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7
 愛莉衣が歌舞伎町から消えて二週間が経った。十二月も半ばとなり、もうすぐ二〇一九年が終幕を迎える。
 この街で過ごす初めての冬は意外と寒かった。七瀬は東京はもっと暖かいものだと勝手に思っていた。湖で氷上穴釣りができるほど極寒の地域で生まれ育ったので、寒さには慣れているはずなのに、結構しんどい。
 それと眩しいのも嫌だった。比喩ではなく、実際に目に痛いのだ。商業施設は競うように派手なネオンのイルミネーションを施し、路地に立つ木々もこれでもかとLEDが巻き付けられている。だからどこを見ても目がチカチカして休まらない。
 そんな街全体がクリスマスムードの中、トー横広場には毎晩のようにサンタクロースたちが押しかけていた。
 その正体はPYPの連中だった。誰のアイディアか知らないが、ボランティアスタッフはみな、真っ赤なサンタの仮装をして――これまた帽子にPYPのロゴが描かれていてクソダサい――炊き出しを行っているのだ。そしてそんな彼らの活動を報じるべく、多くのマスコミも連日のようにやってきていた。
 愛莉衣の死はメディアで大きく取り扱われ、これによってPYPの存在は広く世に知られることになったのだ。
 そしてそれを境に、PYPは少年少女を救う活動と並行して、SOGIESC理解増進法案とやらを喧伝し始めた。代表の藤原悦子は、「性的マイノリティの方々が生きやすい社会こそが世界平和の印なのです」と、声を嗄らしている。
 そんな藤原は今この瞬間もトー横広場の隅でマスコミに囲まれ、マイクを向けられていた。遠巻きに眺めても饒舌なのがわかった。
 七瀬は吸っていた煙草を踏み潰し、その集団に近寄って行った。そのままマスコミの輪の中に分け入り、「藤原代表、よかったですね。愛莉衣のおかげで有名人になれて」と、野次を飛ばした。
 一瞬、顔を引きらせた藤原だったが、すぐに取り繕い、「ちょっとごめんなさい。すぐ戻ります」と、マスコミに断ってから、七瀬の腕を掴んでその場を離れた。
 そのまま人目のつかない路地裏まで連れて行かれ、建物の壁にドンと押しつけられた。
「あなた、いったいなんのつもり」と、藤原は鬼の形相で迫ってくる。「ちゃんと辻のことはケジメをつけたでしょう」
 先週、辻篤郎はPYPをクビになったらしい。どういう経緯でそうなったのかは知らないが、おそらくあの男がバカ正直に失態を告白したのだろう。
「これ以上、何を求めてるのよ。口止め料でもほしいわけ?」
「金なんか要らない」
「じゃあなんなのよ」
「あんたがムカつく。ただそれだけ」
 この女は愛莉衣の死を利用した。涙しながら、ほくそ笑んでいた。
 友の命を冒涜した罪は必ず償わせてやる。
「きっとあんたにとってさ、愛莉衣の死は願ってもなかったことだよね」
「そんなはずがないでしょう。悲しみに暮れているに決まってるじゃない」
「いいから、そういうの。あんたの正体なんてハナっから見抜いてるから」
「わたしの正体って何よ」
「クソババア」
 藤原が目を剥いた。だがすぐに口の片端を吊り上げた。
「愛莉衣ちゃんの死が願ってもなかったかって? じゃあ本音を言ってあげる。僥倖ってとこね」
「ギョーコウ?」
「ラッキーだってこと」
「……」
「これで満足でしょ」藤原が微笑みかけてくる。「わたしね、いつも我慢してるの。何に我慢してると思う?」
 七瀬は答えずにいると、藤原が語を継いだ。
「答えは、あなたたちトー横キッズに。わたし、甘ったれのガキどもを見てると虫唾が走るのよ。あなたたちって、生きててもなんの価値もないゴミだから。その自覚ある?」
 七瀬は鼻を鳴らして、煙草に火を点けた。
「あるよ。十分」
「そう。それはなにより」
「うちらがゴミならあんたはなんなの」
「わたし? わたしは……そうね」と、藤原は人差し指を顎に当てる。「選ばれし者でしょうね」
 七瀬は煙草を深く吸い込んだ。
「言っとくけど、わたしはこんなちんけな団体の代表なんかで終わるつもりなんてないから。ここから一気にのし上がるわよ。今に見ておきなさい。近い将来、藤原悦子は名実ともに――」
 肺に溜め込んだ煙を藤原の顔面に吹きつけ、言葉を遮った。
「あんたこそ今に見てろよ。PYPごと葬ってやるから」
 藤原が鼻で笑う。
「あなたみたいな小娘に何ができるかしらねえ」
「……」
「知ってる? わたしって有事にとっても強いの。小娘にはわからないだろうけど、大人には大人の対処法ってのがあるのよ――それじゃあね」
 藤原はそう言い残し、身を翻した。
 だが、数歩行ったところで足を止めた。
「最後の忠告。これ以上、わたしの邪魔をしたらただじゃおかないよ」
 振り返らずに言い、彼女は去って行った。
 その背中を七瀬は凝視した。
 藤原の余裕綽々な態度が気に食わないし、解せなかった。
 辻がクビになったということは、あの男のノートパソコンとスマートフォンが七瀬に奪われたことは当然、藤原も知っているはずだ。にもかかわらず、あの強気な態度はなんなのか。
 もしや、あの中に入っていたデータは取るに足らないものだったのだろうか。
 いいや、絶対にそんなことはない。実際に矢島は想像以上の収穫だと言っていたはずだ。
 となると、藤原は七瀬が金目的で窃盗したものと考えているのかもしれない。その中身ではなく、物品自体を狙ったと認識している可能性がなくはない。
 だがはたして、本当にそうだろうか。
 ここまで考えて、七瀬は息を飲んだ。
 一瞬、嫌な想像が頭をもたげたからだ。
 スマホを取り出し、矢島に電話を掛けた。コール音が鳴る。十秒、二十秒、矢島は応答しなかった。
 舌打ちした。《折りテルちょうだい》ショートメールを打っておいた。
 七瀬は路地裏をあとにし、雑踏の中に身を投じた。うざったいクリスマスイルミネーションの光に晒されながら、改めて思考を巡らせる。
 矢島は以前、辻から奪ったデータは依頼主に渡すと言っていた。そしてその依頼主がメディアを通して、PYPの不正行為及び悪しき実態を暴く算段であると、そのようなことを語っていた。そうしてPYP、ひいてはK党の目論見――SOGIESC理解増進法案――を潰すことが最大の目的だったはずだ。
 ただし、これは依頼主の目的であって、矢島のではない。
 はたして矢島はデータをきちんと依頼主に渡したのだろうか。
 もしかしたら矢島は依頼主を裏切り、PYPに寝返ったのではないか。
 矢島は義理人情など持たない、利に聡いタイプのヤクザだ。サチの言う「任侠道を行く男伊達」などとはもっとも遠い場所に位置しているだろう。
 矢島は新大久保の韓国料理屋で、辻のノートパソコンの中を探索していた際、「おいおいマジかよ」と、目を丸くしてつぶやいていた。
 それが何を指していたのかはわからない。だが驚愕するような事実を発見したのだろう。
 そこで彼は考えた。はたしてどちらと手を組む方が自分にとって得なのか。
 結果、あのヤクザはPYPに接触を図り、交渉を持ちかけ、そして寝返った――。
 信じたくはないが、さもありなんと思った。そうでなければ先ほどの藤原の言動と整合性が取れない。データが流出することはないとタカを括っているからこそ、あのような余裕の構えだったのだ。
 考えれば考えるほどそれが正しい気がしてきた。
 でも、大丈夫。七瀬は自分に言い聞かせた。あたしには辻のスマホがある。いざとなれば自ら動けばいいのだ。
 七瀬がそんな思考を巡らせて花道通りを歩いていると、「お嬢ちゃん。ストップ」と、知った声に呼び止められた。
 声の主は刑事の小松崎だった。飯でも食ってきたのか、爪楊枝を咥えている。
「ったく、まだ歌舞伎町をうろついてんのか」
「いけない?」
「ああ、いけないな。早いところ家に帰れ」
「ないよ、そんなもの」
「そうか、お嬢ちゃんは家なき子だったな」小松崎は苦笑している。「そういやちょっと前、トー横キッズの女の子が亡くなっただろう。あの子は友達か」
 七瀬は答えなかった。
「お嬢ちゃんはやるなよ」
「何を」
「オーバードーズってやつさ」
「大丈夫。体質に合わないみたいだから」
「やったことあんじゃねえか」
 呆れたように言われた。
「ねえ、死にかけてる人を見殺しにしたら罪になんの?」
 七瀬が訊ねると、小松崎は眉をひそめた。
「なんでそんなことを訊く」
「別に」
「なんかあったから訊くんだろう」
「教えてくれないならいい」
 七瀬が立ち去ろうとすると、「罪にならん」と、小松崎は言った。
「もちろん、そのときの状況、関係性にもよるがな。仮に死にかけてる状況にある者があかの他人だったとすれば助ける義務は法的にはない。不作為の罪に問われるのは保護責任者の立場にあるような――」
「もういい」
 七瀬は歩き出した。「質問しといてそれかい」背中の方で小松崎の嘆きが聞こえた。
 七瀬はふいに立ち止まり、振り返った。
「刑事さん、拳銃持ってるよね」
 小松崎がスッと目を細めて見てきた。
「今は携帯してない。常に拳銃を持ち歩いてるのはドラマの中の刑事だけだ」
「でも持ってんでしょ」
「ああ」
「じゃあ今度貸して」
 七瀬は身を翻し、再び歩み始めた。
 ユタカには最大の罰――極刑を下さねばならない。噂によれば愛莉衣が死んだとわかったとき、あのクソガキは「ざまあ」と嘲笑ったらしい。
 藤原悦子は社会的抹消にとどめてやるが、ユタカは文字通り息の根を止めてやる。
 そう思うと、自分にはやらねばならないことがたくさんある。
 七瀬は小さくため息をついた。愛莉衣が死んだことで生きる目的ができてしまった。暇を持て余していた日々が遠い過去のように感じる。
 それから七瀬はコディのもとへ向かい、いつものようにコカインを買い求めた。今回は七瀬が物騒な相談をしてこなかったからだろう、コディはホッとしている様子だった。去り際、馬鹿でかい手で、「イイコイイコ」と、謎に頭を撫でられた。
 一方、次に訪れた『きらり』ではサチにさめざめと泣かれてしまった。七瀬がトマトジュースを舐めながら、人を殺すつもりだと語ったからだ。
 理由を訊かれたので、七瀬が正直に答えると、「気持ちはよおくわかった」と、サチは理解を示してくれた。
 だが、そのあとに「けどね」とつづけた。
「殺しちまうこたあないさ。だいいち、そのユタカという小僧だって命を奪われるほどのことはしていないと思うけどね。ちがうかい?」
 七瀬は「ちがう」と答えた。法的にどうだとか、他人がどう思おうが関係ない。七瀬にはそれをする十分な理由があり、それがすべてだ。
 その後も頑なに考えを改めない七瀬を前にして、サチは次第に目を潤ませた。そして、人の命を奪うと深い悔恨に苛まれるのだと、そんなうざったい道徳を涙ながらに説いてきた。はっきりと明言はしなかったが、どうやら彼女には人を殺めた過去があるらしい。「どうしてあのとき思い止まれなかったのかって、この歳になっても思うよ」皺くちゃの顔でそんな言葉を吐露していた。
 七瀬は長居することなく、店をあとにした。
 サチにも、コディにもムカっ腹が立っていた。二人ともろくでなしのくせに、まっとうなことばかりかすからだ。
 七瀬が聞きたいのはそんなのではなく、人を殺す具体的な方法やそのコツだ。
 こうなるとやはり、自ら刃物でも持って突撃するほかないのだろうか。
 だが女の非力でユタカを確実に仕留められるかは怪しい。その点は正直、自信がない。
 一つ明確なのは、その順序だ。おそらくユタカを殺害した時点で、自分は警察に捕まり、身柄を拘束されるだろう。そうなれば藤原悦子とPYPを潰すことはできない。
 つまり、あの女を叩き潰してからでないと、凶行には出られないのだ。
 こんなムカムカした夜は眠れないだろうと思ったが、そんなことはなかった。カプセルホテルに入り、ベッドに横になったらすぐに意識を失った。
 夢を見ていた。
 となりに愛莉衣がいた。自分たちはトー横広場に座り込み、いつものようにダベっていた。
 何がおかしいのか、愛莉衣はずっと笑っていた。七瀬もつられて笑っていた。
 わけもわからず、自分たちは笑い合っていた。
 そんな悲しい夢だった。

 

(つづく)