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 冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り出して、半分ほどがぶ飲みした。弾ける泡が痛いくらいに喉を刺激する。
 盛大にゲップをした直後、ドアがノックされ、「親父、入りますよ」と、低い声が発せられた。組の若頭を務めているしげる――通称シゲ――だ。
 シゲは顔を見せるなり、「お電話の声が廊下まで漏れてましたよ」と苦言を呈してきた。
「別室に若いのもいるんですから、お気をつけください」
 國彦と藤原の関係を知る者はシゲ以外にいない。いや、正確にいうともう一人、自分たちの暗い過去を共有するユキナリという子分がいるのだが、その男は現在お務めに出ている。
「用件はなんだ?」
「先日ご相談差し上げた件、もう一度検討していただけませんか」
 國彦は目を細め、長い付き合いの子分を見据えた。
「親子ですから親父のお気持ちは重々承知しています。自分だって屈辱ですし、できることなら本家の力を頼りたくありません。しかしながら、状況が状況です。このままでは我々に未来はありません」
「しつこい。おれは考えを改めるつもりはねえ」
「けど親父――」
 國彦は手の中のペットボトルをシゲに投げつけた。顔面を直撃するや炭酸水が彼を濡らした。
「怒りはいくらでも自分にぶつけてもらって結構です。ヤキを喰らっても構いません。ただこの通り、本家に頭を下げ、援軍を要請してください」
 シゲは前髪から水を滴らせて言い、床に膝をついた。そして額をも擦りつけた。
 足元でひれ伏す子分を、國彦は下唇を噛んで見下ろした。
 本家に縋るなど、とてもできなかった。何があろうとも、絶対に。
 約三ヶ月前、誠心会との抗争の戦火が上がり始めた頃、本家のもとで定例の幹部会が開かれた。そこでこの件が議題に持ち上がり、國彦は、
「この程度のボヤ、自分たちだけで消してみせますよ。みなさんの手を煩わせるつもりはないのでどうぞご安心を」
 と大見得を切った。
 いや、切らされたといった方が正しいかもしれない。その直前、周りの幹部連中から、脇が甘いから隙を突かれるんだと散々揶揄され、はらわたが煮えくり返っていたからだ。
 いずれにせよ、今さらどのツラを下げて助けを求められるのか。ここで頭を下げたら最後、自分は組織の中で一生、笑い者になる。
「土下座なんてみっともねえ真似してんじゃねえ。立て」
「すみません」
「早く立て」
「いいえ、親父が思い直してくれるまで立ちません」
 カッとなり、國彦はシゲの頭を足蹴にした。
「もうすぐユキナリが出てきますっ。そのときに戻る家がなくなっていたら、自分はあいつに顔向けできないんですっ」
 もう一度、今度はさらに力を込めて蹴り上げた。後方に吹っ飛んだシゲだったが、すぐに元の位置に戻り、再び國彦の前にひれ伏した。
「ユキナリは関係ない罪を被り、ムショに入っています。あいつの漢気のおかげで内藤組の今があるんです。自分はその恩をけっして忘れてません。あいつのためにも、なんとしても組を存続させなくてはならないんです」
「なんだテメェ、それはおれへの当てつけかこの野郎」
 二年前、國彦はとある企業の経営者を恐喝していた。もちろん若い衆に指示を与えてやらせていたのだが、これが警察の知るところとなり、首謀者の引き渡しを求められた。肩書きのない下っ端を差し出したのでは事態が収拾しなそうだったので、苦肉の策で組の本部長であったユキナリに罪を被ってもらったのだ。
「ユキナリは自分の兄弟分です。これまで様々なことを、それこそ先代のあずかり知らぬ仕事も自分たちは行ってきました。それは親父への忠誠からであり、組の繁栄のためです」
 やはり当てつけのようだ。國彦は若頭時代、シゲとユキナリの二人に、汚れ仕事をいくつもさせてきたのだ。
「ですから親父、どうか頼みます」
 どうやらシゲに引き下がるつもりはないようだ。この子分がこれほどまでに食い下がってきたことがあっただろうか。こいつも相当、追い詰められているのだろう。
 國彦は荒い息を巻き散らした。
「おまえ、さっきおれと藤原の会話を盗み聞きしてたんだろう」
「ええ。聞いてました」
「だったら、そういうことだ」
「お言葉ですが、自分は警視庁が動くとは思えません」
「いや、何がなんでも藤原が動かすさ。あの通り、散々脅してやったからな」
「たとえ動いたとしても、こちらの思惑通りにはなるとは限りません。なぜなら相手はチンピラじゃないからです。都知事とはいえ罪状をでっち上げるなんて、そんなのは現実的に不可能――」
「ごちゃごちゃうるせえっ」
 國彦は一喝し、一方的に話を切り上げて部屋を出た。
 荒い足取りで廊下を進み、別室のソファーでくつろいでいた二人の若い衆に、「おい、出掛けるぞ」と顎をしゃくった。二人が弾かれたように立ち上がる。
 警察を動かすことがいかに困難であるかなど、シゲに言われるまでもなく、重々わかっているのだ。だが、その望みが限りなく薄くとも、今はこれに賭ける以外に選択肢はない。
 玄関で靴に足を通していると、「親父、どこへ?」と、シゲの声が背中に降りかかった。
 振り返って見た彼の顔は痛々しく腫れ上がっており、鼻からは赤黒い血が垂れていた。
「サウナだ」
「危険ですから、あまり出歩かんでください」
「連中だって公衆の面前で襲いかかってきたりしねえよ」
「何があるかわからんでしょう。総理大臣ですらられる世の中ですよ」
 國彦は鼻を鳴らすや、「行くぞ」と若い衆を促し、玄関を出た。
 じめっとした熱気に包まれながら外廊下を渡る。サウナは愛しているが、外気の熱はうざったいばかりだ。
 エレベーターの前へ行くと、小さな蝉が一匹、転がっているのが目についた。羽が折れて飛べないのか、もがき苦しむように床を這っている。
 蹴り飛ばそうと國彦が右足を構えると、それを察知したかのように、蝉が鳴き声を上げた。けたたましく泣き喚く声は、まるで断末魔のようだった。
 國彦は右足を元に戻した。情けをかけたのではない。一瞬、哀れな蝉が自身の姿に重なってしまったのだ。



 八月の始まり、狂ったように太陽が照りつける日の午後、子飼いの情報屋が耳寄りな話を携えて事務所にやってきた。ふだんは取るに足らない情報ばかり寄越してくる男だが、このときは國彦も身を乗り出して話を聞いた。
 誠心会の若頭である宇佐美鉄次が浜口に対し、妙な疑念に囚われていたというのである。妙なというのは、自分のところに体よく取り込んだつもりでいた浜口が、実は内藤組が差し向けたスパイではないのかと、宇佐美は疑っていたらしいのだ。
 実際はそんなことはなく、浜口は文字通り國彦たちを裏切っただけなのだが、どういうわけか宇佐美は強い猜疑心に駆られていたという。
 もしこれが事実だとするならば、浜口は濡れ衣を着せられ、消されたのかもしれない。
 ところが、「自分はそうは思えませんが」と、シゲが冷静な口調で否定してきた。
「いくらナメた真似をされたからといって、消しちまうだなんて、そんな浅はかなことを奴らがするでしょうか。リスクが高過ぎるでしょう」
「浜口への制裁がおれたちに対する見せしめ、牽制と考えればなくもねえだろう」
 國彦は腕立て伏せをしながら返事をした。筋トレは毎日のルーティンだ。どんなに忙しい一日でも、これを怠ると気持ちが悪くて仕方ない。
「浜口は一応、堅気ですよ。そこそこ名も通っています。そんな男を手に掛けるだなんて、常軌を逸しています」
「それこそおまえの言うように、総理大臣だって殺られる世の中じゃねえか。なんだってありうるさ」
 シゲがこれ見よがしに鼻息を漏らす。まだ納得していない様子だ。
「だいいちその情報自体、信用の置けるものなんでしょうか」
「さあな」
「そうでしょう。ですから――」
「だが、動いてみる価値は十分にある」
 もし誠心会が本当に浜口を殺害したのなら、これは一気に形勢を逆転する切り札となる。確固たる殺人の証拠を掴み、そいつを警察に渡せば誠心会は一巻の終わりだ。
「具体的にはどのように動かれるおつもりで?」
「まずは探るさ。女を使ってな」 
「またあの愛という女ですか」
「ああ」
「あんな小娘に何ができるっていうんですか」
「愛はおまえが思っているより使えるぞ。現にあいつのおかげで浜口の野郎が裏切りやがったことが発覚しただろう」
「あんなのは遅かれ早かれ、わかっていたことでしょう」 
 國彦は両腕を伸ばした状態で動きを止め、首を横に捻ってシゲを見た。
「おまえはどうにも愛のことが気に食わないようだな」
「気に食わないというより、不気味なんですよ」
「不気味? どこがだ」
 そう問いかけると、シゲは少し間を置いてこう答えた。
「初めて会ったときに、なぜかゾッとしたんです。第六感が働いた、とでもいうのでしょうか」
 國彦は鼻で笑い、立ち上がった。
「リアリストのおまえがめずらしいことを言うじゃないか」
 タオルで顔を拭い、シゲに向けて放った。
 愛と出会ったのは春先のこと――場所は新宿二丁目にある『マーマレード』という、多種多様なセクシャリティの人々が集うミックスバーだった。
 その店に深夜、國彦がお忍びで訪れたところ、場に似つかわしくない若い女が突然話しかけてきた。
 女は歌舞伎町でホストをしていたユタカという男の行方を追っているのだという。ホストが突然消息を絶つなんていうのは歌舞伎町じゃ日常茶飯事なので、はじめは右から左で話を聞き流していたのだが、女の口から「誠心会」のワードが出たところで、國彦は真剣に耳を傾けた。
「誠心会っていうのは、最近関西の方からこっちに進出してきたヤクザたちのことよ」
「ああ、よく知ってるさ」
 國彦がそう答えると、女はわずかに目を見開いた。
「ユタカはその誠心会と繋がりのあったスカウトの男と親しくしてたみたいなの。だから何かトラブルに巻き込まれたんじゃないかと思って」
「なるほどな。それでお嬢ちゃんは奴らの周辺を嗅ぎ回っている――そういうことか」
「そういうこと」
「だが、なぜこんなところで聞き込みをしてるんだ?」
「誠心会の奴らがたまにこの店を見張っているから」
「見張っている?」
「ええ。どうやら彼らはこの店に出入りしてる人物を監視しているみたいなの。もしかしたら今も表にいるんじゃないかしら」
 さすがの國彦も背筋が凍りついた。その人物とはまず間違いなく自分だからだ。
 ただ、そうなってくると、今の状況もおのずと見えてくる。
「さてお嬢ちゃん、お芝居はここまでだ」
「お芝居?」
「とぼけるな。奴らが監視している人物がおれで、おれが何者であるかも、本当は知っているんだろう? すべて知っていて、こうして接触してきたんだろう?」
 國彦が女の細い手首を掴んでそう迫ると、彼女は「さすがね。組長さん」と不敵に笑った。
「そう。誠心会と敵対している組織のボスなら、当然奴らのことに詳しいでしょう。だからユタカについても何か知っているんじゃないかって、そう思って近づいたの」
 ユタカというホストについては本当に知らなかったが、國彦は目の前の女に興味を持った。この肝っ玉の据わった性格と行動力は使えるかもしれない。
「この際だから本音を言えよ。肚ん中じゃおれのこと、うちの組のことも疑ってかかっているんだろう?」
「あら、なんでもお見通しなのね」
「好きなだけ調べてもらって構わないが、うちはそのホストのことは本当に知らない。何も出ねえぞ」
「どうだか」
 國彦は身を乗り出し、このように申し出た。
「お嬢ちゃん。ここは一つ、おれとタッグを組まないか。おれは別ルートからお嬢ちゃんの彼氏について調べてやる。お嬢ちゃんは彼氏のことを探る中で知り得た情報をこちらに流せ」
 女がポーチから煙草を取り出し、慣れた手つきで火を点けた。
「お嬢ちゃんはこれからも奴らの周辺を嗅ぎ回るつもりなんだろう? だったら事のついでじゃないか」
 女は吐き出した白煙をしばし見つめたあと、「けっしてあなたたちへの疑いが晴れたわけじゃないけども」と前置きし、「わかったわ。これからは愛と呼んで」と、國彦の申し出を承諾した。
 愛は積極的に動いた。彼女は誠心会に急接近し、若頭の宇佐美に認められ、さらには事の流れで浜口とも繋がった。これにより、國彦と愛の関係を浜口に知られることは避けねばならなくなった。そのため、國彦は彼を介さずにユタカの行方を独自に調査してみたのだが、期待していた結果――國彦としても誠心会の所業であることを望んでいた――は得られなかった。当初考えていた通り、ユタカはただ単に飛んだだけなのだろう。
 それからほどなくして、浜口が敵側になびきかけているという噂を愛が掴んできた。國彦は引き続きその動向を追うように指示を出した。
 はたして、浜口はとうとう誠心会に取り込まれたようだった。國彦はその真偽をたしかめるべく、彼を呼び出すことにした。
 だがその直後、浜口は忽然と、煙のごとく姿を消してしまった――。
「親父。どうしてあの女をそこまで信用するんですか」
 シゲが眉をひそめて訊いてきた。
「信用なんざしてねえさ。所詮は小娘、多くの見返りを期待してるわけじゃない。だが、棚はいくつあったって損はしねえだろう」
「棚?」
「ぼた餅が落ちてくる棚さ。もしかしたらあの小娘がとっておきの情報を持ち帰ってくるかもしれないぜ」
 そう答えると、シゲは何か意見を返そうとしたものの言い淀んでいた。
「どうした? 言いたいことがあるならはっきり言え」
 それでもなお、逡巡している様子のシゲであったが、ようやく重い口を開いた。
「親父。五年前の、あの少女を覚えてますか」
 國彦は目を細め、子分をきつく睨み据えた。
「自分には愛って女が――すみません。やめます。つまらないことを言いました」
「おまえには二人がダブって見えるのか」
「そこまでは言いませんが、どこか似たような匂いがするなと」
「ああ、おれもそう感じたからこそ、手駒にすることにしたんだ」
 姿形こそ違えど、愛はたしかに似ていた。國彦が命令を下し、シゲがその手で生き埋めにした少女、七瀬に――。
 やや沈黙が流れたあと、
「愛という女のこと、ちょっと調べてもいいでしょうか」
 シゲが神妙な顔で言った。
「そんなくだらねえことに労力を割いてる余裕はない」
「親父の手は煩わせませんし、下の者も使いません。自分がやります」
 國彦は鼻を鳴らした。
「勝手にしろ」

 

(つづく)