会話の端々から、わたしが想像を働かせたものだから、それだけは念頭に置いといてね」
「ああ」
 老婆が無言で水の入ったコップを差し出してきた。やたら氷の量が多い。
「まず藤原という女のことだけど、どうしてその正体がわかったのかというと――」
 誠心会の連中の会話の中で、藤原を暗喩して「東京の実権を握る女」という台詞が出たらしい。
「だとすると、都知事の藤原悦子しかいないじゃない」
 國彦はチラッと老婆の方を見た。その視線に気づいた愛が、「大丈夫。耳が遠いし、たとえ聞こえてもなんの話かちんぷんかんぷんだろうから」と耳元でささやいた。
 本当だろうか。この老婆はことのほかかくしやくとしているような気がしてならない。
 國彦の心配をよそに愛が話を進める。
「その藤原と浜口さんとの繋がりだけども、どうも二人はやましい過去を持っていたみたいなのよ」
「やましいとは?」
「それはわからないけど、たとえば……」
 愛が顔を覗き込んできた。
「二人が結託して誰かを手に掛けた――とかね」
 心臓を小突かれた気がした。
 國彦はコップに手を伸ばし、唇を湿らせた。
 直後、舌の上で違和感を覚えた。若干、変な味がする。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 もう口をつけるのはよそう。どうせ錆びた水道管を通った不衛生な水なのだろう。
「で、中身はわからないにせよ、そのやましい過去とやらにおまえはどうやって辿り着いたんだ? それも会話の中か?」
「ええ。彼らがこう言ったの。『もし例の話が本当だったとしたら、これをネタにあの女の懐に入り込めるかもしれんぞ』って」
「つまり、その話は藤原にとって爆弾ってことか」  
「そういうこと。とはいえ、彼らも半信半疑なんだと思うわ。なぜなら『敵陣営の男が持ってきた情報を素直に信用してええもんか』って言ってたから。彼らにとって敵陣営ってことは、つまりはそういうことでしょ」
「なるほど。それでうちに内通者がいると考えたわけか」
「ええ。さらにはね、彼らこうも言ったの。『そもそもあいつは矢島の側近を務めていた男だぞ』って」
 一瞬身体が強張り、そして脱力した。まちがいない。シゲだ。
「思い当たる人物がいるんだ」
「ああ。それで、おまえが電話で言ってた『ここから先は』って話を――」
 ここで胸ポケットに入れているスマホが震えた。手に取ってみると、画面には『F』と表示されていた。藤原悦子からの着信だ。
 愛と目を合わせる。「ちょっとすまん」と断り、國彦はスツールを一つ横にずれて、応答した。
〈あなた、あれはいったいどういうつもり〉藤原の低い声が飛び込んできた。
「あれとは?」
〈あなたでしょう。あのおかしなメールを送ってきたのは〉
「はて、なんのことでしょう」
〈しらばっくれないで。あのアドレスを知っているのはあなただけなのよ。言わなかったけど、あのアドレスはあなた専用にしてるの〉
「おやおや、そうだったんですね」
 藤原の荒い鼻息が漏れ聞こえた。
〈なんのつもりよ。あんなわけのわからないメールを送りつけて〉
「身に覚えがないんですか」
〈あるわけないでしょう。浜口を消すだなんて、そんな愚かなことをするわけないじゃない。考えてみなさい。今のわたしの立場を〉
「ですよね。ただ、あなたならありうるかと思いましてね」
〈ありえないわ。あなた、追い詰められすぎて頭おかしくなっちゃったんじゃないの。ひどい妄想に駆られちゃって、みっともない〉
「言ってくれますねえ。そんな台詞をおれに吐いていいんですか」
〈そっちこそ、わたしにそんな強気な態度でいていいのかしら? せっかく段取りが整ったのに、取りやめちゃうわよ〉
 國彦はピタッと身動きを止めた。
「本当か」
〈ええ。近日中に警察が一斉に動くことが決まったわ。それも二十年前の歌舞伎町浄化作戦なみに盛大にね。だからそのつもりであなたは身辺を綺麗にして、準備を整えておきなさい。そうすれば――〉
 藤原の声が突然消えた。國彦の手からスマホが滑り落ちたからだ。
 拾い上げる前に、その手に目を落とした。指先が痺れている。
 床にあるスマホからは音声がうっすら聞こえていた。藤原がまだしゃべっているのだ。
 拾い上げるべく、スツールから離れ、腰を屈めた。するとバランスを崩し、膝を床についてしまった。
 いったいなんだ。うまいこと力が入らない。
「大丈夫?」
 愛がやってきて、手を差し伸べてきた。その手を掴んでなんとか立ち上がる。
 だが、そのまま彼女に抱きつくようにもたれ掛かってしまった。そのとき、彼女の衣服からふわっと香りが漂った。先ほど、老婆から受け取ったタオルと同じ匂いだった。
 同じ柔軟剤を使っている――? 
 いや、一緒に洗濯をしているのか――。
 國彦は愛から離れ、その顔を見た。
 まさか、この女はここで寝泊まりしているのか――。
 その瞬間、最悪な想像が頭をもたげた。その想像は瞬く間に國彦を埋め尽くした。
「まさか、おまえ……」
 最後まで言葉が出なかった。
 愛が口元に冷たい微笑を浮かべて、國彦を観察するように見つめている。
 國彦はありったけの力を振り絞り、出口に向かった。スツールやカウンターや壁にぶつかりながら、よろよろと歩を進める。
 ドアノブに手を伸ばした。すると力も入れず、すんなりと開いた。逆側からの力が掛かったからだった。
 開いたドアの先に黒い雨合羽を来た人間が立っていた。
 國彦は斜め上に視線を持っていった。相手は自分よりも頭ひとつ大きいのだ。
 羽織っている雨合羽と同じ肌色をした男だった。男はその肌とは対照的な真っ白な目で國彦を見下ろしていた。
 ふいに男の腕がぬっと伸びた。
 ここで國彦の意識はぷつりと途絶えた。
 
 國彦の意識を呼び覚ましたのは音だった。
 ザク、ザク、ザク。
 その音が聞こえるたびに、自分の身体の重みが増していくように感じる。
 ザク、ザク、ザク。
 覚醒した國彦は重い瞼を持ち上げ、薄目を開いた。だが、すぐには視界が定まってくれなかった。
 ザク、ザク、ザク。
 顔面には水滴が落ちてきていた。雨が降っているようだ。どうやら自分は仰向けの状態で外に寝かされているらしい。 
 ザク、ザク、ザク。
 視界はまだ霞がかっている。そこからかろうじて読み取れるのは、今の時間帯が夜で、ここが山林の中だということ。周囲を取り囲む、黒々とした樹木が夜空に向かって伸びているのだ。
 やがて、ぼやけた視界の中に女の姿が浮かび上がった。
 愛だった。彼女は大きなスコップを手にしていた。その脇にこんもりと盛り上がった土の山が認められた。ザク、ザク、ザクという音の正体は、その山に愛がスコップを突き刺す音であった。
 愛はスコップですくった土をこちら目掛けて振りかけている。
「……してるんだ」
 國彦は言った。だが、声が掠れ、彼女に届くことはなかった。
「……何を、してるんだ」
 もう一度言った。今度はもう少しまともな声が出た。
 だが、愛はそれを無視した。その手を止めようとしないのだ。
 むろん、答えを聞かなくても、すでに自分が置かれている状況を國彦は十分に理解していた。
「……なぜ、こんなことをする……おまえは、いったい、誰なんだ」
 それでも愛は止まらなかった。雨に濡れるのもお構いなく、機械のように一定のリズムで、ひたすら國彦に土を振りかけている。
 この女はいったい何者なのか。
 なぜこいつがおれを葬ろうとしているのか。
 疑問が頭の中を高速で駆け巡り、やがてある解答が導き出され、國彦は戦慄した。
 脳に圧倒的な混乱がきたす。
 まさか、あいつが生きているはずがない――。
 そのはずがないのに、國彦はその考えを打ち消すことができなかった。
「……おまえは……七瀬なのか」
 歯を鳴らして言った。
 だがやはり、愛は反応を示さなかった。
 彼女は静かな表情で、ただただ、國彦を地中に埋めつづけていた。

 

(つづく)